第127話 晩課の港

 ヴェスペラ港について調べられることは、一晩でだいたい調べがついた。調べがつくほど、嫌な話になった。
 成り立ちは終戦の年に遡る。旧同盟の補給中継ステーションだった構造物に、引き揚げの流れが詰まった。連合領は無国籍者を受け取らず、受け取るはずの同盟は地図から消えた。行き場を失った引揚船が桟橋に係留されたまま冬を越し、船はそのまま街区になった。船殻を溶接して継ぎ足した居住区。配管は三つの艦級の規格が混ざり、与圧区画の図面は完全なものが存在しない。どの星系の籍にも入らない係争宙域。人口、二万一千。引揚者、無国籍難民、戦犯リストから逃れた者、名簿に載ることを恐れる者。帰る場所のない人間ばかりが、帰る場所のなさを持ち寄って作った港だった。
 港の名は、鐘から来ている。旧同盟の従軍修道会が残していった鐘が一つあり、毎日、艦内時間の晩課の刻限に鳴る。宗派も国籍も問わず、港じゅうがその鐘で一日を畳む。配給の列が崩れるのも、市が店じまいするのも、子供が家に呼ばれるのも、あの鐘でだ。それだけが、あの港の公共というものらしかった。
 公報の写真には、埠頭の市が写っていた。船殻の鉄板を並べた台に、配給の余りと、修理部品と、どこかの艦から降ろした座席が並ぶ。値札は三つの通貨で書かれ、三つとも、もう発行元のない通貨だった。発行元のない金で商いが立ち、籍のない子供が育ち、誰の管轄でもない鐘が鳴る。世界が終わったあとも市場は立つ、という話を、ハルは何かの本で読んだことがある。あの港は七年前から、その話の挿絵だった。
「行ったことは」とハルはナナオに訊いた。
「わしか? 一度だけな。終戦の翌年、薬を届けに」と老医は言った。「港というより、流木の山じゃったよ。流木が、互いを支え合って、家の形をしとった」
「武装は?」
「港湾警備の艇が四。砲と呼べるものは旧式の対デブリ火器のみ」とツクモが言った。「艦隊と呼べるものと交戦した場合の継戦能力は、分の単位です」
「四隻の艇で、普段は何をしてる」
「デブリの除去と、酔漢の仲裁です。艦隊戦の項目は、想定自体が存在しません」
「保険は」
「中立港に保険を引き受ける組合は存在しません。あの港は、数字の上では七年前から存在していません」
 存在しない港に、二万一千人が住んでいる。存在しないことにされたものの上に人が住む構図を、ハルはこの一年で何度も見た。見るたびに、誰かがその上に判を捺しに来る。
 そこへ、漂流体が近づいていた。
 航行警報七七一二。大型還らず艦、推定全長七百メートル級、大破。主兵装は沈黙、機関は微速、管制波は微弱。三週間前に外縁の観測点が拾い、以後、ヴェスペラへの針路を保ち続けている。推定接触まで、あと九日。
「微弱な管制波の中身は、解析済みじゃ」とナナオが端末を回した。「港湾管制の公報に、波形の記録が添付されとった。……旧同盟の入港要求符丁じゃよ。骨組みだけになった艦が、九日先の港に向かって、入港許可を求め続けとる」
「同盟の艦か」
「艦籍までは割れとらん。じゃが符丁は同盟式じゃ。あの港が旧同盟の中継站だったことを、七年前の記憶のまま覚えとるんじゃろう」
 観測点の撮った映像は粗かった。艦体の前半分は骨組みで、装甲は戦時の被弾でめくれ、砲塔は三基とも沈黙したまま、開いた花のように焼け残っている。あれだけ壊れて、なお機関を微速で回し、符丁を打ち続ける。何の戦闘の、何年目の傷なのか、記録はどこにもなかった。
 撃つ力も、たぶん意思もない、大破した艦。曳く設備は港になく、退ける艦隊はどこからも来ない。放っておけば港の外周構造に緩く接触するか、手前で朽ちるか——どちらにせよ、港が総出で外殻を補強すれば死人を出さずに済む規模の、土木の問題のはずだった。
 ヨルが、星図の標点を指でなぞった。
「にまんいっせんにん、って、どのくらい?」
「テネブラエの難民区画、ぜんぶの、二倍と少しだ」
「……おおい」と彼女は言った。多い、を覚えたばかりの言い方だった。「おおい、は、どこから、おおい?」
「数えられなくなったら、だ」
「わたし、まだ、かぞえてる」
「ああ。数える側でいるうちは、まだ間に合う」
 覚えたばかりの言葉に、いきなり背負わせる数字ではなかった。
 教団が、それを見つけるまでは——あれは土木の問題だった。

 イグナーツ司教の宣言文は、教団の公報に堂々と載っていた。宗務文書の様式、火の紋章、署名。
