第142話 再就役

 停止解除は、翌朝下りた。
 六十日塩漬けにされた嘆願が、四通目を書く前に通った。政治の速度というのは遅いのではない。誰かが押すまで動かず、押された瞬間だけ異様に速いのだ。命令書の文面をハルは三度読んだ。送り火隊、限定再就役。任務は第七星系における「事態の調査および民間人退避の支援」。月給の項はなく、戦果は事後の調整金で精算するとある。嘱託の腕章は返ってこない。撃つことは止めないが、抱えることはしない、という文章だった。そして末尾の一文。
 ——浄火教団による係争中の請求は、本命令の期間中、凍結を継続する。
「撤回じゃない」とハルは言った。「凍結だ。棚に上げただけで、棚は残ってる」
「棚の高さを決める権限も、降ろす時期を決める権限も、本艦にはありません」とツクモが言った。「ですが、文言の精度から判断して、起草者はこの差を正確に理解しています。理解した上で、こう書いています。便利なあいだは使い、便利でなくなった日に棚から降ろす、と読める文面です」
「読めるな。俺にも読める」
「読めるように書いてあるからです。これは通知であり、同時に首輪です」
 誰が押したのかは、午後の通信で分かった。

「再就役おめでとう、と言うべきかな」
 画面の中のホーク大佐は、十一時間遅れの戦場の話をするには穏やかすぎる顔をしていた。
「あんたが押したのか」
「私は書類を正しい机に運んだだけだ。お前の嘆願は正しかった。正しい書類は、いつか通る。……いつか、ではアルマの連中が困るから、少し急がせた」
「礼は言う。任務はやる」
「頼んだ。それでだ、ハル」大佐の声は変わらなかった。変わらないまま、話の重心だけが動いた。「アルマ解体廠には保管目録がある。処分待ちの艦体、摘出済みの中枢区画、それから——特殊な管制装置の関連在庫だ。現地に入ったら、目録と現物の照合をしてほしい。何が持ち去られ、何が残ったか。とりわけ中枢区画の現状を、数で報告してくれ」
「人より先に、棚卸しか」
「人はお前が数えなくても誰かが数える。棚は、お前にしか数えられん」ホークは薄く笑った。「軍縮というのはな、捨てた物の在庫管理だ。在庫が歩き出したとなれば、なおさらだ」
「退避支援が本務だ。棚は、手が空いたらやる」
「それでいい。順番に文句をつける気はない。——数だけは、正確に頼む」
 通信が切れたあと、ハルはしばらく暗い画面を見ていた。言っていることは正論だった。正論で、手続きとして正しく、そしてあの男は、十分あまりの通話のあいだ、死者の数を一度も訊かなかった。数えてくれと言われたのは、骸の数だけだった。

 僚艦は二日で揃った。
 《迎え火》のコルベル大尉は、移乗してくるなり敬礼し、書類鞄から古い手順書を出して見せた。返納品目に入っていなかった、戦没認定の旧書式とログ回収の手順。六十日のあいだ、彼女は自分の艦でそれを教え続けていたという。
「停止中も、手順の訓練は禁止されていませんでした。禁止されていないことは、できます」
「……軍人の理屈だな」
「司令に教わった理屈です」彼女は手順書を仕舞った。「それから、乗員に二名、降りた者がいます。実家の事情と、本人の事情です。補充は受けました。新しい二名には、手順を最初から教えます。教える時間が、四日あります」
 《燈籠》のガロ少佐は敬礼をせず、艦橋の戦術図を一瞥して言った。
「六十日、あんたの帳面は止まってた。俺の照合も止まってた」彼の探している艦——七年前に部下二十六名を喰った識別不明の襲撃巡洋艦は、まだ見つかっていない。「相手は四十隻と聞いた。波形の記録だけは、全部録らせてもらう。その中に俺の探してる喉がいるかもしれん」
「いたら、どうする」
「どうもせん。照合するだけだ。照合が先で、それから先のことは、それから考える」少佐は戦術図から目を上げた。「あんたの流儀を、六十日で忘れたとは言わせんぞ。撃つ前に読んで、撃った後も読む。あれだ」
「覚えててくれて何よりだ」
「忘れられるか。あんなに辛気くさい戦隊は、軍歴二十六年で初めてだ」
 補給は半日で済ませた。反応材と消耗品で九十五万。中枢杭は、軍の保管分から二本の貸与が認められた——台帳価格での弁済条件付き、一本二百五十万。受領伝票に判を捺しながら、ハルは同じ判を七年前にも捺していたことを思い出した。市場では枯れ続けている杭が、軍の棚には相変わらずあるのだった。誰が、何のために棚を満たしておくのか。伝票は何も答えなかった。自前の一本と合わせて三本。四十隻と聞く相手に、三本。
「足りますか、という問いには答えられません」とツクモが言った。「足りる戦い方をする、という回答なら、用意があります」
「聞こう」
「杭は、勝つためには使いません。死なないために使います。三本とは、つまり、死なずに済む回数が三回という意味です」
 出航前日の夜、ハルは艦内の見回りの途中で、操舵席の灯に気づいた。ヴェインが一人で座り、例の訓練記録に何かを書き足していた。覗くつもりはなかったが、頁の見出しだけが目に入った。応答遅れ時の手動継承、と書いてあった。
「……ヨルにやらせるには、まだ早い項目だな」
「早い」とヴェインは認めた。「だが、書いておくのと書いておかんのは違う。手順というのはな、要らんうちに書くもんだ。要るようになってから書く手順は、もう間に合わん」
 七年前に手順の間に合わなかった男の言葉として、それは過不足なく重かった。ハルは頷いて、見回りに戻った。

