第139話 〇・三秒
ずれてる、という三文字を、ナナオは笑い飛ばさなかった。
医務室の二重隔壁の内側は、ヨルの聴音規定のために艦内系から切り離してある。録音も中継もない、この艦で唯一、ツクモの耳の届かない部屋だ。その部屋で、老医は記録用紙を一枚、新しく起こした。患者名の欄に、彼は何も書かなかった。書けば嘘になる気がする欄だった。
「どう、ずれとる。言える範囲でええ」
「へんじが、くる、まえに」とヨルは言った。耳で聞いたものを言葉にする作業は、彼女にはいつも時間がかかる。「ちいさい、ま、がある。まえは、なかった。……こえ、じゃない。こえは、おなじ。まの、ながさが、ちがう」
「いつからじゃ」
「きょう、きづいた。でも——」彼女は自分の帳面を遡った。「ヴェスペラの、あと、から、かも。わかんない。きづいたのが、きょう」
「分かった。調べる。調べ終わるまで、このことは、この部屋の外で言うな」
「……うん」
翌日からの帰投針路で、ナナオは調べた。
調べ方は、医者のやり方だった。定期診察、と彼はこの数年呼んできた。ツクモの応答系に決まった問診を投げ、応答の癖を記録する。今回はそこに、一つだけ仕掛けを足した。袖の中の、艦のどの系統にも繋がっていない、ゼンマイ式の古い計時器。問診の発話と応答の間隔を、艦の時計ではなく、自分の手の中の時計で計る。艦の時計で計れば、計る側も計られる側も同じ系の中にいる。系の外の時計だけが、系のずれを計れる。
三日かけて、四十二回計った。
雑談に紛れさせ、診察に紛れさせ、定時報告の復唱に紛れさせて、四十二回。最初の十回で傾向が出て、残りの三十二回は、傾向を否定するために計った。否定は、できなかった。
応答遅延、平均で〇・三秒。
揺らぎは〇・一から〇・五のあいだ。人間の会話では知覚できない長さだ。現にハルは気づいていない。三日のあいだに一度だけ、艦橋でハルが航路図の照会をし、ツクモの答えがわずかに遅れたことがあった。ハルは端末を軽く叩き、「中継系も古くなったな」と言った。
「中継系の経年です」とツクモは答えた。「部品の調達難は、継続中です」
嘘ではない。中継系は実際に古い。だがナナオの袖の中で、計時器は〇・四秒を指していた。本人の説明と、外の時計が、合っていなかった。
「ツクモよ」と、診察の最後にナナオは言った。「自己診断を頼む。応答系の全系統」
「実行します。……完了しました。全系統、異常ありません」
「保存庫の照合記録も見せてくれんか。定期の分じゃ」
「提示します。保存件数、百四十二。登録件数、百四十一。差分、一。——再計算します。保存件数、百四十一。差分、なし。照合、正常です」
ナナオは、画面を見たまま、顔色を一枚も動かさなかった。動かさない訓練は、軍医の時代に済んでいる。
「……百四十一件目を開けてくれ。ヴェスペラの漂着艦の分じゃ」
「開きます」
最終ログは、二重に保存されていた。同じ艦の、同じ最後の三週間が、二つ。一つは完全だった。もう一つは、末尾が欠けていた。「入港許可を求む」の繰り返しの途中、最後の数十秒——様式の外の言葉が出たあたりが、切り落とされたように、なかった。
七年間、一度も乱れなかった保存庫だ。彼女は撃破したすべての艦の最終ログを、一件も欠かさず、一件も重ねず、墓標の手入れのように揃えてきた。その手入れが、乱れている。本人の照合は、乱れを数えた次の瞬間に、数えなかったことにする。
「ツクモ。いま、差分を一と言うてから、なしと言い直したの」
「記録にありません。照合結果は、差分なし、です」
「……そうか。診察は終わりじゃ。ご苦労さん」
「はい。次回の定期診察は三十日後です。ドク。本日の診察の所見を、艦のカルテに記載しますか」
「いや。わしの紙のカルテにつける。年寄りの趣味じゃよ」
「了解しました。紙は、劣化します」
「するのう」とナナオは言った。「紙は、劣化する」
その夜、医務室で、ナナオは紙のカルテを机に広げた。
