第087話 偽の命令
敵艦隊の指揮リンクは、開いた手術創のように戦術図に表示されていた。
ここに何を流すかで、十六隻と、その中の千人余りの命運が決まる。ツクモは選択肢を三つ、平坦に並べた。
「第一案。偽の標的情報を流し、敵艦隊を同士討ちまたは機雷網残骸へ誘導します。撃滅効率、最大。第二案。リンクを単純に切断します。敵は個艦戦闘に移行し、戦闘は長期化、双方の損害は増大します。第三案——」
「第三案でいく」ハルは言った。「撤退命令だ」
「は。旧同盟軍の正規書式による、全艦撤退命令。発令権者の認証が必要です」
「艦隊符丁はヴェインの生成則で立ててある。発令書式は……俺が書く」
通信卓に向かって、ハルは書式を呼び出した。
軍の命令電文には、決まった骨格がある。発令者、日時群、宛先、本文、認証列。本文は短いほど本物らしい。本物の軍隊は、撤退の理由を兵に説明しない。
——全艦、交戦中止。集結点ホシ三へ後退。負傷艦優先。以上。
指が、署名欄の手前で止まった。
七年前の夜、彼は本物の命令を運んでいた。全自律艦への帰還命令。あれも短かった。あれも書式は完璧だった。完璧な書式のまま、中継網の沈黙の中へ消えて、数百隻に届かなかった。届けるべき本物を届けられなかった男が、いま、届くと分かっている偽物を、一字の乱れもない書式で書いている。
あの夜、彼は二十四歳だった。中継卓の前で、送信完了の応答灯が点くのを待っていた。外縁方面の中継網は、応答しなかった。何度送っても、しなかった。回線試験は正常で、機器は正常で、ただ応答だけがなかった。正常な機器の沈黙ほど、人を狂わせるものはない。あの夜の沈黙の中身を、彼はまだ知らない。
いまは、届く側のことだけ考えろ、と自分に言った。この命令は届く。届いて、人を生かす。偽物でも、それだけは本物にできる。
誰も急かさなかった。ツクモも、沈黙の三十秒を計測だけして、何も言わなかった。
ハルは署名し、送信キーを押した。指は、押す瞬間だけ、わずかに重かった。電文は重さのないまま、リンクの樹形図を一斉に駆け上がった。
効果は、二分で現れた。
右翼で武装商船群を押し込んでいた駆逐艦二隻が、砲撃を中断した。機動が躊躇い、それから、教範どおりの離脱反転に入った。改装船が続く。本隊の後衛が続く。命令は正規の認証をまとい、正規の経路で届いた。疑う理由を、現場の艦は持たない。命令に従うことに、艦隊の兵は七年かけて慣らされている——どちらの軍でも。
ツクモが離脱艦を一隻ずつ数えた。D7後期型、離脱。E9型二隻、離脱。改装船——七隻、八隻。読み上げの声はいつもどおり平坦で、その平坦さが、今回ばかりは祈りに似た律動で続いた。一隻離脱するたび、沈む艦が一隻減る。
「改装船の一隻が、離脱針路の途中で停止しました」と、途中で一度だけ報告が挟まった。「機関故障と推定。僚船が……曳航索を渡しています。命令にない行動です」
「放っておけ。命令にない行動のうち、ああいうのは見逃す」
「敵艦隊、計十三隻、離脱針路」ツクモが集計した。「集結点座標は実在の旧同盟泊地です。離脱艦の追撃は」
「しない。介入部隊にもさせるな。『追撃は機雷残骸により危険』で勧告を流せ」
従った艦は、生き延びる。それがこの偽の命令に、ハルが仕込んだ唯一の本物だった。
従わなかったのは、三隻だった。旗艦のD7後期型と、直衛の改装船二隻。旗艦だけが、撤退命令の出所を疑える位置にいた——なぜなら、自分が出していないからだ。だが疑った時には、艦隊はもう散っていた。指揮官の正しさは、従う者がいて初めて力になる。十三隻に置き去りにされた正しさは、ただの孤立だった。
包囲が閉じる直前、旗艦が平文の短い通信を直衛二隻に流すのを、《送り火》は傍受した。
——以後の命令はすべて無効とする。各艦、乗員の保全を最優先とせよ。いままで、よく付き合ってくれた。
偽の撤退命令を見抜いた男の、本物の最後の命令だった。書式は崩れていて、認証もなく、だからこそ誰にも偽造できない種類の文面だった。ヴェインは操舵席でそれを聞き、聞こえなかったという顔で前を向いていた。
