第106話 出仕

 テネブラエから縫航ゲートをひとつ、二日。第二星系の第七方面軍前進基地は、大戦中の補給中継基地を七年ぶりに再稼働させた代物だった。係留環の半分はまだ封鎖されたままで、生きている半分に駆逐艦と輸送艦がひしめいている。死んでいた基地に血を通わせ直す途中の、せわしない不揃いさが港全体にあった。
 《送り火》には外周の隔離泊地が割り当てられた。正規艦の列から一本離れた、検疫用の桟橋。距離は侮蔑とも読めたが、ハルには都合がよかった。第三条と第四条は、物理的な距離があるほど守りやすい。
「立入検査の免除は、入域時に三度照会されました」と接舷の直後にツクモが報告した。「三度とも、契約条項の番号を返しました。三度目の照会者は、検査ではなく『表敬訪問』という語を使用しました」
「断ったか」
「条項に表敬の例外はありません、と回答しました。相手は沈黙し、回線を切りました」
「上出来だ」
 ヨルには航海中に言ってあった——基地にいる間、艦からは出さない。通信にも乗せない。彼女は「かみのなかに、いる」と答えて、自分の帳面に基地の所在星系を書いた。書いてから、付け足した。「でも、まどからは、みる。みるのは、きんしされてない」。条項の隙間を探す言い方を、彼女はこの艦の誰かから確実に学んでいた。
 舷梯を降りたのは、ハルとヴェインの二人だった。
 入域照合で、端末が止まった。ヴェインの名だ。係官の顔色が変わり、上官が呼ばれ、その上官がまた上官を呼んだ。三人目が端末に特務局の判を見つけて、全部が黙った。
「……通行を許可します。特務嘱託、および、随員」
 随員、という語を係官は喉に引っかけながら発音した。植民自治同盟の元駆逐艦長を随員と呼ぶ書式は、軍のどの便覧にもない。ないものを通すのが特務局の判だった。
 基地の中の匂いを、ハルの体は覚えていた。整備油と、床用洗剤と、決裁待ちの紙の匂い。七年前の毎日の匂いだ。懐かしさが来るより先に、足が勝手に廊下の右側を歩き、階段で士官に道を譲る角度を取った。体に残った躾は、除隊通知では消えないらしかった。
「……懐かしいか、と訊かれたら」と、隣のヴェインが前を向いたまま言った。
「いや」
「ならいい。俺もだ」
 二人が歩くと、廊下が割れた。
 敬礼は来なかった。嘱託に敬礼する規定がなく、規定のないことを軍人はしない。代わりに視線が来た。すれ違う参謀は目を合わせず、若い士官は目を逸らし、下士官たちは逸らす前に一瞬だけ見た。酒保の前を通るとき、開いた扉の中から声が漏れた。
「——あれが葬儀屋か」
「不名誉除隊だとよ。それが嘱託で戻って、月給八百万」
「連れてるのは同盟の艦長だぜ。ここがどこだと思ってやがる」
 声の主たちに悪意の自覚はないのだろう。彼らの基準では、ただの事実の確認だった。不名誉除隊者と敗軍の艦長。二人で歩くだけで、この基地の全員の戦争の記憶を逆撫でする組み合わせだった。ハルは歩調を変えなかった。ヴェインも変えなかった。変えない歩調が、二人の返答だった。

 最初の仕事は、会議でも査閲でもなく、補給課の窓口だった。
 官給弾薬の受領手続き。窓口の若い主計士官は、中枢杭という品目を生まれて初めて見る顔で、請求書式を三度突き返しかけた。特殊弾薬の項目番号が古い台帳のままで、新しい様式と噛み合っていないのだ。
「貸してくれ」とハルは言い、窓口の端末を借りて、書式を頭から書き直した。旧項目番号を併記し、特例運用許可の決裁番号を引用欄に入れ、保管区分を「艦載・即応」で通す。七年前に何百枚も書いた書類だった。主計士官は画面を覗き込み、それから初めて、ハルを書類の向こう側の人間として見た。
「……書式、お詳しいんですね」
「前の職場で習った」
「前の職場?」
「ここだ」
 主計士官は返事に詰まり、受領印を押した。中枢杭八本、官給、即日。市場で一年枯れていた品物が、軍の棚から八本、事務的に出てきた。出てくること自体はもう驚かなかった。驚かない自分を、ハルは帳簿の隅に書き留めるような気分で観察していた。慣れというものは、いつも音を立てずに進む。

