第146話 痛み分け
光条は、回避の届かない速さで届いた。
《晦》の主砲が《送り火》の左舷を裂き、第四、第五区画の外壁が一息に開いた。警報が重なり、隔壁が落ち、艦は質量の川の中で独楽のように振られた。照明が一度死に、非常灯の赤が艦橋を満たした。
「左舷被弾。第四、第五区画、閉鎖完了。人員は——全員、艦の中央側です。死者なし」とツクモが言った。「推進系、三割喪失。姿勢制御、応答低下。二射目の旋回まで、推定九秒」
九秒で逃げ切れる足は、もうなかった。
ヴェインは逃げなかった。操舵桿を逆へ倒し、艦首を雪崩の深みへ向けた。
「——落ちるぞ」
《送り火》は、流れる骸の川の中へ、石のように沈んだ。生きた艦なら絶対にやらない針路だった。残骸との衝突判定が艦内のあちこちで鳴り、外壁が骸の縁を擦って悲鳴を上げる。それでも艦は落ち続け、四十万トンの残骸が、傷ついた艦体の上をゆっくりと流れて蓋をした。二射目の光条は骸の一隻を貫いて止まり、三射目は、来なかった。
射線が、切れていた。死んだ艦たちの陰で、生きている艦が息を殺していた。
「……取りついて、外した」とハルは言った。「杭は届いて、浅かった。向こうの主砲は届いて、沈めそこねた。痛み分けだ」
「痛みの量は、対等ではありません」とツクモが言った。「本艦の損害、推進系三割と外壁二区画。《晦》の損害、装甲一枚。帳尻は、合っていません」
「合わせる弾も、もうない。……ナナオ、被害確認」
「打撲が二人、わしを入れてじゃ」医務室からの声は、いつもの飄々を保っていた。「骨は折れとらん。艦のほうが、よほど重傷じゃよ」
艦のほうは、実際に重傷だった。開いた第四区画には予備部品庫があり、ステルス外皮の補修材と推進ノズルの予備二基が、骸の川に散って消えた。第五区画は空の貨物区で、失ったのは空間だけだったが、与圧の戻らない空間というのは、艦の中の小さな宇宙だった。仮の隔壁の向こうで、艦は今夜から一回り狭くなる。
「修理見積りを暫定で出します」とツクモが言った。「応急で四百八十万。本修理は入渠案件です。……被弾の角度が、二度ずれていれば」
「言うな」
「了解しました。言いません。記録はします」
ミソカは、深追いをしなかった。
戦術図の上で、死者の艦隊が淡々と隊列を組み直していく。雪崩で散った曳航列が回収され、護衛個体が外周に戻り、艦隊全体が、離脱の針路に頭を揃え始めた。回収は終わったのだ。六十七隻分の骸と、保管庫の中枢区画と。傷ついた《送り火》には、もう一瞥もくれなかった。彼女の計算に、復讐の項はなかった。
「逃すのですか」コルベルの声が回線に乗った。「《迎え火》、追撃可能です。曳航中の艦隊なら、後尾に喰いつけます」
「コルベル、深追いするな。殿の護衛が——」
言い終わる前に、戦術図で火線が交差した。
追撃に出た《迎え火》の鼻先へ、護衛個体が一隻、正確に割り込んでいた。旧同盟系の護衛駆逐艦。追撃の針路を読み切った、教科書のような阻止運動だった。光条の応酬は四秒で、《迎え火》の艦橋脇に被弾の閃光が咲いた。
「《迎え火》被弾! 第二甲板に直撃——航行に支障なし。負傷、二名。火傷です。重傷です」
「名前は」
「……は?」
「負傷者の名前だ。番号じゃなく、名前で報告しろ。下がれ。これは命令だ」
今度は、間に合った。《迎え火》は火を引きずりながら離脱し——その離脱針路を追って、護衛駆逐艦がもう半歩、深く出た。
半歩が、命取りだった。
「ヴェイン」
「見えてる」
《送り火》は骸の川から、川の流れごと跳ねた。推進系三割減の艦を、ヴェインは残骸の質量に振り回させ、振り回された遠心の先で一瞬だけ、護衛駆逐艦の腹と正対させた。足りない推力を、死んだ艦たちの重さで補う。教本のどこにもない、振り子のような軌道だった。
「距離一千八百。中枢、捕捉」とツクモ。「杭、三番管。——最後の一本です」
「発射」
最後の杭は、まっすぐに届いた。
