第062話 月極一千二百万
ロー商会のテネブラエ支所は、港湾区画の一等地にあった。受付には仲買人らしい男たちが順番を待っていて、ハルだけが順番を飛ばして奥へ通された。名指しで呼んだのは向こうだから、当然といえば当然だったが、待たされている男たちの視線は背中に長く残った。葬儀屋、と囁く声が一つ、聞こえた。
応接室に飾りはなかった。壁の一面が回廊の航路図で、もう一面が相場表示。卓は古い金属製で、茶の一杯も出ない。客を迎える部屋というより、客を値踏みする部屋だった。
ウェンディゴ・ローは五十がらみの女で、商隊長の礼服ではなく作業着の上衣を羽織っていた。挨拶はなかった。卓上に契約書の端末を滑らせ、座れとも言わずに本題から入った。
「護衛契約。月極一千二百万cr、ギルド経由。手数料一割五分を引いて、あなたの手取りは月一千二十万。船団は輸送船八隻と武装商船四隻。行き先は第六星系、テッサ入植地。積むのは食料と反応材。封鎖線を抜けてもらう」
「期間は」
「最低ひと月。以後は月単位の更新。打ち切りは商会側の任意。これは呑んでもらう」
「条件を聞こう」
「三つ」彼女は指を立てもしなかった。「撃沈された船への補償条項はなし。護衛対象の優先順位は商会が指定する。そして——積荷の検査はしないこと」
「最後の一つの理由を、聞いても?」
「聞いてもいいけれど、答えない」ウェンディゴは表情を変えなかった。「あなたの仕事は積荷を守ることで、積荷を知ることじゃない。知りたがる護衛は雇わない。それだけ」
ハルは端末の契約文面を上から順に読んだ。読みながら、頭の中で別の計算をしていた。輸送船八隻、テッサまでの公示運賃、封鎖前の相場、保険の特約料率。商会の運賃収入を積み上げ、燃料と船員給与と保険を引く。一往復の燃料代だけで百四十万cr。それを月に二往復として——
計算は単純な答えを出した。この航路は、月におよそ八百万crの赤字だ。
飢えた港に物を運べば高く売れる、という話ではなかった。テッサの住民に四倍の穀物相場を払う力はもうない。商会は封鎖前の契約価格のまま運んでいる。つまりこの女は、月八百万を捨てながら船を出している。美談か、投機か、それとも別の何かか——ハルはその問いを口に出さない代わりに、契約書の別の場所を指した。
「護衛計画に穴が三つある」
「言ってみなさい」
「一つ。船団の集合地点が第六星系ゲートに近すぎる。ここは海賊の哨戒線から光学観測の届く距離だ。集合に手間取る船団の動きは、出航前に全部読まれる。何隻で、どの程度の練度で、どこが弱いか——全部だ。集合は一つ手前の星系でやるべきだ」
「二つ目は」
「航法計画の更新周期が長い。この計画書だと、同じ進入針路を月に三度使うことになる。三度使えば、四度目には網が張られる。封鎖をやる側は暇だ。暇な兵隊は記録を取る。針路は毎回、乱数で変えたい」
「三つ目」
「武装商船四隻の火器管制が、商会の標準規約のままになっている。応戦許可が各船長の判断だ。海賊は拿捕が目的だから、最初の十分は撃ってこない。その十分の間に応戦の判断が四隻でばらつけば、隊列が割れる。割れた隊列は、各個に拿捕される。応戦規定は護衛が一本で握る。つまり、俺が握る」
ウェンディゴは黙って聞いていた。聞き終えると、端末を引き戻し、三カ所をその場で書き直した。役員会に諮る、とも、検討する、とも言わなかった。直しながら、初めて顔を上げてハルを見た。値踏みの目だったが、値札を貼り直す目でもあった。
「ギルドの紹介票には、艦の戦歴しか書いてなかったけれど」
「戦歴で食っている艦だ」
「いいえ」彼女は端末をまた滑らせてよこした。「葬儀屋は艦より先に、帳簿を撃つのね」
署名欄が表示されていた。ハルは指紋と登録符号で署名した。月極一千二百万。傭兵稼業を始めてから最大の定収であり、最大の拘束だった。
「最初の船団は三日後に出す。集合地点は、あなたの言った通りに変える」ウェンディゴは立ち上がり、これで面談は終わりだという顔をして、それから付け足した。「沈んだ船の補償はしないと言ったわね。あれは船の話。乗っている人間の保険は、商会が別に掛けてある。誤解しないように」
