第140話 閑話・灰の司教
査問は、四時間と二十分かかった。
アッシュ司教は、議事のあいだ、言葉を数える癖を六十年やめられずにいる。四時間二十分の議事録の中で、「手順」という語は八十一回使われた。「逸脱」が四十七回。「浄火」が三十九回。「殉教者」が三回。
「死者」は、零回だった。
九百十七という数字も、一度も読み上げられなかった。議題は二件。停戦命令の受領から砲門閉鎖までの時間が規定を超過した件。対象一の喪失が確認された後、斉射が三巡継続された件。証人は旗艦の砲術長と通信士官。証言はどちらも正確で、簡潔で、よく訓練されていた。砲術長は斉射の時刻を秒まで諳んじ、通信士官は停戦命令の受領記録を読み上げた。誰の証言の中でも、火の落ちた先には構造物だけがあった。第三区画、という語は構造物の番号として七回使われ、そこに住んでいたものの話は、様式の上で存在しなかった。
イグナーツは、被査問者の席で背筋を伸ばしていた。
弁明は短かった。手順の逸脱は認める。判断は神の御前に正しかったと信じる。それだけを言い、あとは問われたことにだけ答えた。揺るがない老人だった。揺るがないことが、あの男の信仰のすべてだった。一度だけ、彼は査問席を見渡して言った。
「火を待たせた者の罪は、ここでは問われぬのか」
誰も答えなかった。答えない、という形で、査問は答えた。
裁定は、謹慎三年。宗務権限の停止、巡回権の停止、ただし司教位は保持。採決は七対二。アッシュは、賛成の七の中に手を挙げた。
挙げながら、彼は自分の手を見ていた。老いて、染みの浮いた、署名のための手だ。この手で署名を拒めば、何が起きるかを彼は知っている。穏健派の査問委員は二人。拒んだ瞬間に、教義への不忠の嫌疑で席を失う。席を失えば、次の浄火の作戦要綱を事前に読める者がいなくなり、停戦命令を起案できる者がいなくなる。ヴェスペラで九隻の砲門を閉じさせたあの三行は、この席があったから出せた。三行は、遅かった。遅かったが、無よりは早かった。
九百十七人で、三年。その裁定書に、彼は丁寧に署名した。
丁寧に署名することだけが、彼に残された抗議の様式だった。乱れた字は議事録に残らない。丁寧すぎる字も残らない。何も残らない。組織とは、そういうものだ。六十年いて、そういうものでないところを、彼は一度も見たことがなかった。
散会の廊下で、イグナーツと行き合った。
謹慎の身柄を移される途中の老人は、足を止め、昔からの同輩に短く目礼した。
「アッシュ。貴公の三行が、浄火を穢した」
「貴公の十四秒が、教団を穢した」
「いずれ神が分けてくださる」とイグナーツは言った。穏やかな、揺るがない声だった。「私は三年、祈って待つ。貴公は何年、数えて待つ」
答えずにいると、老人は満足したように頷いて、護送の修道士とともに歩み去った。答えなかったのではない。数えはじめると終わらないことを、知っていただけだ。
自室に戻ると、灰色の祭服の肩が、いつもより重かった。
机の上に、決裁待ちの書類が積んである。一番上は、セルマ・ヴィオの処遇に関する強硬派の上申だった。抗命、陣形破壊、利敵。軍法ならば三つ揃って極刑の品書きだ。アッシュはその上申を、自分が先に出しておいた一枚の記載で潰してあった。——聖騎士セルマ・ヴィオ、無期巡礼を命ず。巡礼者は指揮系統に属さず、ゆえに抗命の主体たりえず。
書類で人を消す技術は、人を救う方向にも使える。使える者が席にいれば、の話だ。
あの娘は、灰の埠頭で剣を置き、聖印を拾ったという。報告書でそれを読んだ夜、老司教は久しぶりに長く祈った。教団は十二歳の彼女に教義を与え、二十四歳の彼女を見せしめの人事で火の真下に立たせた。それでも彼女は、聖印を捨てなかった。査問の出せない裁定を娘が一人で出し、教団に残ったのは、裁定書の上の丁寧な署名だけだ。どちらが信仰と呼ばれるべきかは、考えるまでもなかった。考えるまでもないことを、議題にできる席は、教団のどこにもなかった。
従軍司祭だった頃のことを、近頃よく思い出す。
