第128話 命令の外
第四五八日の朝、ハルは食堂にクルーを集めた。
集めて、結論から言った。
「ヴェスペラに行く」
誰も驚かなかった。驚かれなかったことに、ハルは少しだけ救われ、救われたことを帳面のどこにも書かないと決めた。
「先に値段を言っておく。活動停止命令下の出航だ。嘱託は凍結から剥奪になる。月給は二度と戻らない。係争宙域で教団と揉めれば、連合はこの艦を庇う理由を失う。最悪の場合——禁制中枢の所持で摘発される。艦と、職と、自由までだ。賞金はゼロ。依頼人もいない。帳簿の上では、ただの自殺行為だ」
「帳簿の外では?」とナナオが訊いた。
「……帳簿の外のことは、帳簿の外でやる。それだけだ」
言い終えて、ハルは「行くか」とは訊かなかった。訊く形を取れば、断る重さを四人に分配することになる。決断は配るものではない。七年前、配られた側に彼はいた。末端に均等に配られた責任が、どういう顔で人を潰すかを見てきた。だから配らない。それだけは、最初から決めてあった。
「行く。決めたのは俺だ。——降りる者はいるか。港に置いていく。給与は三月分払う。再雇用の紹介状も書く」
沈黙は、短かった。
「……舵、もらう」
ヴェインが先に立ち上がった。それだけ言って、もう艦橋の方を向いていた。同盟側だった男にとって、あの港が何なのかを、ハルは航路図で知っていた。復員船の終着の一つ。戦犯リストに載った者と、載った者の家族が流れ着く港。《グロム》の百十二人の、誰かの母親か娘が、あの二万一千人の中にいてもおかしくない。ヴェインは確かめたことがないはずだった。確かめないまま、舵を取りに行った。確かめてしまえば、舵が私情になる。あの男はそういう順番で、自分を縛る。
航路の選定は、そのヴェインが半日で引いた。係争宙域の縁を抜ける航路は公式の海図に三本しかないが、彼は四本目を知っていた。大戦末期、同盟の復員船が検問を嫌って使った、星図に載らない抜け道だ。
「……揺れるぞ」とだけ、彼は言った。
「構わない」
「飯は、先に食わせておけ」
それが、四本目の航路の説明の全部だった。それから彼は、艦の備品の古い星図——同盟製の、もう誰も更新しない版——を操舵席の脇に掛けた。七年ぶりに、役に立つ星図だった。
ナナオは医務室から、書類の束を抱えて戻ってきた。
「死亡保険の証書じゃよ。全員分、整理しておいた」と老医は言った。「やれやれ。掛け金を払うときだけは、わしも自分が年寄りでよかったと思うがの。……ハル。お前さんの受取人の欄、まだ空欄じゃが」
「知ってる」
「空欄のまま行くか」
「……空欄のまま行く」
「そうかの」
ナナオはそれ以上押さず、束を仕舞った。押さないことが、あの男の診察だった。空欄は病名ではない。だが症状ではある——その目つきだけを置いて、老医は医務室に戻っていった。
医務室では、棚卸しが進んでいた。鎮痛剤、火傷の被覆材、与圧障害の処置具。診療所を週の半分やってきた男の見立てで、買えるだけ買い足してある。
「九隻が本気で焼いたら、薬の出る幕はないがの」とナナオは棚に向かって言った。「出る幕があった場合に、足りん、というのだけは、ごめんじゃ」
ヨルは、操作卓の前にいた。港湾管制の公報に添付された、漂流体の管制波の記録。生の聴音ではない。録音の波形だ。それでも彼女には、聴こえる。聴こえることの規定をどこまで適用すべきか、ナナオと十分相談した上での、一日一回十分の閲覧だった。
「あの艦、ずっと言ってる」と彼女は言った。「『入港許可を求む』って。ずっと、ずっと。……三週間ぶん、ぜんぶ、おなじ言葉」
「ああ」
「だれも、へんじ、してない」
「返事の仕方が、誰にもないんだ。あれは七年前の符丁で、七年前の港に向かって言ってる」
「七年前の港は、もう、ない?」
「ない。いまあるのは、別の港だ。同じ場所にあるだけで」
「……『ただいま』って、いう、つもりかな」
「言うだろうな。七年遅れで」
