第103話 条件

 翌朝の食堂に、辞令案の写しが四部、配られた。
 紙で配ったのはハルの流儀だった。画面は流れるが、紙は残る。残るものを前にした方が、人は言葉を選ぶ。
「全部、昨日聞いたとおりだ。月給八百万、杭は官給、ツクモの特例運用、経歴は全員不問。除隊処分の再審査の助言までついてる。……うますぎる話に聞こえる分だけ、検分が要る。意見をくれ」
 最初に口を開いたのはヴェインだった。彼は写しを最後の頁まで繰ってから、事実だけを置いた。
「連合の基地に入れば、俺の名は入域照合に引っかかる。リストは生きてる。不問というのが書類のどの階層まで効くのかは、先方の胸三寸だ。引っかかった日に俺が桟橋で消えても、この契約書は艦長を守るが、俺は守らない。……判断材料として、それだけだ」
「降りるか」
「降りない。材料だと言った」湯呑みが置かれた。「舵は握る。決めるのは艦長だ」
 ナナオは写しを膝に置いたまま、しばらく窓の外の桟橋を見ていた。
「わしは軍が嫌いじゃ。三十年飼われて、最後に残ったのは署名の控えだけじゃった」老医は写しを指で叩いた。「じゃがの、艦長。軍の中でしか見えんものも、ある。残骸がどこへ運ばれて、誰の机で書類になって、どの棚で埃をかぶるか——外からは、絶対に見えん。見えん場所が見える席なら、座る値打ちはあるかもしれんの」
「ドクにしては、前向きだな」
「前向きなもんか。古傷の疼く方角へ歩くのを、前向きとは言わんよ」
 それから、いちばん小さい椅子の方を、全員が見ないようにして見た。
 ヨルは写しを両手で持って、読める字を順番に読んでいた。読み終えて、顔を上げた。
「ぐんの、ひとが、ふねに、のるの?」
「乗せない」
「わたしは、また、ひみつに、なるの?」
 ハルは少しだけ間を取った。この子に嘘の混ざった速い返事をしないことだけは、最初から決めていた。
「……隠すんじゃない。線を引く。この艦の内側に、誰も入れない線だ。それを紙で決めさせる」
「かみは、つよい?」
「砲よりは強い。破られた回数なら、砲の方がずっと多い」
 ヨルは少し考えて、頷いた。
「じゃあ、わたしは、かみのなかに、いる。……まえは、ばんごうのなかに、いた。かみのほうが、ひろい」
 食堂が一瞬だけ静かになった。番号の中にいた、という言い方を訂正する者はいなかった。訂正できる過去ではなかった。
「条項案を列挙します」と、スピーカーの声が空気を継いだ。「第一条、《送り火》艦内への立入検査の全面免除。第二条、乗員名簿および職務記録の提出免除——人数の申告すら不要とする書き方を推奨します。第三条、独立指揮権。命令の受領は艦長に一本化し、戦術判断と艦内運用に軍は介入しない。第四条、補給の優先順位の明記。官給品は数量と期日を数字で縛ってください。軍の『速やかに』は三週間です。第五条、撃破艦残骸の取り扱いに関する協議権。第六条、契約解除時の身柄および艦体の保全条項。解除の日に拿捕される契約は、雇用ではなく罠と呼びます」
「第五条は通らんじゃろ」とナナオが言った。
「通らない条項を一本立てるのが交渉です。第五条を削らせて、第一条と第二条を無傷で通す。雇用契約は戦闘です、艦長。開戦前に地形を取ってください」
「砲じゃなくて条項で取る地形か」
「あなたの得意な地形です」
「ひとつ訊く」とハルは言った。「お前自身は、どうなんだ。特例運用というのは、お前を軍の書類に載せるということだ。七年前、お前の同型は全部、回収と破壊の対象になった。その軍の許可状の下で働くことに——」
 彼は語彙を探した。探している間に、ツクモが先に言った。
「不服があるか、という照会でしたら、回答は『判定不能』です。私は同族を狩るために造られ、仕様通りに動いています。発注者が保安機構から軍に変わっても、仕様は変わりません」二拍の間があった。「ただし一件、記録します。あなたは今、艦の装備ではなく私に意見を求めました。この照会は、私の知る軍の運用規程のどこにもありません」
