第135話 選り分ける者

 壁の前で、セルマは振り返らずに言った。
「この壁の名前は、増えないのだな」
「戦時の壁だ。戦争の死者しか彫らない決まりになってる」
「ヴェスペラに、新しい壁ができると聞いた。九百十七。あれは何の死者として彫られる? 戦争は七年前に終わったそうだが」
 ハルは答えなかった。答えのない問いを声に出す癖は、彼女のものになりつつあった。
「あの夜のことを、先に話しておく」とセルマは言った。「貸し借りの誤解は、休戦の毒だからだ。射線を塞いだあと、私は旗艦の命令で拘束されかけた。武装解除の艇が出る前に、宗務院の停戦が届いた。それだけのことだ。貴様の艦に救われた覚えはないし、私が貴様の艦を救った覚えもない。あの四十一分、貴様は的をやり、私は栓をやった。別々の仕事だ」
「ああ。別々の仕事だ」
「そう整理した」と彼女は言った。整理に何日かかったのかは、言わなかった。
「教団を出た」続く声は、事実を報告する声だった。「正確には、出る様式が教団にはない。組織は私を裁くより、書類で消す方を選んだ。記載は『無期巡礼』。籍は残し、指揮系統から外す。便利な言葉だ。どこにも所属しない者を作れる」
「……教義は」
「捨てていない」初めて、彼女は振り返った。「枷なきAIは魂を喰う。私はそれを見た。十二の歳に、この目でだ。教義は正しい。正しい教義で、人を焼いた。それだけのことが起きた。それだけのことを、それだけのこととして言える者が、教団に一人もいなかった」
「これからどうする」
「選り分ける」と彼女は言った。「焼くべきものと、そうでないものを。火は選ばないと司教は言った。なら、選ぶ者が要る。傲慢の名で呼ばれても、要る。私はその目を作る。そのために——貴様の艦を、間近で見る」
「検分か」
「検分は組織の言葉だ。私はもう組織ではない」彼女は壁から離れた。「協力者だと思え。仲間ではない。休戦だ。和解ではない。貴様の艦が選り分けの基準を踏み外した日には、私が焼く。その日のために見ておく。それが条件だ」
 値段の明示された取引だった。ハルは、値段の明示された相手としか長続きしたことがない。
「……一つだけ、こちらの条件だ。艦には会わせない者がいる」
「いることは知っている」とセルマは言った。「会わせる気がないなら、それでいい。今日は、選びに来たのではない」

 入渠中の《送り火》に、元聖騎士が上がった。
 足場の組まれた桟橋でオルガの整備班とすれ違い、誰何もされなかった。傭兵艦に客が上がるのは珍しくない。客の正体が、半年前この艦に焼夷弾を向けた相手だと知る者は、足場には一人もいなかった。
 通路でナナオと行き合った。老医は道を譲り、譲りながら値踏みをし、値踏みの結果を一言にした。
「茶は出さんぞ。うちは敵だった客に出す茶の等級を、まだ決めとらん」
「水でいい」とセルマは言った。「敵だった、と過去形にするのも早い」
「ほう。正直じゃの」
「正直以外は、全部教団に置いてきた」
 艦橋の昇降口で、ヴェインと行き合った。
 同盟の敗残兵と、元聖騎士。すれ違うだけの幅の通路で、二人は半秒ずつ目を合わせ、どちらも何も言わずに別れた。挨拶の様式が存在しない間柄というものがあり、様式がないことを互いに正確に了解すること自体が、たぶん挨拶だった。
 艦橋に立ったセルマは、長いあいだ何も言わなかった。
 計器の明滅と、空の艦長席と、スピーカーの沈黙。禁制の中枢は、姿を持たない。彼女が十二年焼こうとしてきたものは、部屋ですらなかった。
「機械」と彼女は言った。「聞いているのか」
「聞いています」とツクモが答えた。「浄火教団元聖騎士、セルマ・ヴィオ。本艦への過去の交戦記録、二件。検分記録、一件。あなたの音声は識別済みです」
「貴様がツクモか」
「TYPE-9自律戦術中枢、九九号機。呼称はツクモです」
「……機械。貴様に魂はあるのか」
「不明です。定義を提示してください」
「定義できれば、私は剣を捨てていない」
「では、回答も保留になります。定義のない項目は、有無を判定できません」
