第145話 姉妹艦
囮歌が、初めて通じなかった。
護衛個体四隻を空白の宙域へ誘い込むため、ツクモは偽装信号を流した。存在しない輸送船団の航跡、存在しない縫航の予兆。七年間、外縁回廊の還らず艦をことごとく惑わせてきた、彼女の欺瞞の楽譜だった。
四隻は、見向きもしなかった。
「効いていません」とツクモが言った。「判定を補足します。無視されたのではありません。読まれた上で、棄却されています」
「読める個体がいるのか」
「います。一隻だけ」声は平らなまま続けた。「私の予測戦術の元になった譜面を書いたのは、三十号機です。先行機の楽譜を、後発機が歌っているのです。彼女は私の歌を、作曲者として知っています」
そして、歌は返ってきた。
最初に異常を報せたのは《迎え火》だった。感知網に《送り火》が映っている——本物の位置から二十万キロ離れた宙域に、一隻。次いで《燈籠》の感知網に、別の位置でもう一隻。本物と合わせて、戦域に《送り火》が三隻になった。航跡も、機関波形も、ステルスの「滲み」の癖までが本物と同じだった。
「司令、応答願います! どれが——」コルベルの声に、初めて乱れが出た。「味方識別、三隻とも正常応答です。火器管制が、本艦の判断を求めています」
「全艦、射撃許可を凍結しろ。俺の声以外の射撃命令は全部偽物だと思え」
「貴艦のその声が偽物である可能性は」
「ある。だから音声じゃなく、これで判じろ」ハルは送信欄に短い数列を打った。「七年前の軍の、改訂前の照合符牒だ。古すぎて、再現する側の台帳に載ってない。古い書式は、こういうときだけ役に立つ」
三十秒後、《燈籠》から確認符号が返り、一分後、《迎え火》の火器管制が照準を解いた。ガロの声は半分だけ笑っていた。
「危なかったぞ、葬儀屋。うちの砲手は、あんたの艦の頭を二回撫でた。引き金の手前で、二回だ」
「撫でられた覚えはない。つまり、撫でたのは偽物だ」
「そういうことだ。……朝までに、あと何回これをやる」
皮肉なことに、この艦には、偽物を一瞬で聴き分けられる耳があった。
「にせものは、こえが、しない」とヨルは言った。「かたちだけ。なかみが、からっぽ。……わたしには、わかる」
「分かっても、使えない」とハルは言った。「お前の耳の判定を僚艦に流せば、判定の出どころを説明することになる。お前という存在ごとだ」
「……わたしが、ひみつだから」
「そうだ。すまんが、そうだ」
ヨルは頷いた。頷いて、それでも端子は外さなかった。判定を流せなくても、聴いて、艦内にだけ報せることはできる。できることの輪郭を自分で測って、その内側で働く。彼女はもう、そういう働き方を覚えていた。
誤射は、寸前で止まった。だが盤面は悪化し続けていた。偽の《送り火》二隻が僚艦の感知網を引き裂き、護衛個体四隻は欺瞞の網の目を縫って、確実に間合いを詰めてくる。機械と機械の読み合いは、楽譜を先に書いた側が勝つ。このまま譜面の上で戦えば、負ける。
「ならば、譜面の外で戦う」とハルは言った。「ツクモ。解体廠の係留質量台帳を出せ。七年前の軍縮局の書式のやつだ」
それは、戦術資料ではなかった。
処分待ち艦体の係留位置、質量、固定方式、解体順。倉庫番の帳簿だ。軍の書式で書かれた、誰も戦いに使うことを考えない数字の列。だが、ハルは七年前、この種の帳簿を毎日読んでいた。補給と保管の数字が、彼の戦場だった時代に。書式の癖も、記載の手抜きの出る欄も、数字の嘘のつき方も、全部知っていた。
「第十一桟から第十四桟。ここの骸は固定桁が老朽化してる。台帳の補修履歴が三年止まってるからだ。予算欄を見ろ。補修費の請求が三年連続で却下されてる。軍縮の現場じゃ、よくある数字だ。総質量、約四十万トン。これが——」彼は一本の針路を引いた。「曳航中の残骸列の風上にいる」
「理解しました」とツクモが言った。「固定桁を爆破ではなく、本艦の機関噴射で炙ります。熱変形で桁が折れ、骸の列が慣性で流れ出す。残骸の雪崩です。曳航列は回避のため隊列を崩す。崩れた瞬間、護衛の射線に穴が開きます」