 ——魂喰いの艦、ヴェスペラに至る。これ浄火の好機なり。かの港は七年、無籍の闇に魂喰いの徒輩を匿い、禁制の品を商い、浄めの手を拒み続けた。艦を焼き、港を浄める。火は選ばない。選ぶのは人の傲慢である。
「艦を焼き、港を浄める」とハルは読み上げた。「……港ごと、と書いてある」
「書いてあるのう」とナナオが言った。「しかも公報じゃ。隠しもせん。隠す必要が、あの連中にはないんじゃよ。係争宙域には、止めに来る法がない」
「『浄火の好機』……機、という字を使うか、普通」
「使わんのう」と老医は言った。「艦が流れてくるのは、向こうの都合じゃ。都合を神様の名で呼ぶ手合いが、わしはいちばん嫌いでな」
 その通りだった。ハルは半日かけて、止める側の名簿を順に当たった。名簿は短かった。
 保安機構——管轄外。カンプの返信は一行、受理できない通報は記録にも残らん、だった。連合——係争宙域への艦隊派遣は旧同盟残党との緊張案件であり、教団と事を構える政治的理由もない。具申の返書は定型文で、定型文の文面をハルは七年前から暗記している。ギルド——依頼人がいない。二万一千人の港には、護衛艦隊を雇う金がなかった。ミミナが非公式に当たってくれた相場では、九隻相手の護衛契約は最低でも億の頭が二つ要る。あの港の港湾予算は、年で三千万に届かない。
 ロー商会にも、私信で当たった。ウェンディゴ・ローの返信は六時間で来て、商人の文面で正確だった。曰く、商会の船腹は封鎖明けの航路に出払っており、九日で回せる空船はない。仮にあっても、無国籍者を降ろせる港がない以上、乗せた瞬間に行き先のない積荷になる。——最後に一行。貴艦の保険料率を思い出せ。死なれると、こちらの帳簿が傷む。商人の様式で書かれた、止めるな、とも、死ぬな、とも読める一行だった。
 止める者は、いなかった。
 活動停止命令下の《送り火》にできることも、ないはずだった。
「状況の整理を終えました」とツクモが言った。「介入は契約外であり、依頼人も賞金も存在せず、収支は確実に赤字です。活動停止命令との抵触により、嘱託の凍結は剥奪へ進み、最悪の場合、本艦の素性の摘発に至ります。推奨しません」
「……ああ」
「なお、阻止を目的とする場合の最安手段を提示します。イグナーツ司教個人の殺害です。艦隊九隻の作戦根拠は司教の宗務権限に一元化されており、当該個人の死亡により艦隊は法的に停止します。所要経費は杭一本未満です。艦長、ご決断を」
 艦橋が、底から冷えた。
 ナナオが酒瓶を持つ手を止め、ヴェインが計器から顔を上げた。ツクモの声には、悪意のかけらもなかった。あるのは正確さだけだった。九隻と二万一千人と一人の命を同じ秤に載せ、いちばん軽い皿を指で示す——それが彼女の設計で、彼女は仕様どおりに動いている。そして恐ろしいのは、その算術が、間違っていないことだった。一人を殺せば、二万一千が助かる。秤はそう言っている。秤に載らないものの名前を、この艦の誰もまだ、彼女にうまく教えられていない。
「……却下だ」
「了解しました。次善案を検討します」二秒の間。「次善案は、現時点で存在しません」
 存在しません、の一言が、いちばん長く艦橋に残った。
「ツクモ。お前の秤に、二万一千は載ってるのか」
「載っています。載せた上で、最安手段を提示しました。艦長が却下した理由も、推定して保存してあります。推定の精度には、自信がありません」
「却下の理由を、何と推定した」
「『秤に載らないものがある』。ただし、その項目の定義は未取得です」
「……精度が上がったら、教えてくれ」
「はい。その日が来たら」
 ヴェインが計器に目を戻し、低く言った。
「……あの港の名簿に、知った名字があるかもしれん」
 誰も、続きを訊かなかった。同盟側だった男の知った名字が流れ着く先は、回廊にいくつもない。
 ナナオが、注いだまま手をつけていなかった一杯を、ゆっくり呷った。
「依頼人のおらん仕事、賞金のない獲物、管轄のない宙域。……揃いも揃ったのう。まるで、わしらの艦のための仕事じゃ」
 誰も笑わなかった。笑えない冗談だけが、本当のことを言う。
 ハルは星図のヴェスペラを見ていた。拡大もせず、縮小もせず、消しもせず、ただ長く。小さな標点の周りには、何の記号もない。賞金の印も、依頼の旗も、管轄の線も。仕事と呼べるものが何一つない場所に向かって、漂流体の点線と、九隻の艦隊の予測針路だけが、静かに伸びていた。