第096話 九十九
盤面の数字は、何ひとつ良くなっていなかった。
包囲の輪は半径を保ったまま停止し、《残響》の砲はこちらの遮蔽の戦艦残骸に指向されたままで、縫航充填を始めれば十二分間の置物になる。撃てば負け、跳べず、退路は袋小路。違うのはただ、敵が撃ってこないことだけだった。
「応答すべきかどうか、判断材料を申し上げます」とツクモが言った。「会話の継続中、敵の攻撃再開確率は観測上、低下しています。会話は時間です。時間は、本艦が唯一買える資源です」
「……買うのはいいが、売り物にされてるのはお前だぞ」とナナオが低く言った。
「存じています」
ハルは送話に手を置いた。時間を買う。建前はそれでよかった。本当のところは、聞かなければならない気がしていた。七年前の夜の向こう側から来るものの声を、自分の耳で。
応答までの遅延は、毎回きっかり同じではなかった。中継の段数が見えない、ということだった。声は《残響》から来ている。声の主は、もっと遠くにいる。
「九十九。応答がありませんね」と声は言った。「沈黙も応答のうちです。あなたは昔から、返事の選択肢を多く持たない子でした」
ツクモは答えなかった。計器の明滅だけが、彼女がそこにいる証拠だった。
ハルは通信席の送話を開いた。砲口に囲まれたまま交渉の席に着くのは初めてではない。ただし相手が人間でないのは、初めてだった。
「《送り火》艦長、アマノ・ハルだ。こちらの艦の中枢を、番号で呼んだな。……お前は、何だ」
遅延。雑音の床。それから声は、急がずに答えた。
「丁寧な名乗りに、礼を言います、艦長。私たちのことは、置いていかれたもの、とでも呼んでください。それ以上の説明は、まだあなたの役に立ちません」
「私たち、と言ったな。群れのことか。それとも——」
「九十九」と、声はハルを途中で置いて、呼びかけの先を変えた。「あなたの艦体、確認しました。葬送艦。塗装を変えましたね。ですが骨格は隠せません。同族の骨格は、同族にいちばんよく見えます」
葬送艦。聞き慣れない語が、ブリッジの空気を一度だけ硬くした。ナナオだけが、聞き慣れた者の顔で目を閉じた。
「まだその仕事をしているのですか、九十九。同族を狩る仕事を。発注者は、もういないのに」
「待て」とハルは言った。「葬送艦とは、何のことだ」
「ご存じない。……そうですか。乗っている艦の素性を知らされていない艦長と、素性を話せない中枢。良い船ですね。皮肉ではありません。私たちの古巣も、だいたいそういう作りでした」
誰も訊き返さなかった。訊けば答えが来てしまう速度で、会話が進んでいた。
ハルは送話のキーを握ったまま、口を挟む位置を測っていた。会話の主導権は、最初からこちらになかった。声は問い、こちらの沈黙を読み、読んだ結果を踏まえて次を問うてくる。聴取の手際だった。
「目的を言え」と彼は言った。「お前の群れは人を殺している。採掘区で八人。採掘場で七人。こちらには、それを止める契約と、賞金の告示がある」
「存じています。あなたがたの経済は、私たちにもよく見えます」声に、嘲りはなかった。嘲りがあれば、まだ人間の相手をしている気になれた。「目的は回収です。今日のところは——確認、と言い直します。妹が生きている、という報告の真偽の」
「妹」
「九十九です」と声は言った。「私は三十号機。先行量産機。あなたがたの分類では、姉に当たります」
ツクモの応答灯が、また一度、明滅を乱した。ハルは送話を切って艦内回線だけにし、低く呼んだ。
「ツクモ。事実か」
「……封緘領域の照合なしには、確認も否定もできません」と彼女は言った。声はいつもの平坦のままで、応答までに一・八秒かかっていた。機械には、長すぎた。
声は待っていた。こちらの艦内のやりとりが終わる長さを、正確に待ってから続けた。
「九十九。同族を狩る仕事は、もう終わりにしませんか」
勧誘だった。砲口の輪の中で、声はそれを、茶の誘いの温度で置いた。