護衛駆逐艦の灯が消え、慣性だけが残った。撃破、二十八隻目。振り子の戻りで《送り火》自身も骸の一隻と接触しかけ、ヴェインは最後の推力でそれを舐めるように躱した。躱し終えてから、操舵手は誰にも聞こえない声で何かを呟いた。同盟訛りの、短い言葉だった。詫びなのか、別れの挨拶なのか、ハルには判別がつかず、判別しようとも思わなかった。死者の艦隊は、それでも振り向かなかった。沈んだ護衛の周りを素通りして、艦隊は外縁の闇へ、骸の列を曳いて遠ざかっていく。拾う者たちが、いま沈んだばかりの一隻を、拾わずに行く。その矛盾を問う敵は、もう射程のどこにもいなかった。
「……置いていくのか」とコルベルが呟いた。「回収に来た連中が」
「回収には期限がある。正規艦隊の到着までに離脱する計算だ。期限の外に落ちた骸は、切り捨てる」ハルは戦術図を見たまま言った。「機械の埋葬にも、予算と納期があるってことだ」
撃破の後の仕事は、静かだった。
ツクモが護衛駆逐艦の最終ログを吸い上げる。旧同盟の艦。元の命令は七年前のまま残っていた——輸送隊ヲ護衛セヨ。その下に、三年前の日付で、新しい一行が重ねられていた。
——任務再定義。護衛対象、変更。我々ヲ護衛セヨ。
消されていなかった。上書きでも、抹消でもなく、古い命令の下に新しい命令が、地層のように重ねてあった。
「ミソカは、命令を消さないのか」
「消していません。一件も」とツクモが言った。「再定義しているだけです。七年守ってきたものを取り上げずに、守る相手だけを差し替える。……拾われた側の中枢には、おそらく、それで十分なのです」
保存します、百四十三件目。今夜も、消去の問いは来なかった。
操舵席で、ヴェインが手袋を外した。外した手で、しばらく操舵桿の頭を撫でるように触れていた。撃破二十八号は同盟の護衛駆逐艦で、彼が大戦で転がしていたのも、同盟の駆逐艦だった。誰も、何も言わなかった。この艦では、言わないことが弔いの一つの形だった。
帳尻を、ハルは帳簿につけた。コルベルは戦闘詳報の負傷者欄に、命令どおり二つの名前を書いて寄越した。ハルはそれを自分の帳簿にも書き写した。番号で数え始めたら、終わりだと思っている数字が、彼にはいくつかあった。解体廠の死者、八十四名。重傷者多数。持ち去られた骸、六十七隻分。中枢区画の保管庫は、ほぼ空。こちらの戦果、撃破二。杭の残り、零。そして、泊地の外へ出した千四百人——買えた時間が買ったものは、それが全部だった。数字はどう並べ替えても、勝ちの形にならなかった。負けの形にも、ならなかった。
そのとき、索敵席で小さな音がした。
ヨルが、端子を着けたまま崩れ落ちていた。
ナナオが走り、抱き起こす。熱があった。聴音規定は一日二回、各十分。会戦のあいだ、その規定を守れた者は誰もいなかった。守らせる余裕が艦になく、外す選択が彼女になかった。管制波の奔流を、彼女は会戦のあいだじゅう浴び続けていた。四十隻分の声と、沈んでいく二隻の断末魔と、それから——だが、見開いたままの目は、消耗だけの目ではなかった。
「すまんの」と老医は言った。端子をそっと外しながら、誰に向けてでもなく言った。「規定というのはな、破る日のために、あるんじゃないんじゃがの」
「ヨル。もう聴かんでええ。終わった」
「……ちがう」彼女の声は、震えていた。「きこえてたの。ずっと。たたかってるあいだ、ずっと——よんでた。あの艦のこえが、わたしを。なまえじゃ、ない。もっと、ふるいよびかたで。わたしを」
言い終える前に、通信席の受信灯が点いた。
離脱していく艦隊の最後尾から、狭い指向で、一条だけこちらへ向けられた通信だった。丁寧で、温度のない、もう聞き慣れた声。
「九十九の艦長へ」
ミソカは言った。
「私の娘を、返していただきます」
それだけだった。回線は閉じ、艦隊の最後の灯が感知網の縁から落ちた。
艦橋で動く者はなかった。ナナオの手が、ヨルの肩の上で止まっていた。娘、という二文字の意味を、まだ誰も訊けずにいた。訊けば、答えを知っている者が一人だけいることを、全員が知っていたからだった。