 契約細目の読み合わせは、法務士官との三時間だった。
 条項はひとつずつ確認され、ほぼ全てが原案通りに読み上げられた。最後にひとつだけ、最初から「変更不可」の印がついた条項が示された。
「第十一条。撃破された無主自律艦の残骸のうち、自律中枢区画およびその付帯装置は、終戦協定違反技術を含む可能性があるため、参謀本部特務局の管轄において機密処分とする。貴艦の関与は事前通知の受領までとする」
「処分の方法と場所は」
「機密です」
「処分の完了は、誰が確認する」
「特務局です」法務士官は顔を上げた。「この条項は、交渉の対象外と聞いています。呑めない場合、契約全体が成立しません」
 ハルは条文をもう一度読んだ。
 呑む理由は、彼の側にあった。中枢が時々どんな形をしているか、知っている人間は衆目を望まない。残骸の中からヨルのような存在が見つかる日が来るなら、晒し台と競売よりは、機密の闇の方がまだ墓に近い——そう計算した。計算は三秒で済んだ。
「呑む」
 判を押す指は、迷わなかった。押した判の朱が乾くのを、彼は見ていた。乾いた朱は、もうどの方向にも滲まなかった。

 夕刻、ホークの執務室に呼ばれた。
 部屋は参謀本部の高官の部屋としては質素で、机と、戦域図と、書類棚が二本あるだけだった。私物らしいものは、棚の上の古い携行水筒がひとつ。大佐は自分で茶を淹れた。
「不味いぞ。軍の茶だ」
「……知っています」
 一口飲んだ。記憶の通りの味がした。出涸らしと、消毒水と、ほんの少しの鉄の味。七年前、当直明けの通信室で何百杯も飲んだ味だった。不味い、と頭が言い、懐かしい、と別の場所が言った。
「第七補給の通信班の連中を、覚えているか」とホークは言った。「主任だったイデは退役して、中央で倉庫番をしている。元気らしい。お前の隣の卓のサワダは——三年前に、病で死んだ。部隊葬は出してやれなかった。除隊の経緯が経緯だからな。あれも、私の負債のひとつだ」
 ハルは湯呑みを置いた。サワダ。隣の卓で、同じ夜に、別の中継線を握っていた男。処分された下士官数名、の一人。
「……知りませんでした」
「知らせる者がいなかった。切られた者の消息は、組織の名簿から消える。消えた名簿を覚えているのは」大佐は自分の頭を指で叩いた。「ここに入れて持ち歩く物好きだけだ」
 末端の名を、この人は覚えている。覚えているという事実が、七年分の重さで卓の上にあった。疑う材料を探すつもりで来た面会で、ハルが見つけたのは、自分の知らない同僚の死と、それを負債と数えている上官の帳簿だけだった。
「基地の居心地は、悪いだろう」とホークは話を変えた。「敬礼も来ない、酒保では聞こえよがしだ。詫びはしない。あれを命令で直すことはできるが、命令で直した敬意は、最初の戦果で剥がれる敬意より質が悪い。……戦果で黙らせろ。お前にはそれができる。できる人間にしか、私はこの席を勧めない」
「随員の扱いについては」
「コルサク元中佐か」大佐は名簿の名を、階級つきで正確に言った。「操舵手として最上等、経歴として最悪。それも込みで雇っている。基地の連中の目つきまでは契約書に書けんが、手続きの上で奴の身柄に触れる者は、私の判を先に越えねばならん。そう難しい山ではないが、低い山でもない」
 守る、と恩に着せる言い方を、この男は最後までしなかった。手続きの話だけをした。手続きの話だけをする人間を、ハルは七年前から信用する癖があった。
 ホークは茶を飲み干し、戦域図に向き直った。外縁回廊の全図。回廊深部に、印のない領域が広く空いている。
「呼んだ用件だ」と大佐は言った。「参謀どもの作戦案が三本、私の机で埃をかぶっている。三本とも、紙の上で勝って実物に負ける類の代物だ。だから——死者の艦隊の掃討計画を、お前に立てさせたい」