第124話 検分
教団の巡察艦は、千八百キロメートルで止まった。
砲門は開いていない。検波だけが、絶え間なく艦体を舐めている。ツクモは偽装信号を平常運転の厚みで保ち、ヨルは遮蔽区画の奥に移した。教団の検波は彼女の肌に痛い。三百日前の追跡戦で覚えた、こちらだけが知っている弱点だった。ナナオが付き添いに降り、医務室の扉が二重に閉まる音を確認してから、ハルは艦橋に戻った。
「戦闘は発生しません」とツクモが言った。「先方の行動規範を解析しました。本日の教団は、撃ちに来ていません。——手続きで殺しに来ています」
「撃たれる方が、対処は楽だな」
「はい。撃たれた場合の対処は四十三通り保存しています。手続きの場合は、三通りです」
「三通りの内訳は」
「応じる、拒む、引き延ばす。本日は二番目を選択済みです。なお、三通りのいずれを選んでも、先方の様式は先へ進みます。手続きという兵器の特性です」
通信のセルマは、要求を二度繰り返した。中枢残骸の引き渡しと焼却。ハルは二度、同じ言葉で断った。
「撃破証明は保安機構の規定で、ギルド経由の提出義務がある。第三者への引き渡しは規定違反だ。要求は書面で、発行元へ」
「書面」と聖騎士は言った。三百日前と同じ、装甲の厚みを測る指の動きで。「いいだろう。書面はもう出ている。貴様が断ることまで、様式の内だ」
四時間後、ギルドの中継経由で通知が届いた。教団の異議申立てを受理、当該案件の賞金支払いを審査終結まで保留。一、二〇〇万crが、紙一枚で凍った。杭代の二五〇万だけが、先に出ていった。法と教義の綱引きの真ん中で、帳簿だけが正直に痩せていく。通知文には、ミミナの私信が一行だけ付いていた。様式の外の、手書きの一行。——こういうのが通るなら、次も通る。気をつけて。
気をつける方法の欄は、なかった。手続きで来る敵には、手続きの装甲しかない。そして装甲の厚みを測られたのは、こちらも同じだった。
「向こうの言う様式の内、だな」
「はい。本日の戦果は先方のものです」とツクモが言った。「なお、巡察艦は退去しません。本艦の作業を観測しています」
作業は、やることが決まっていた。
葬儀屋の手順だ。残骸を航路帯から外し、崩れない長期軌道へ押し上げる。識別符号AH-103、艦種、撃破日、危険物の有無を航行警報に登録する。戦時ログから判明した艦歴——七年前の最終命令、応答し続けた救難標識の座標、三百十一名の名簿の存在——を、戦没艦記録の古い書式に起こして添付する。書式は大戦中のもので、いまでは《送り火》と、手順を持ち帰った僚艦くらいしか使わない。最後に、入植地の救難標識へ停波の信号を打つ。七年鳴り続けた呼び声を、応える者がいなくなった日に、止める。それも手順の内だった。
全部、公開の記録だ。隠す理由がなく、隠さないことに理由がある。墓の場所を隠す墓守はいない。
書式を埋めながら、ハルは三百十一人の名簿の扱いを決めかねていた。戦没艦記録に添付すれば、名簿は公開の記録になる。七年前の死者の名が、七年遅れで、初めて公の紙に載る。読む遺族がいるかもしれず、読ませない方がいい何かが載っているかもしれない。決めかねた末、彼は添付した。読む読まないは遺族の側の権利で、在ること自体を隠すのは、権利の横取りだ。それが葬儀屋の判断なのか、七年前に「事故」の二文字で全部を隠された側の判断なのかは、自分でも分けられなかった。
「添付を確認しました」とツクモが言った。「本記録の宛先は不特定です。読む者の数は、推定できません」
「……読まれなくても、置いておくのが記録だ」
「はい。私の保存庫と、同じ運用です」
巡察艦は、その全部を黙って見ていた。検波は作業の間も艦体を舐め続け、何も見つけないまま、見ることをやめなかった。
軌道修正の最後の噴射が終わったとき、通信が再び開いた。今度は様式の文体ではなかった。
「異端者。一つ確かめる」とセルマは言った。「貴様は撃った艦の記録を読むのか。毎回か」
