第102話 恩人
男は振り向き、敬礼をしなかった。代わりに、軽く頭を下げた。
「アマノ三等軍曹——いや。いまは、アマノ艦長と呼ぶべきだな」
グレアム・ホーク。元・星系連合軍第七補給艦隊司令部参謀。ハルの記憶の中の階級は中佐で、目の前の肩章は大佐だった。七年は、男の髪を灰色にし、階級をひとつ上げ、それ以外をほとんど変えていなかった。
「……ホーク中佐」
「大佐だ。七年も経てば、無能でも上がる」男は口の端だけで笑った。「立ち話で済む用件ではない。港湾管理棟に部屋を借りてある。三十分、もらえるか」
断る理由は三つ思いついた。応じる理由は一つしかなかったが、その一つが三つより重かった。この男が、わざわざ辺境の桟橋まで一人で来た。補給計画の鬼と呼ばれた参謀は、費用対効果の合わない移動をしない男だった。
管理棟までの短い道で、記憶が勝手に在庫を開けた。
第七補給艦隊司令部参謀、ホーク中佐。末端の伝票の誤りを誰よりも早く見つけ、見つけても怒鳴らず、本人を呼んで書式ごと直させる人だった。演習が明けると下士官食堂に降りてきて、士官用ではなく同じ盆の飯を食った。うまいとも不味いとも言わず、配食の列の長さだけを測って帰った。前線の弾と飯が一日も切れなかったのは、ああいう人が後ろにいるからだと、当時のハルは思っていた。終戦の年の冬、調査委員会の長机の端にその顔を見つけたとき、少しだけ安堵したことまで覚えている。あの人が読めば、四十秒の意味は分かる——そう思った。処分通知は、その三週間後に来た。
安堵と処分のあいだのどこかで、この男は手を挙げなかったのだ。それを七年後の今日まで、ハルは知らずにいた。
借りた部屋には、机と椅子が二脚だけあった。
「茶は出ない。借りた部屋でな」ホークは先に座り、薄い書類入れを机に置いた。「座ってくれ。……七年ぶりに会う部下に、最初に言うべきことを言う」
彼は背筋を伸ばしたまま、事務的とも聞こえる平坦さで言った。
「お前の除隊は、不当だった」
ハルは、座ったばかりの椅子の上で動かなかった。動かないために、椅子の硬さを数えていた。
「帰還命令未達事件の調査委員会に、私は末席で座っていた。結論は『通信系の複合的障害』。あれは正しい結論だ。そのうえで、組織は誰かの名前を欲しがった。差し出されたのが、末端の中継卓に座っていた下士官数名の名前だ。お前の再送信記録も、私は読んだ。二度目と三度目の間隔が規定より四十秒長い——障害報告の文面を整えていた四十秒だ。あれを『初動の遅れ』と呼ぶのは、書類の暴力だよ。私はそれを知っていて、手を挙げなかった。挙げれば私の経歴に傷がつき、挙げなければお前の人生に傷がつく。私はあの日、自分の側の傷を選ばなかった。……七年、覚えていた。私の負債だ」
七年間、誰にも言われなかった言葉だった。自分で自分に言うことすら、許してこなかった言葉でもあった。ハルは一度だけ呼吸を整えた。
「それを言うために、外縁まで?」
「言うためだけなら、手紙で済む」ホークは書類入れを開き、薄い綴りを滑らせて寄越した。「読め。返事は今日でなくていい」
一枚目に、特務嘱託辞令案、とあった。
参謀本部特務局、特務嘱託。職名、戦術顧問兼先導艦。対象任務、布告第七二一号に関わる無主自律艦集団への掃討作戦全般。月額報酬八百万クレジット。中枢杭をはじめとする特殊弾薬は官給。艦載自律中枢の特例運用許可——禁制であるはずの中枢の存在が、許可、という二文字で書類の中に畳み込まれていた。
「……うちの艦の中身を、知っていて書いていますね」
「艦籍が三回洗ってあることも、操舵手の名が別の名簿に載っていることも、船医の経歴に二十年の空白があることも、知っている」声に咎める色はなかった。在庫を読み上げる声だった。「全部知った上で、不問とする用意がある。条件があるなら交渉にも応じる。書面でだ。お前は書面の方が強いだろう」
「随分と、高い買い物だ」