 出航前夜、医務室の二重隔壁の内側で、ナナオは紙のカルテを開いていた。
「へいきん、れいてんさんびょう」とヨルが自分の帳面を読み上げた。「かわってない。おおきくも、ちいさくも、なってない」
「揺らぎは」
「れいてんいち、から、れいてんご。……まえと、おなじ」
「戦術判断への影響は出とらん。図演の成績は六十日前と同じじゃ」ナナオは数字を書き写し、ペンを置いた。「——まだ、の話じゃがの」
 言うべきだ、という言葉が、老医の喉の手前まで何度も上がってきていた。明日、艦は戦場に出る。判断の艦に、判断のずれの種が眠っている。艦長はそれを知らずに引き金の言葉を言う。知らせるべきだ。医者として、それが正しい。
 だが、出撃前夜に告げるということは、答えの出ない問いを抱えたまま四十隻の中へ行けと言うことだった。〇・三秒のずれと、眠れない艦長と、どちらが先に艦を沈めるか。ナナオは正しさを呑み込み、カルテを閉じた。
「いつもどおりじゃ。お前さんは、ずれを聴く。わしは、計る。それだけ続けるんじゃ」
「……うん。でも、ドク」ヨルは帳面の端を指で押さえた。「たたかいに、なったら。ツクモ、いっぱい、かんがえる。いっぱい、かんがえたら——ずれ、おおきくなる?」
「分からん」と老医は言った。分からないことを分からないと言うのが、この部屋の規則だった。「分からんから、終わったら、また計る。それだけじゃ」
 ヨルは帳面を二冊、重ねて抱えた。一冊は自分の数字のため。一冊は、家族の数字のためだった。

 第五一五日の夕刻、《送り火》は六十日ぶりに桟橋を離れた。
 ゲートを三つ越え、最後のゲートの手前で、索敵席のヨルが管制波の聴音に入った。規定どおり、ナナオの立ち会いで、十分だけ。
 三分で、彼女は端子を押さえたまま動かなくなった。
「ヨル。中断するか」
 返事の代わりに、彼女は首を振った。それから、聴いたものを言葉にする長い作業をして、ようやく言った。
「……こえが、おおすぎる」
「数は」
「かぞえられない。かさなってて、かぞえられない。いままで、いちばん、おおきいむれでも、こんなに——」彼女は両手を握って、開いた。数えかたが、手に余っていた。「ハル。これ、むれじゃ、ない。これは——艦隊」
「分かった。報告として受理する。今日の聴音は終わりだ」
 ヨルは端子を外し、外してからも、しばらく第七星系の方角を見ていた。聴こえなくなっても、方角だけは耳が覚えているのだった。
 最後のゲートが、目の前で口を開けていた。
 その向こうで重なって鳴っているものの桁を、艦隊という言葉だけが正しく伝えていた。