第134話 不問
ヴェスペラからの帰路は、三日と七時間かかった。
行きと同じ航路を、行きと逆向きに、誰もほとんど喋らずに飛んだ。ヴェインは舵を取り、ナナオは医療品の在庫表を作り直し、ヨルは医務室で眠り続けた。ハルは帳簿の整理をした。整理する数字の大半は、まだ確定していない種類のものだった。確定していない数字を眺める時間のことを、世間では喪と呼ぶのかもしれなかった。誰もその言葉は使わなかった。
テネブラエに帰投したのは第四六九日の昼だった。
桟橋には拘束も封鎖もなく、保安機構の事情聴取の呼び出しが一枚、転送箱に入っているだけだった。様式は任意。任意、という字の読み方を、ハルは知っている。来なければ任意でなくなる、という意味だ。
ギルドの窓口で書類を受け取るとき、ミミナは転送箱の中身を黙って押し出した。依頼が三件、苦情が七件。苦情のうち四件は教団系の遺族会からで、三件は差出人がなかった。
「ヴェスペラの話、もう港中が知ってるわ。半分は本当で、半分は尾ひれ。あんたが九隻沈めたことになってる版まである」
「沈めてない。一隻も」
「知ってる。……知ってるけど、訂正して回る商売じゃないのよ、うちは」彼女は依頼の三件だけを揃え直した。「生きて戻ったわね。それだけ受理しとく」
分署の聴取室で、カンプは書類を三枚並べ、長いあいだ何も言わなかった。
「ヴェスペラの件で、各所から照会が来てる」とやがて彼は言った。「教団からは、異端の艦が浄火を妨害したと。港湾管制からは、国籍不明の艦が救難に従事したと。連合からは——お前の艦が当該宙域にいたかどうか、事実確認をしろと」
「事実は」
「これから書く」カンプは一枚目に手を置いた。「活動停止中の傭兵艦《送り火》は、当該期間、整備航行の届出により行動。当分署は、当該宙域に同艦の所在を確認せず。——以上だ」
「……確認せず、か」
「うちの観測網は予算不足でな。係争宙域までは届かん。届かんことになってる」彼は判を捺した。「公式には、お前は現場に居なかった。公式には、な。……一つだけ役人の外の言葉を言う。九百十七人の港で、もう一つ数字が増えなかった理由を、俺は知らんままでいる。知らんままでいるのが、俺の払える全部だ」
それで聴取は終わった。
連合からの回答は、八日かかった。第四七七日、外縁方面政務部発、様式は通知書。本文は三行だった。
——ヴェスペラ宙域の件につき、貴艦の行動は不問とする。特務戦隊の活動停止は継続する。本件に関する照会には今後応じない。
「不問、ときたか」とナナオが覗き込んだ。「処罰でもなし、赦免でもなし。罪の欄を、空欄のまま閉じる判子じゃ」
「役所の判子で、いちばん冷たいやつだ」
「冷たい判子ほど、捺すまでに人が動いとる。……誰が動いたか、じゃがの」
答えは、その日の夕方に向こうから来た。
ホーク大佐は桟橋の事務所に、副官も連れずに現れた。茶も出ない部屋で、彼は通知書の写しを一瞥し、机に戻した。
「三行で済んだ。悪くない結果だ」
「あんたが回したのか」
「世論は教団に向いてる。中立港の大量死は、連合にとっても扱いたくない火だ。お前を処分すれば、なぜ処分できたのか——つまり、お前があの宙域で何を見たのかを、法廷で喋らせることになる。誰も得をしない。それだけの算術だ」
「……九百十七人は、その算術のどこに載る」
「載らない」とホークは言った。即答だった。「載せる欄が、連合の帳簿にはない。係争宙域の無国籍者は、どの台帳の死者でもないんだ。お前なら知ってるだろう。台帳に載らない死は、政治の上では起きていない」
知っている。七年、その種の死を自分の帳簿にだけつけてきた。知っていることと、軍服の男の口から聞かされることは、別の温度をしていた。
「教団は、どうなる」
「査問の結果が出る。謹慎、というところだろう。長くて三年」とホークは言った。「驚かないんだな」
「……九百十七人が議題に載らない組織の相場なら、その辺りだ」