「高くない」即答だった。「正規の一個戦隊が数週間と数億かけて獲り損ねる獲物を、お前の艦は単艦で獲ってきた。帳簿の上で、お前は破格に安い。私は補給の人間だ。安くて確かな調達先に頭を下げるのは、職業上の習性だよ」
「なら、職業の話だけでいい。負債の話は、要らなかったはずです」
ホークは少しの間、黙った。沈黙の長さまで測ったような、正確な間だった。
「要る。お前が訊くからだ——なぜ俺なのか、と。顔にそう書いてある」彼は机の上で両手を組んだ。「答えは二つだ。一つ。死者の艦隊とやらを二年追って、生きて帳簿をつけている人間は、外縁回廊にお前しかいない。二つ。七年前の借りを、返させてくれ。順番に意味はない。両方とも本当だ」
借りを返させてくれ、と恩人の側の言い方をしない男だった。借りがあるのは自分だと、先に置いた。その置き方の正しさが、かえって胸のどこかに刺さった。
「即答は、しません」
「するな。即答する人間を、私は信用しない」ホークは立ち上がり、制帽を取った。「受注済みの猟が一件、残っているそうだな。二隻の組だ」
「……ご存じでしたか」
「特務局は書類の局だ。お前の契約番号も、標的の挙動報告も読んでいる。連携する還らず艦というのは、私の知る限り教範に載っていない」彼は制帽を被り、最後に言った。「終わらせてこい。葬儀は、仕掛かりのまま人に渡すものじゃない。返事はその後で聞く」
扉が閉まってから、ハルは長いこと座っていた。
何でも知っている、と思った。契約番号、標的の挙動、艦の中身、ヴェインの名簿、ナナオの空白。それは特務局という部署の仕事柄かもしれず、仕事柄という言葉で畳むには、少しだけ手回しが良すぎた。畳んだ。七年ぶりに会った男を疑う材料が、書類が綺麗すぎる、という一点しかなかったからだ。綺麗な書類を疑い始めたら、この稼業は一日も回らない。
艦に戻ると、舷梯の上でヴェインが待っていた。待っていた、という顔はしていなかったが、操舵手が用もなく舷梯に立つ艦ではなかった。
「……正装が見えた」
「元の上官だ。第七補給の参謀だった」
「要件は」
「嘱託の誘いだ。死者の艦隊の掃討に、うちを使いたいらしい」
ヴェインは桟橋の燈を一度見て、短く言った。
「連合の参謀か。……俺の顔も、調べはついてるんだろうな」
「ついてた。その上で、不問にすると」
「そうか」それ以上は訊かなかった。訊かない代わりに、艦内に戻る背中が、いつもより半歩分だけ近くを歩いた。
食堂の灯りを落としてから、ツクモが言った。
「艦長。面会は三十一分でした。心拍の記録を報告しますか」
「いらない」
「では一点だけ。あなたは三十一分の間に七回、座り直しました。あなたの平均は二回です」
「……椅子が硬かった」
「椅子の硬度は、官給の標準品です」と彼女は言った。「辞令案の写しを読みました。条項の網羅性は、私の生成する契約書案と同等です。人間の起案としては、上位〇・三パーセントに入ります」
「褒めてるのか」
「観測です。網羅的な契約書を書く人間は、網羅的に物事を考えます。網羅的に考える人間が七年前に委員会の末席にいて、あなたの記録を読み、手を挙げなかった。本日、その人間は手を挙げに来ました。七年の遅延の理由は、辞令案のどこにも記載がありません」
ハルは答えなかった。答えの代わりに、辞令案をもう一度頭から読んだ。月給八百万。杭は官給。特例運用許可。名誉回復、の四文字はどこにもなく、ただ「除隊処分の再審査請求に関する助言」という一行が、末尾の備考に小さくあった。約束しないものを匂わせる書き方ではなく、匂わせたものに責任を取る書き方だった。軍の書類を七年書いた男には、その違いが分かった。
寝台に入ってから、ハルは天井を見た。
お前の除隊は、不当だった。
言葉は胸に刺さったままで、抜けなかった。抜きたくない自分がいることに、彼は気づいていた。七年分の重さで刺さったものは、抜くときにも七年分の血が出る。
それがいちばん、危なかった。