第088話 私掠免状
文官は名乗らなかった。所属だけを名乗った——星系連合、通商監理局、外縁駐在。名前のない役職、というのが中央の流儀であることを、ハルは軍にいた頃に覚えている。名前を出す価値のある話は、名前のない男が持ってくる。
会談は《送り火》の食堂で行われた。文官がそれを希望した。「あなたの艦を、一度見ておきたかった」という理由ごと、ハルは記録に残した。
文官は艦内を値踏みする目で歩いたが、何も訊かなかった。乗員の数も、医務室の薬棚も、閉じた区画の扉も、目の端に入れて、入れたままにした。訊かない、というのは知らないことではない。訊く必要がないだけ、ということだ。中央の書類の中でこの艦の素性がどこまで割られているのか——その見積もりを、ハルは会談のあいだじゅう、頭の隅で更新し続けた。
「単刀直入に言う。分離派の艦隊は散ったが、内戦は終わらない。彼らの本体は艦隊ではなく、資金源だからだ」文官は卓上に資料を広げた。「戦場サルベージ。大戦残骸からの武器部品の採掘と転売。年間取引規模、推定四十億cr。これが涸れない限り、艦隊は何度でも編み直される。あなたが兵站会議で指摘したとおりだ——議事録は読ませてもらった」
「本題を」
「残骸交易の遮断。具体的には、分離派系の輸送船の臨検、拿捕、押収だ。これを正規艦隊でやれば、一個戦隊を最低半年、費用にして十二億から十五億。中央はその予算を外縁の内戦に割かない。割く理由がない」文官は一枚の書面を、資料の上に置いた。「だが、私掠免状なら一枚で済む」
私掠免状。
連合の名において、指定対象の船舶を停船・臨検・拿捕する権限を民間船に付与する許可状。拿捕品は検認のうえ権利の七割が免状保持者に帰属する。大戦中ですら発行が躊躇われた、合法と無法の境界線上の紙だった。
「報酬は拿捕品の権利と、この紙一枚。連合の持ち出しは、ほぼ零だ」文官は採算表を悪びれもせず見せた。正規艦隊十二億の隣に、免状一枚、印紙代込みで三千crと書いてあった。「あなたを選ぶ理由も言っておこう。第一に、撃たずに停船させる技術がある——昨日の艦隊戦が証明だ。第二に、悪名だ。『葬儀屋が通商破壊に出た』という噂は、護衛を三隻つけるより多くの船を引き返させる。あなたの名前は、もう抑止力として値段がついている。中央はそれを、買いたい」
「悪名を買う、と言ったな」ハルは資料から目を上げた。「買った悪名が、中央の手に負えなくなったらどうする」
「免状を失効させる。それで終わりだ」文官は事務の声で答えた。「紙でできた権限は、紙の速度で消せる。だからこそ、あなたに渡せる。——お互い、信用の話はやめておこう。これは条件の話だ」
信用の話をしない相手の方が、信用の話をしたがる相手より扱いやすい。軍と役所で覚えた、数少ない実用の知恵だった。
悪名が、札として買われる。畏怖と憎悪で膨らんだ名前が、印紙代三千crの紙に換算されて、卓の上に置かれている。ハルは紙を手に取らず、まず訊いた。
「考える時間を」
「四十八時間。それを過ぎれば、次の候補に回す」文官は立ち上がった。「ああ、それと——次の候補は、停船命令より先に撃つ連中だ。参考まで」
クルー会議は、その晩に開いた。
免状の写しを卓に回す。最初に口を開いたのはツクモだった。
「整理します。連合の名の下に、商船を待ち伏せ、停め、積荷を奪う許可。対価は拿捕品の七割。——合法の海賊になれ、ということですね。艦長、ご決断を」
「まだだ。全員の話を先に聞く」
「では、その前にデータを一件、追加します」とツクモは続けた。「大戦中の私掠免状の運用記録、十七件。うち十一件で、免状保持者は戦後に訴追、または変死しています。役目を終えた私掠船の処遇として、統計的に有意です」
「……それも判断材料に入れろと」
「事実の提示です。判断は、艦長の領分です」
ナナオは免状の条文を老眼の距離で眺め、鼻を鳴らした。