「毎回だ」
「最後の命令も、七年の挙動も、いま登録した艦歴も——全部、読んだ上で書いたのか」
「ああ」
「名簿の三百十一人の名も」
「読んだ」
「標識を止めたのは、なぜだ。あれは死者の持ち物ではない。生者の側の設備だ」
「七年呼んで、誰も来なかった。これからも来ない。……呼び声は、応える者がいるうちだけ呼び声だ。いなくなったら、ただの傷口だ」
「傷口」と聖騎士は繰り返した。繰り返しただけで、続きは言わなかった。
沈黙があった。侮蔑とも確認ともつかない間だった。
「……貴様は死者の声を聞くのだな」
「仕事の内だ」
「ならば異端の度が一つ深い」と聖騎士は言い切った。「いいか、葬儀屋。あれは機械の檻に喰われた魂だ。焼けば、檻ごと浄められる。それで終わる。終わらせることが、死者への務めだ。貴様のやっていることは何だ。檻の中の声を写し取り、帳面に綴じ、軌道の上に何百年も浮かべておく。——死者を檻に留め置く側だ。執着は弔いではない。冒涜の、いちばん丁寧な形だ」
「あんたの言う浄めは、記録ごと焼く」とハルは言った。「焼いたあと、誰が覚えてる」
「神が」
即答だった。揺らぎのない、しかし訓練の即答ではなかった。あの女はそれを信じている。信じられる夜を、実際に見てきた人間の声だった。ハルは反論の言葉を一つ二つ持っていたが、どれも、燃える入植地の水路から夜空を見上げたことのない人間の言葉だった。口にはしなかった。
代わりに沈黙が流れ、その沈黙の中で、検波だけが変わらず艦体を舐め続けていた。確信と検波は似ている。何も見つからないことが、やめる理由にならない。代わりに、別のことを訊いた。
「あんたは何隻になった」
「十六隻だ」と聖騎士は答えた。「一隻ごとに理由を確かめ、一隻ごとに祈った。貴様は」
「二十五だ」
「祈ったか」
「いや。……読んだだけだ」
「そうか」とセルマは言った。それきり、その話は終わった。どちらの数字も、どちらの務めも、互いの秤には載らない。載らないことだけが、確認された。
短い沈黙のあいだ、ハルは画面の向こうの艦橋を見ていた。白い艦橋には祭具が掛かり、その下に、乗員の家族のものらしい小さな写し絵が並んでいた。教団の艦は、遺影で内装を作る。撃つ理由を毎日見て暮らす艦と、撃った結果を毎日保存して飛ぶ艦が、千八百キロを挟んで向き合っていた。
「話は噛み合わんな」
「最初からだ」
「最初からだ」と彼女は認めた。「だが貴様の手順は見た。覚えた」
覚えた、という言い方を、この女は貸し借りの帳簿のように使う。巡察艦の機関に火が入り、白い艦体がゆっくりと回頭を始めた。去り際に、セルマは一つだけ、要求でも教義でもないことを言った。
「強硬派が艦隊を外縁に集めている。司教座の名で、九隻。指導者はイグナーツ司教——火は選ばない、と説く男だ」
「……なぜ、それを俺に」
「貴様に言ったのではない」と聖騎士は言った。「記録に言った。貴様は、聞いたものを全部書き留める男だからな」
答えになっていない答えだった。彼女が落としたのは、教団の内側の情報だ。それを異端者の記録に落とすことの意味を、彼女自身がどう整理しているのか、画面の顔からは読めなかった。
通信が切れる間際、白い艦橋の女は、最後の一行を様式の文体に戻して告げた。
「次に会うときは、検分ではない」
白い船は縫航の光の中に消えた。残骸の墓だけが、整えられた軌道の上に残った。停波した救難標識の沈黙が、七年ぶりの静けさで、焼けた入植地を覆っていた。
帰投針路に乗ってから、ナナオが艦橋に上がってきた。
「凍った賞金は、いつ解ける」
「審査の終結まで。教団の審査は、九十日が様式だそうだ」
「九十日のう。前にも聞いた長さじゃな」と老医は言った。「あのときは導火線の長さじゃった。今度は、何の長さかの」
答えの代わりに、ツクモが防空哨戒の自動警戒を一段上げた。
「『次に会うときは検分ではない』の解釈を、三通り保存しました。三通りとも、帰路で会います」