「『おかえり』は、だれが、いうの」
ハルは答えを持っていなかった。持っていない答えの数を、この数日でいくつ数えただろう。
ヨルはしばらく波形を見ていた。それから、自分の帳面を開いて、まだ何も書かずに、閉じた。書く欄を決めかねている手つきだった。
「かえるばしょを、さがしてる艦を」と彼女は言った。「かえるばしょの、ない人たちごと、焼くの」
誰も答えなかった。その一文が、今回の仕事の全部だったからだ。
沈黙の終わりに、ツクモが一つだけ補足した。
「正確には、あの艦は教団の作戦根拠でもあります。砲撃の大義は、漂着艦の存在に置かれています。記録しておきます——根拠は、消すことができます」
その一言を、ハルは聞き流さなかった。頭の抽斗の、いちばん手前に置いた。
出航準備は半日で終わった。
補給は反応材と消耗品と医療品で一一〇万cr。内訳は反応材八十二万、消耗品十六万、医療品十二万。医療品の行だけ、いつもの倍あった。残高は九、八九三万になった。弾庫には自前の杭が二本。二本で何ができて何ができないかの目録を、ハルは作戦案より先に書いた。書いてみると、できることの欄は短く、できないことの欄は艦隊一個分あった。
「確認します」とツクモが言った。「本作戦で本艦が失われた場合の、乗員の扱いです。ヨルの保護先は、指定されていません」
ハルは手を止めた。
「……指定できる先が、あるか」
「ありません。確認しました、という記録だけが残ります」
「残せ」
「残しました」
空欄はもう一つ増えた。保険の受取人と、娘の保護先。この艦の書類は、いちばん大事な欄から順に空いている。
桟橋には、見送りも検問もなかった。活動停止中の傭兵艦が整備航行に出る——書類の上の景色は、それだけだった。整備航行の届出は港湾規則どおりに出してある。行き先の欄は空欄でいい様式を、ハルは選んで使った。書類の上の景色を整える技術で、彼は七年食ってきた。その技術を、命令を破るために使う日が来るとは、七年前の彼は考えなかっただろう。
最後の書類を窓口に出しに行くと、ミミナは受理印を捺してから、しばらく印面を見ていた。
「整備航行ね」
「整備航行だ」
「行き先の欄が空欄でいい様式を、わざわざ選んで」彼女は書類を仕舞い、窓口の上で手を組んだ。「……何も訊かない。訊かないけど、前にも言ったことを、もう一度だけ言うわ」
「ああ」
「生きて戻りなさいよ。窓口の転送箱、あんた宛てが一番溜まるんだから」
溜まるのが依頼なのか苦情なのかは、言わなかった。
係留索が外れ、艦が桟橋を離れた。
「出航しました」とツクモが言った。「航海記録への記載を確認します。本航海の目的は」
「……私用、と書け」
「私用。記載しました」二秒の間。「艦長。本件は、私の推奨した最安手段でも、次善案でもありません。成功率の算定基準が存在しない作戦です。それでも算定を試みますか」
「いらない」
「了解しました。算定不能のまま、出ます」
桟橋の灯が舷窓を流れていくあいだ、誰も喋らなかった。テネブラエの戦没者の壁が、一瞬だけ視界の隅を過ぎた。名前の刻まれる壁のある港から、名前を数える者のいない港へ。ヨルは舷窓に額をつけて、壁が見えなくなるまで見ていた。
縫航機関が充填の唸りを上げた。いつもの音だった。いつもの音の中で、ツクモの定型句が、いつもより半拍遅れて、いつもより静かに響いた。
「——艦長、ご決断を」
「もう、した」
「はい。記録のために、伺いました」
縫航の光が艦を包んだ。
航路に出て最初の定時計算で、ツクモが彼我の到達予測を並べた。ヴェスペラまで、《送り火》は三日と七時間。教団艦隊九隻は、集結点からの針路と速度から逆算して——三日と一時間。
「教団艦隊のほうが、六時間早い」
六時間。星図の上では、点線二本の僅かなずれでしかなかった。そのずれの間に何ができるかの目録を、ハルは書き始めた。今度の目録は、もっと短かった。