「ギルドの登録証、保安機構の準指定、今度は連合の免状か。やれやれ。肩書が増えるたびに棺桶が立派になるのう。……わしは反対はせん。反対せん理由も言うとくと、この内戦が長引くほど、あの港の配給の列が伸びる。列の先で死ぬのは兵隊じゃない方じゃ」
ヴェインは、長く黙っていた。
沈める相手は分離派の輸送船——同盟系入植地の、食い扶持を運ぶ船でもある。封鎖する側に回るということが彼の中で何と衝突しているのか、誰にも見えたが、誰も急かさなかった。やがて操舵手は一言だけ言った。
「……舵は、握る。決めるのは艦長だ」
賛成とも反対ともつかない、それが彼の出せる全部だった。ナナオが、ヴェインの湯呑みに茶を注ぎ足した。注ぎ足しただけで、何も言わなかった。言わないことが、この老人の処方箋であることもある。
ヨルは、回ってきた免状の写しを両手で持ち、しばらく文字を目で追ってから、ハルに返した。
「むずかしいことばが、いっぱい。……ハルが、きめて。ハルがきめたら、わたしは、それをてつだう」
「丸投げじゃな」とナナオが言い、「ぶんたん」とヨルが訂正した。
決めるのはハルだった。最初からそうだった。
受ける理由は、二つあった。一つは単純で、金だ。介入任務の契約はいずれ終わる。杭の補充経路は細く、艦は老い、クルーは増えた。この艦を飼い続ける金を、選り好みできる立場に自分たちはいない。
帳簿の数字も添えた。介入契約の残金一千二百万は完了時まで凍結。杭の補充経路は押収品頼みで、次の放出の保証はない。艦の入渠整備は四ヶ月先送りのままで、ナナオの医薬品台帳には在庫切れの品目が三つ。金の話は士気を下げる、と言ったのは昔の上官で、金の話をしない部隊から順に飢えた、と言ったのは兵站の教官だった。ハルは教官の側の人間だった。
もう一つは、帳簿の外の理由だった。
「八三番宙域で沈めた哨戒艦に、何かが定期的に『数えに』来ていた。識別符号を残さない、軍の作法で」ハルは戦術図に交易路の推定線を引いた。「残骸交易を臨検すれば、荷の流れが見える。杭を一本四百万で買い漁る金主も、還らず艦を数えに来る何かも、必ずどこかでこの市場に触れてる。免状は——その帳簿をめくる権利でもある」
「決定と理解します」とツクモが言った。「私掠免状、受領。本艦の任務分類に『通商破壊』を追加します。葬送艦の経歴としては、初めての職種です」
署名は、翌日の正午に済んだ。
文官は判の乾く間に月次の事務連絡を二件置いていき(給与・保険・港湾費の月次精算百五十万の引き落としと、ちょうど同じ日付だった)、免状の正本が《送り火》の金庫に収まった。
カンプには、ギルド経由の定期報告に一行だけ書いて送った。連合の私掠免状を受けた、対象は分離派の残骸交易、と。返信は翌日に来て、これも一行だった。
——聞かなかったことにしたいが、今回は聞く。条項の写しを送れ。
役人の言葉の二層目が、珍しく上の層まで滲んでいた。
その夜、ハルは一人で正本を読み返した。職業病だった。契約書は署名のあとにもう一度読む。そこで初めて見える行が、必ずある。
免状の正本は、古風な造りだった。電子認証の時代に、わざわざ繊維紙に刷られ、連合の紋章が箔で押してある。物としての重さを持たせた紙は、持たされる側に「これは特別だ」と思わせるための道具だ。思わせたい側の意図ごと、ハルはもう一度、最初の行から広げた。
あった。
拿捕対象の指定条項。第一項、分離派武装勢力に帰属する船舶。第二項、密輸品を輸送する船舶。そして第三項。
——無主自律艦、及びその支援勢力に帰属する船舶。
無主自律艦。還らず艦の、法律用語だった。それに「支援勢力」という言葉が、当然のように接続されている。漂流する残骸に、支援する勢力。誰かがいて、何かを運び、組織として動いている——そう書かなければ成立しない条文だった。
連合が、還らず艦を「勢力」と呼んだ公文書を、ハルは他に知らない。
これが、最初の一枚だった。