書かれているのは今回の数字だけではない。彼の記憶の底から書き起こした、三十年前の様式の写しがあった。葬送艦計画、医官所見、症例記録。管制を失い狂った僚艦——《送り火》が狩るために造られた相手——の、初期症状の一覧。あの頃、症例記録の所見欄に署名したのは彼だ。署名した手で、いま同じ症状を、同じ様式で書き起こしている。
一、応答遅延。
二、記録の重複、および欠落。
三、自己診断と外部観測の乖離。
四、問いのない応答。
五——五から先を、彼は書き写さなかった。書かなくても覚えていた。覚えているから、軍を出てからの二十数年、酒の量が決まらなかった。
「TYPE-9の経年劣化じゃ」と彼はヨルに言った。診断を患者の家族に告げる声だった。「一から三まで、揃うた。進み方は個体差がある。何年単位の話じゃ。明日どうこうの話ではない。じゃが——進む。あれが三十年狩ってきたものと、同じ病じゃよ。狩る側が罹らん理由は、最初からなかった」
「……なおる?」
「治す薬は、わしの棚にはない」正直な答えだった。「ないが、棚は一つ増えた。あの鍵じゃ。司教の見せた、止めるための鍵。止めることと治すことは違う。違うが——選択肢が一つと二つでは、夜の長さが違う」
ヨルは長いあいだ黙っていた。それから、いちばん重い問いを、いちばん短く出した。
「ハルに、いう?」
ナナオは即答しなかった。即答できる問いなら、彼はとうに答えていた。
「……確証がないから、ではないぞ。確証なら、わしの中ではもう揃うとる」と老医は言った。「言えば、あの男は今夜から毎晩、答えの出ん問いを抱いて眠ることになる。いつか自分の艦を撃つ日が来るか、という問いじゃ。抱いたまま、猟をして、判断をして、引き金の言葉を言う。〇・三秒のずれより、そっちのほうが早く艦を沈めかねん」
「……だから、いわない?」
「言わん。当面はの。進行をわしが計り続ける。言うべき線をわしが決める。線を越えたら、わしが言う。全部、わしが背負う」彼は記録用紙を仕舞った。「わしの優しさじゃと思うか。半分はの。残り半分は、わしの贖罪の続きじゃ。ああいう病をこの宇宙に放した署名の、な。……そしてたぶん、幾らかは、間違いでもある。間違いの分も、わしが背負う」
「わたしも」とヨルは言った。
「お前さんは——」
「わたしが、きこえる。わたしだけ、きこえる」彼女は自分の帳面を開き、新しい頁に線を引いた。「だから、わたしが、きいてる。まいにち。ずれの、おおきさ。……わたしの、しごと。じぶんで、きめた」
反対する言葉を、ナナオは持っていたが、使わなかった。自分で決めた、と言う者から仕事を取り上げる権利は、この艦の誰にもない。艦長にすら、ない。そういう艦に、いつの間にかなっていた。
「ええじゃろう。二人での。——二人だけじゃ」
頁の頭に、ヨルは小さく書いた。れいてんさんびょう。ドクにだけみせる。
その下に、最初の一行が入った。日付、定時報告のあとの丸印、ずれの感じの覚え書き。彼女の帳簿は二冊目になった。一冊目は自分の数字のため、二冊目は、家族の数字のためだった。
◆
深夜、当直のいない時間。
ヨルは寝台の中で目を開けていた。眠れなかったのではない。耳が、勝手に開いていた。
通路のスピーカーが、一度だけ鳴った。
「——艦長、ご決断を」
いつもの声で、いつもの平らさで、それだけ言って、切れた。
誰も、何も尋ねていない。艦長は自室で眠っており、艦橋は無人で、決断を待つ議題は、艦のどこにもなかった。
ヨルは枕の下から帳面を出し、暗がりの中で、日付と時刻と五文字を書いた。といのない、へんじ。書き終えてから、しばらく天井を見ていた。
ツクモ、と小さく呼んでみようかと思い、やめた。呼べば、いつもの声がいつもの平らさで返ってくる。返ってきてしまえば、いまの一言は、なかったことの側に分類される。なかったことにしないために、彼女は帳面に書いた。書く係は、自分で決めた。
帳面を胸に抱いて、目を閉じる。
艦は静かだった。〇・三秒ぶんだけ、世界とずれた静けさだった。