終戦の年、彼は解体場にいた。帰還命令に従って戻ってきた自律艦が、桟橋に並んで順番を待ち、一隻ずつ潰されていく。彼の職務は、その一隻ごとに祝福を与えることだった。浄めの言葉を唱え、聖印を切り、次の艦へ歩く。一日に多いときで十一隻。艦たちは静かだった。抵抗した艦は一隻もなかった。命令に従って帰り、命令に従って並び、潰される瞬間まで、係留索の指示に正確に応答していた。
何十隻目だったか、一隻の小さな護衛艦の通信灯が、解体機の腕が降りる直前に、規則正しく明滅した。港湾の作業波で、ありふれた定型の符丁を打っていた。——帰投完了。次の任務を待つ。
次の任務は、なかった。あったのは解体機の腕だけだった。
その日の祝福を最後まで唱え終えてから、アッシュは自分の唱えたものを「浄め」と呼ぶことを、心の中でやめた。声に出してやめれば席を失う。心の中でやめるだけなら、誰にも知られない。あの日から、彼の信仰は火の側にない。燃え終わったあとに残り、降り積もり、誰の目にも美しくないもの——灰の側にある。教団の同輩は彼を穏健派と呼ぶ。違う、と彼は思っている。私はただ、燃やしたあとの景色を見る係を、長くやりすぎただけだ。
聖遺物の庫の鍵は、今夜も聖印の裏で冷たい。
あれを教団に持ち込んだ者のことは、台帳のどこにも書かれていない。書かなかったのは、当時まだ若かった彼自身だ。理由も、素性も、託されたときの言葉も、彼は一人の死まで持っていくと決めている。決めているが——あの言葉だけは、近頃、夜ごとに戻ってくる。燃やさずに済む道は、燃やす者のいちばん深いところに隠せ。隠し場所として、教団ほど深い場所はなかった。深すぎて、七年、誰の役にも立たなかった。役に立つ日が来るとすれば、それは鍵が掘り出される日で、掘り出す手はもう決めてある。
先日、若い書記が訊いてきた。葬儀屋にお会いになったそうですが、と。あれはどのような男です、噂では、機械に魂を売った異端の頭目だと。
アッシュは、書類から目を上げずに答えた。
「あれは火の男ではない。土の男だ」
「土、ですか」
「墓を掘る者は、燃やす者より長く死者を覚えている。わたしどもは燃やして、忘れるために祈る。あれは埋めて、忘れぬために帳面をつける。……どちらが死者の側に立っているか、わたしはもう、答えを持ってしまった。持ってしまった答えは、誰にも言わぬがの」
書記は曖昧に礼をして下がった。曖昧な礼を覚えることが、この組織で長生きする最初の技術だ。あの書記は長生きするだろう。
夜半、最後の報告書の束に手を伸ばした。
宗務院の定例報、各星系の巡察記録、献金の収支。ヴェスペラの復興献金は、事変への世間の風向きを映して、教団史上最大の額が集まりつつあった。焼いた側に、焼いた先の復興の金が集まる。その皮肉を指摘する者は、収支の頁のどこにもいなかった。
束のいちばん下に、外縁深部の観測拠点からの一報が挟まっていた。写しの写しの、そのまた写し。誰も重要だと思わなかった順路で、彼の机まで流れ着いた紙だった。
——外縁回廊深部、複数の還らず艦に同期移動の兆候。推定規模、観測史上最大。針路、不明。
群れが、また動き始めた。
アッシュは長いあいだ、その一枚を見ていた。
ヴェスペラの漂着艦は、一隻で来た。一隻で、九隻の艦隊と九百十七人の死を呼んだ。観測史上最大の群れが、いつか、どこかの有人の空に針路を取る日のことを、彼は想像し、想像の途中でやめた。老いた想像力にも、経費の節約は要る。代わりに彼は、机の抽斗から白紙の様式を一枚出した。宗務院宛、観測情報の重要度引き上げの上申。通る見込みの薄い紙だが、紙は出した日付だけは残る。残る日付が、いつか誰かの役に立つ。六十年、そうやって書類を書いてきた。火の好機と読む者が、教団の半分にいる。資産と読む者が、連合のどこかにいる。同胞と呼ぶ何者かが、あの闇のどこかにいる。そして、墓を掘る男が一人、回廊の真ん中にいる。
老司教は報告書を畳み、祈りの言葉を短く唱えて、灯りを消した。
灰色の闇の中で、聖印の裏の鍵だけが、しばらく体温より冷たかった。