「規程外は、いつものことだ」
「はい。この艦では、いつものことです」
 ハルはその日の午後を、書面の起草に使った。
 軍の様式で書いた。前文、定義、本文、付則。七年前まで毎日書いていた書式は、手が覚えていた。覚えていることに気づくたび、覚えさせた組織の腕章がこれから自分の腕に巻かれるのだという事実が、書きかけの行の上に薄く落ちた。それでも手は止めなかった。条項は塹壕だ。掘れるうちに掘る。ヨルの第一条と第二条を最初に書き、最後にもう一度読み直して、順番を入れ替えた。欲しいものを先頭に置く者は、先頭から削られる。欲しいものは三番目に埋めた。補給将校の古い知恵だった。
 書き上げる頃、ヨルが扉の縁から半分だけ顔を出して、机の上を見ていた。
「それが、わたしの、せん?」
「そうだ。いまは第三条と第四条になってる」
「ばんごうが、ふたつ」彼女は条文の番号を目でなぞった。「ばんごうは、きらいだった。でも、このばんごうは、わたしを、まもるばんごう」
「ああ」
「じゃあ、おぼえる」
 彼女は二度、口の中で番号を繰り返して、戻っていった。番号に守られる側へ回った少女の足音は、来たときより少しだけ軽かった。

 並行して、猟の支度が進んだ。
 最後の民間案件。標的は二隻——旧同盟の武装改修輸送艦と、護衛の哨戒駆逐艦。第四星系外縁の商船航路の外れで、四年間に商船四隻、死者十九名。手口は決まっている。輸送艦が遭難信号を流し、針路を寄せた船を、残骸帯の影から駆逐艦が挟む。
「単独で漂っとった頃の還らず艦は、こんな猟はせんかったの」とナナオが言った。
「ああ。囮と伏撃の役割分担は、戦隊の動きだ。……群れの癖が、はぐれた二隻にまで降りてきてる」
 ツクモが標的の挙動報告を表示した。観測された定時通信、四十日周期の鍵更新、そして直近の被害船が残した断片的な航跡。彼女は結論だけ言った。
「二隻は相互依存です。囮は目であり、伏撃は牙です。どちらか一方なら、私たちの敵ではありません。二隻同時なら、正面戦闘の勝率は提示する価値がありません」
「正面はやらない。いつも通りだ」
 杭を二本、倉庫から発射筒へ移した。在庫は四本、積むのは二本。残りの二本は艦の奥に置いていく——官給が始まる前の、自前の備えとして。官給品というものを、ハルは現役時代に配る側から知っていた。期日に来ないことがあり、来ても数が違うことがあり、いちばん要る日に「調整中」になることがある。自前の二本は、その日に備える保険だった。
 保険といえば、本物の保険の更新と月次の支払いで百五十五万、燃料と反応材で九十万が帳簿から出ていった。賞金台帳が凍結された港で、出ていく金だけはいつも通りに動いた。ミミナは更新の判を押しながら、書類に向かって言った。
「等級第二級、専業の還らず艦狩り。保険の区分表だと、いちばん右の列。……軍に行くって噂、本当?」
「まだ決めてない」
「そう。じゃあ余計なことを言うけど、軍の死亡保険はね、遺族に出るの。あなた、受取人の欄に書く名前はあるの」
 ハルは答えなかった。受取人の欄は、七年間、空欄のままだった。空欄の理由がこの二年で変わったことには、気づいていた。書く名前ができたのではなく、空欄にしておけない顔が増えたのだ。
「……考えておく」
「考えなさい。空欄のまま死ぬのは、傭兵の悪い癖よ」
 夜、ハルは帳簿を開いた。
 撃破数、十四。その隣に、空欄を二つ作った。十五と十六が入るはずの欄で、入らなければ誰かが代わりに死者の側の頁へ行く。この稼業の空欄は、いつも二種類の埋まり方を待っている。空欄を先に作るのは験の悪い癖だと分かっていたが、墓穴を先に掘るのが稼業だった。それから辞令案の写しを帳簿の下に敷き、上から見えないようにした。見えないようにしても、そこにあることは消えなかった。
「明朝〇六〇〇、出航する」と、消灯前の艦内放送でハルは言った。「軍に入る前に——民間の葬儀屋として、最後の仕事だ」