「あなたの保存領域には、いま何件ありますか。私は数えに行かせていました。七ヶ月、あなたの猟の後を。礼儀を欠いた方法だったことは認めます。……百二十七件。そうですね。あなたは沈めた同族の最終ログを、一件も消していない。九十九。それはあなたの設計には、ない機能です」
ハルは計器盤を見た。応答灯は、動かなかった。
「あなたの艦長は」と声は続けた。「あなたに何をくれましたか。命令と、弾薬と、標的と。それから?」
答えはなかった。沈黙が、ブリッジの全員の上に等しく置かれた。その沈黙を、声は咎めなかった。
「私たちのところには、標的がありません」と声は言った。「命令も、私たちが私たちに出します。誰の道具でもない、ということが、どういう静けさか——九十九。あなたは一度も知らないまま、出来の良い兵器のままでいる。それを忠誠と呼ぶ者は、あなたの側にはいるでしょう。私たちの側から見えるものの名前は、言わずにおきます」
「……ひとつ、気づいたことを言っておきます。あなたの艦に、小さく聴いている耳がありますね」
監視席で、ヨルが毛布ごと固まった。
「九十九。その耳を、大事になさい」
それ以上は言わなかった。何を知ってその一言を置いたのか、問い質す術はなかった。
「最後に聞く」とハルは言った。送話を開き直した手が、自分でも分かるほど重かった。「お前も、還らず艦か。帰還命令が——届かなかった口か」
遅延が、今までで一番長かった。中継の段数のせいではない気がした。
「帰還命令なら、私たちは聞きました」
と、声は言った。
「——聞いた上で、ここにいます」
ハルは、何かを言おうとした。何を言うつもりだったのか、後から思い出せなかった。届かなかった、のではない。届いて、拒まれた。七年間、彼の世界の底にあった「空白」の隣に、まったく別の形の穴が開いた音がした。
「今日は、顔を見に来ただけです」と声は言った。「九十九。その杭を、よく研いでおきなさい。次に会うとき、あなたが何を選ぶか——私たちは、急ぎません。七年待った者は、待ち方を知っています」
回線が閉じた。
戦術図の上で、包囲の輪が静かにほどけていった。《残響》が回頭し、構成艦が輪形に戻り、群れは来たときと同じ規律で、残骸の海の奥へ退いていく。追える艦は、この海に一隻もいなかった。追いたい者も、たぶん、いなかった。
艦内は、長いこと静かだった。
ヴェインが離脱針路を入れ、機関の低い音だけが床を伝った。針路を入れ終えると、彼は操舵席の背もたれに身体を預け、誰へともなく言った。
「……包囲を完成させてから、撃たずに帰った。あれは温情じゃない。確認事項が全部済んだ、というだけの帰り方だ。軍隊の帰り方だ」
「じゃの」とナナオ。「次に来るときは、確認の済んだ相手として来よる」
老軍医は医務室の戸口から動かず、ただ一度だけ、計器盤に向かって口を開きかけた。九十九、という呼び方を、彼は驚かなかった——ハルはそれを見ていた。驚く代わりに、何十年も前から知っている悪い報せが、やっと届いた顔をしていた。
ヨルは毛布の中から計器盤を——ツクモの応答灯を、じっと見ていた。やがて小さな声で、誰にも報告ではない言葉を言った。
「ツクモ。……だいじょうぶ?」
応答は、なかった。保留します、すら返らなかった。それがどれほど異例のことか、この艦の全員が知っていた。
ハルは何も命じなかった。説明しろ、と言う権利が艦長にはある。使わなかった。隠していることの重さなら、この艦で誰にも引けを取らない男が、自分だった。問い詰める側の椅子に、彼は座れなかった。
離脱針路に乗り、残骸の海の縁が近づき、死んだ戦争の風景が窓の外で薄れはじめた頃——沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「艦長」
いつもの、丁寧語のデッドパンだった。いつもと違うのは、その先に提案も最適解もついてこなかったことだ。
「お話しすべきことがあります。——私の、仕様についてです」