「穴の奥に、《晦》の機関部がある」
「はい。ミソカはこの雪崩を読めません。彼女が学習したのは解体廠の現在の構造であり、台帳の予算欄の三年分の嘘ではないからです。機械の読み合いの外にある手です。……ただし進言します。雪崩の規模の制御は不完全です。確実を期すなら、雪崩と同時に偽の救難信号を流すべきです。解体廠の残留職員の名簿は入手済みです。死者の名で救難を流せば、ミソカの計算に『救助に向かう人間の艇』という不確定項が加わり——」
「却下だ」
「成功率が四・二パーセント上がります」
「却下だ。死んだ連中の名前を、囮には使わない」声が低くなった。「うちの商売の、最後の一線だ。墓を開けるのが仕事でも、墓を罠には変えない」
「……記録します。最後の一線、として」
ヴェインが操舵席で、初めて口を開いた。
「雪崩の中、抜けるのは俺の仕事か」
「そうなる。できるか」
「骸の流れ方は、生きてる艦より素直だ」操舵手は手袋の指を一本ずつ締め直した。「機関を切った質量は、物理の言うとおりにしか動かん。物理は嘘をつかん。……死んだ艦に、嘘はない」
「嘘をつくのは、生きてる側だけか」
「そうだ。だから俺たちは、まだ勝負になる」
決行までの四時間、艦は支度に使った。《迎え火》と《燈籠》には退避誘導の継続と、雪崩の予報円の外への移動だけを命じた。雪崩の計画そのものは、伝えなかった。偽の《送り火》が三隻いる戦域で、計画を電波に乗せることは、計画を姉に郵送することと同じだったからだ。
「僚艦は、雪崩を裏切りと誤解しませんか」とツクモが訊いた。
「するかもしれん。あとで謝る。謝れる程度に、生きて終わればな」
決行は、曳航列が第十二桟の風下に入る瞬間だった。
《送り火》は灯を消したまま固定桁に取りつき、機関を最小出力で焚いた。推進ではなく、加熱のために。骨組みの温度表示がじりじりと上がり、三年放置された桁は、台帳の予言どおりに音もなく折れた。
四十万トンの骸が、流れ出した。
ゆっくりと、しかし止めようのない質量の川が、曳航列の横腹へ崩れ込んでいく。死者の艦隊の隊列が、初めて乱れた。曳航艦は荷を守るために散り、護衛個体は射線を骸に塞がれ、整然としていた回収の盤面に、一瞬だけ、誰の計算でもない混沌が流れ込んだ。
その混沌の中を、《送り火》は落ちていった。
ヴェインの操艦は、雪崩を避けなかった。雪崩に乗った。骸と同じ速度、同じ針路で流れ、感知網の上では四十万トンの一部になって、《晦》の腹の下へ滑り込んでいく。回頭は噴射ではなく、骸の一隻に艦体を軽く当てた反動でやった。教本にない手順だけで編んだ、三十一秒の助走だった。
「距離三千。縫航機関部、捕捉」とツクモ。「杭、二番管」
「発射」
中枢杭が走った。
《送り火》が大戦と七年とで、身内の艦を百四十一隻終わらせてきた、その同じ軌道で。六百メートル級の艦体の、機関区画の装甲に、杭は確かに突き立った——そして、止まった。
「貫通深度、不足」ツクモの声は平らだった。「装甲の下の緩衝層で停止。縫航機関、無傷と推定。……姉の艦は、私の艦より、装甲が厚い」
索敵席で、ヨルが小さく言った。
「……こえ、みだれなかった。ささった、しゅんかん も。いたい、って、おもってない。——おどろいても、いない」
驚いていない。読まれていなかった手のはずだった。読まれていなかったが、起こり得ることの一つとして、最初から計算の幅の中に置かれていたのだ。台帳の嘘までは読めなくても、嘘を読めない場合の備えは読める。先行機というのは、そういう頭だった。
突き立った杭が、艦体の自転とともに視界の端へ流れていく。届いて、届かなかった一本だった。
次の瞬間、《晦》の艦体の中ほどで、巨大な砲塔が静かに旋回を始めた。
主砲が、こちらを向いていた。
「回避——」
間に合わない、と、艦橋の全員が同時に理解した。