「……覚えておく」
「期待はしないこと。期待は帳簿に載らない」
◇
艦に戻り、ハルはクルーを食堂に集めた。契約条件を読み上げ、月一千二十万の手取りと、一往復百四十万の燃料と、補償なしの三文字を、同じ平らな声で並べた。
「長期契約だ。最低でもひと月、おそらく数カ月。艦は飛び続けることになる。整備の窓は往復の合間にしか取れない」
「……了解」ヴェインは航路図を一瞥しただけだった。「縫航で三十八時間。長い廊下だ。検問のある廊下は、もっと長い」
「ドク。艦が長く港を離れる。医療品の在庫を」
「もう積んである」ナナオは湯呑みを傾けた。「外傷一式と、火傷の処置を厚めにな。護衛の怪我は焼けるか凍えるか、だいたいどっちかじゃ。——それより艦長、わしは商売の心配をしとるよ。封鎖された港に飯を運ぶ商いはな、美談か投機か、どっちかじゃ。美談なら長続きせんし、投機なら降り時がある。雇い主がどっちか、見極めとくことじゃな」
「どちらでもなかったら」
「ほう」ナナオは湯呑み越しに笑った。「そりゃ一番厄介なやつじゃ。降りん人間は、止まらんからの。止まらん人間に雇われた護衛は、降り時を自分で決めねばならん」
「降り時は決めてある」ハルは言った。「船団が全滅する前だ」
「冗談に聞こえんのが、あんたの悪い癖じゃ」
ツクモが天井のスピーカーから割り込んだ。
「契約をギルドの登録系に提出しました。等級査定上、本契約は当艦の実績に大きく加算されます。並行して報告します。中枢杭の在庫が現在ゼロです。赤標域で最後の一本を使用したまま、補充されていません」
「……分かっている」
「護衛任務に杭は不要ですが、当艦から杭を除くと、残るのは回廊で最弱の砲と、逃げ足だけです。問題は調達です。正規の放出品市場は、例の買い戻しで枯れています。ただし——前回の仲買人が、買い戻しの手が回る前に二本だけ抱き込んでいます。言い値は一本三百万、二本で六百万。相場の二割増しですが、最後の在庫です。納期十二日」
残高二千十二万から、燃料と杭を引けば千四百万を切る。月の固定費九十万。ハルは帳簿の数字を頭の中で並べ、それから護衛だけで済む保証がどこにもないことを思った。封鎖は静かに座っているだけの相手ではない。座っているだけで月二千万を食う化物を、誰かが飼っている。飼われた化物は、いつか必ず牙の使い途を探す。
「二本、買え。言い値でいい」
「発注しました。買い戻しの主が誰であれ、彼らより先に握れたのは幸運です。残高、一千三百四十一万crです」
食堂の隅で、ヨルが話を聞いていた。聞いて、全部は分からないなりに、自分に関わる一行だけを正確に拾った。
「……わたしは、ふねに、いる?」
「ああ」ハルは頷いた。「長い航海になる。だが港には降ろせない。どこの港にもだ。すまない」
「いい」ヨルは首を振った。語彙が足りないぶん、結論だけが早かった。「ふねが、いい」
「ふねが、いい、か」ナナオが小さく繰り返した。「そう言うてくれるんはありがたいがの、嬢ちゃん。狭いとか、退屈とか、そういうことはな、言うてええんじゃぞ。言う練習じゃ」
「……せまい」ヨルは少し考えてから、律儀に練習した。「……でも、ふねが、いい」
◇
三日後。輸送船八隻と武装商船四隻が、変更された集合地点で隊列を組んだ。輸送船はどれも船齢二十年を超えた古株で、満載の船体は重く沈んで見えた。穀物、保存食、医療品、反応材。十二隻でおよそ六百トン。それがどれほどの量で、どれほど足りないかを、ハルはまだこのとき、帳面の上でしか知らなかった。
《送り火》は船団の斜め後方、光学にもレーダーにも映りにくい位置についた。葬列の最後尾に似ている、と思ってから、ハルはその連想を打ち消さなかった。どうせ港では皆そう呼んでいる。
「全船、縫航充填完了」ツクモが告げた。「封鎖線まで三十八時間です」
ヴェインが無言で舵を握った。第一船団、出航。飢えた港への長い廊下が、目の前で開いた。