「相場の読める男は、長生きする」とホークは言った。「読めた相場に腹を立てない男は、もっと長生きする。お前はどっちだ」
ハルは答えなかった。答えの代わりに、通知書を畳んだ。
ホークは立ち上がり、出口で一度だけ振り返った。
「言ったろう、貸しにしておくと。帳簿は俺がつけてる。お前は仕事を続けろ。続けられる日が、また来る」
足音が遠ざかってから、ナナオが低く言った。
「……二度目じゃの、あの台詞は」
「ああ」
「ハル。わしは医者での、患者の顔色で飯を食うてきた。あの男の顔色は、恩人の顔色じゃない。あれは——飼うとる者の顔じゃ。飼い殺しなら、餌を切ればええ。あの男は切らん。嵐のたびに、わざわざ傘を差しにくる。高い傘をの」
「……理由は」
「分からん。分からんが、傘の代金をいつ、何で取り立てる気か——それを考え始めると、夜が長うなっての」
ハルは読めないものの欄に、その夜もう一行書き足した。欄は、また少し厚くなった。
艦は第四七〇日から入渠していた。
被弾は外殻第三層まで。見積りは四〇〇万だった。外注に入った外環サルベージ社の整備班——班長はオルガだった——が第二層を開けると、近爆の衝撃で骨材に古い亀裂が三本見つかった。
「あんたの艦、外側の傷より中の傷が古いよ」と彼女は伝票を寄越した。「葬送艦規格の骨材なんて市場にない。手で起こすから、時間と金がかかる。三五〇万、上乗せ」
「……頼む」
「毎度どうも、と言いたくないんだけどね、この艦には」オルガは伝票の控えを千切った。「次は中の傷が増える前に来な」
請求は締めて七五〇万になった。老朽艦の修理はいつもそうだ。傷を開けると、戦争が出てくる。
残高、八、三四八万。
収入の欄は、月給の止まった日から空白のままだった。賞金は凍結されたままで、月次の固定費だけが正確に落ちていく。ロー商会の月極護衛は活動停止と同時に休止扱いで、再開の条件は「公式の身分の回復」——つまり、誰かの机の判一つだ。判を待つ艦の帳簿は、待つことそのものに月一四五万の値段がつく。
「飢えはせん」とナナオは言った。「飢えはせんが、出ていく一方というのは、性に合わんのう」
「葬儀屋の帳簿だ。出ていく一方の月くらいある」
ハルは帳簿の撃破の頁を開き、二十六隻目の行を書いた。識別符号なし、艦籍不明、旧同盟系大型艦、全長七百メートル級。撃破地点、ヴェスペラ宙域。賞金、〇。コアタグは回収済みのまま、提出先がなかった。係争宙域の還らず艦には、賞金を払う管轄がない。杭の損耗二五〇万は、補充引当としてとうに残高から外してある。補充できる市場が残っているかは、別の欄の問題だった。
四千十二、引く、二十六。
引き算の下に、彼は小さくヴェスペラの暫定値を書き写した。九一七。自分の撃った数字ではない。だが自分の帳簿に載せないでいられる数字でもない。載せる規則はどこにもなく、載せない規則もなかった。
「艦長」とツクモが言った。「修理完了予定は第四八一日です。なお、本件の収支を要約しますか」
「してみろ」
「支出、千二百九十二万。収入、〇。差引、千二百九十二万の赤字です。費目は、私の語彙では分類できません」
「……『私用』と書いてある」
「はい。航海記録に、そう書きました。私用の定義を、私はまだ取得していません。取得の優先度は、上げてあります」
医務室では、ヨルが起き上がれるようになっていた。寝台の上で帳面を開き、まだ何も書かず、頁だけを整えている。報告の言葉を選んでいるのだと、ナナオは言った。急かす者は、この艦にはいない。
夕刻、ハルは届け物の帰りに、埠頭の戦没者の壁の前を通った。
テネブラエの壁は戦時のものだ。刻まれた名前は七年前から増えていない。その壁の前に、人が一人立っていた。
祭服ではなかった。聖騎士団の制服でもなかった。飾りのない私服の上に、外套を一枚。腰に剣はなく、首元に、小さな聖印だけが見えた。
セルマ・ヴィオが、彫られた名前を、端から順に読んでいた。