統治府艦隊と介入部隊が、残った三隻を扇形に囲んだ。三十分の睨み合いのあと、旗艦は直衛二隻に降伏を命じ、最後に自艦の戦闘系を落とした。最後まで、部下を先に降ろす順序だった。
戦闘終了。
数字は、夕方までに揃った。分離派——降伏三隻、乗員四百十二名拘束。離脱十三隻。戦死者、駆逐艦の砲戦と商船二隻の被弾で、推定六十名超。
統治府・介入部隊側——介入部隊の武装商船二隻大破。そしてフリゲート一隻、轟沈。
フリゲートは右翼の崩れを支えに入って、駆逐艦の集中射を受けた。轟沈までの時間、十一秒。脱出艇、なし。乗員三十九名、全員戦死。介入部隊の編成表で、《送り火》の三つ隣に書かれていた艦だった。
艦名は、編成表の上では番号と港の名前の組み合わせでしかなかった。ハルはその夜、艦長の経歴だけ読んだ。元は税関の監視艇長で、介入部隊の編成で繰り上がった五十二歳。戦列勤務は、今回が最初だった。最初で、最後になった。
偽の命令が二分早ければ、と考える権利は、ハルにはなかった。二分早く打てる材料はどこにもなかったと、戦闘記録は証明している。証明されても、三十九という数字は軽くならなかった。
降伏した敵指揮官の移送は、翌朝、シネレオ港の桟橋であった。
手錠の男は五十がらみで、痩せていて、背筋だけが軍人のままだった。統治府の憲兵が両脇を固め、報道が照明を焚き、桟橋の難民たちが黙って見ていた。統治府の公報はすでに「反乱軍首魁の身柄確保」を打電している。裁判の結果は、裁判の前から書かれていた。
ヴェインは、通路の窓からそれを見ていた。
何も言わなかった。窓の手すりに置いた手も動かなかった。戦犯リストに名前の載った男が、戦犯にされていく男の背中を、ガラス一枚と七年を挟んで見送っていた。ハルは隣を通り過ぎ、声は掛けなかった。掛ける言葉の持ち合わせは、この稼業を始めてから一度も補充できていない。
その夜遅く、食堂で茶を淹れていると、ヴェインが入ってきて、向かいに座った。何も言わずに一杯を飲み干し、立ち上がり際に、一言だけ置いていった。
「……あの撤退命令で生きて帰った千人の中に、あいつの部下もいる。それだけだ。それだけのことを、言いに来た」
慰めの語彙を持たない男の、それが精一杯の経理だった。貸借は合わない。合わないが、空欄よりはましだった。
艦に戻ると、端末に通知が二件並んでいた。
一件目。保安機構より、戦功加算八百万crの入金通知。機雷網無力化および敵艦隊解散への寄与、と摘要にあった。
二件目。介入部隊司令部より、フリゲート乗員名簿の回覧。弔慰手続きのため、とあった。三十九の名前は階級順に並び、一番下の機関員は十九歳だった。
同じ画面に、八百万と、三十九人。
ハルは長いことその画面を見て、それから自分の帳簿の「還らない数字」の頁に、39、と書いた。敵側の推定六十も、その下に書いた。命令ひとつで人が生き、命令ひとつで人が死ぬ。俺はそれを、七年前から知っていたはずだ——知っていることと、慣れることは、いつまで経っても別の科目だった。
扉の気配に顔を上げると、ヨルが毛布を肩に掛けたまま立っていた。眠れない夜の、いつもの巡回だった。
「ハルも、かいてるの」と、彼女は帳簿を覗かずに訊いた。
「書いてる」
「さんじゅうきゅう、と、ろくじゅう?」
「ああ」
「……わたしの、ちょうぼにも、かいて、いい?」
「いいも悪いもない。お前の帳簿だ」
ヨルは頷いて、自分の端末に数字を二つ打ち、それから毛布ごと椅子に丸くなって眠った。数字を書く者が、この艦には二人いる。二人とも、書いても軽くならないことを知った上で、書いている。
精算書類を提出しに桟橋へ降りると、タラップの下に男が一人、立っていた。
戦災の港には不似合いな、皺のないグレーの文官服。襟に、星系連合の紋章。
「アマノ・ハル艦長。——いや、こう呼ぶべきかな。葬儀屋の艦長に、提案がある」