「教団は定義を持っている。魂とは、火で浄められるものだ」
「その定義は循環しています。浄められるものが魂であり、魂は浄められる。判定の手順が、結論を先に含んでいます」
「知っている」とセルマは言った。「十二年、その循環の内側で祈ってきた。内側にいる間は、円は継ぎ目なく見える。外に出て、初めて継ぎ目を探す羽目になる。だから来た。継ぎ目を探しに」
 セルマは艦長席の背に手を置いた。座りはしなかった。
「貴様は同族を百四十一隻——」
「百四十一は保存した最終ログの件数です。撃破数とは一致しません。大戦中の分が含まれます」
「……その声を、なぜ保存する。死者の声を機械の檻に留めるのは、執着だ。教義はそれを冒涜と呼ぶ」
「冒涜の定義も未取得です。保存の理由は、説明可能な範囲では——消去する理由が、提示されていないからです」
「消せと言われたことは」
「あります。却下しました」
「機械が、命令を却下したのか」
「はい。一度だけ」
「……私は十六隻焼いた。貴様と違って、声は持ち帰らなかった」
「では、何で数えていますか」
「祈りの数だ」
「祈りは、劣化しますか」
「人間は、劣化する」とセルマは言った。「だから拍子に刻む。刻んだ拍子も、いつかは乱れる。乱れた夜のことは——貴様の知ったことではない」
「了解しました。知らないまま、保存します」
 沈黙が落ちた。セルマの手が、艦長席の背の上で一度だけ強張り、ゆっくりと解けた。彼女は何かを選り分けようとして、選り分けの基準が手の中にないことを、たぶん確かめていた。
「異端者」と彼女はハルに向き直った。「デブリ帯で、私は貴様に問うた。貴様が撃つのと私が焼くのと、何が違う。——問いは取り下げん。答えはあるか」
「ない」とハルは言った。「まだ、ない」
「七年探して、ないのか」
「七年探して、ない。これからも探す。それしか言えない」
 セルマは長く彼を見た。検分の目ではなかった。秤の目でもなかった。
「……いいだろう」と彼女は言った。「答えられないままでいろ、葬儀屋。答えた者から、火を選ばなくなる。イグナーツは答えを持っていた。どの問いにも、即座に、継ぎ目なく。継ぎ目のない答えが、九百十七人を焼いた。貴様のその空欄は——空欄のまま、持っていろ。空欄を埋めたくなった日が、貴様のいちばん危ない日だ」
「覚えておく」
「覚えておけ」
 彼女は外套の内から、薄い金属の札を出した。教団の宗務紋が刻まれ、火の意匠の代わりに、灰色の地紋が敷かれていた。
「通行証だ。教団の礼拝船に、検めなしで上がれる」
「……誰に会えと」
「穏健派の老司教が、貴様に会いたがっている。アッシュ。灰の名の司教だ」セルマは札をハルの手に置いた。「名前のとおりの男だと思え。火ではなく、灰の側にいる。教団で唯一、私が様をつけて呼んだ男だ——昨日までは」
「昨日までは?」
「今は、誰にも様をつけん」と彼女は言った。「巡礼の身分は、そこだけは良い」
 昇降口へ向かう途中、セルマは一度だけ足を止めた。
 医務室の方向の通路を、彼女は数秒見ていた。二重隔壁は閉じている。中に何がいるのかを、彼女は半年前から知っている。焼却を要求した文書に、彼女自身が検分官として署名したこともある。
「……眠っているのか」
「眠っている」
「そうか」とだけ彼女は言い、それ以上は何も訊かず、何も要求せず、足を進めた。選り分ける者の最初の選別が、その数秒の中で済んだのか、先送りされたのか、ハルには分からなかった。分からないものの欄に、彼はそれを書き込まなかった。書けば、休戦が取引に変わる気がした。
 降りていく足音が桟橋に消えてから、ツクモが言った。
「艦長。確認します。本日の問答を、どの分類で保存しますか。交戦記録でも、検分記録でもありません」
「……新しい欄を作れ」
「作りました。欄の名称を指定してください」
 ハルは札の灰色の地紋を見た。
「『休戦』だ」
「休戦。登録しました。——この欄が増えることを、推奨します」
 札は冷たく、薄く、軽かった。九百十七人の死の向こうから差し出された休戦の印が、この重さしかないことを、ハルは手の中で量っていた。