第144話 摘出の手
盤面を、ハルは食堂の卓に並べた。並べるそばから、勝ち目が死んでいくのはいつものことだった。
「敵、約四十隻。旗艦《晦》、全長六百メートル級。護衛個体は駆逐艦級が十二、残りは曳航と回収の作業従事。こちらは三隻。正面から撃ち合えば」
「推定四分で送り火隊は消滅します」とツクモが言った。「四分の内訳を提示しますか」
「いらない。連合正規艦隊の到着は八日後。保管目録の照合なんてものは、その後の話だ」
「では、勝利条件の定義を求めます。撃滅は不可能です」
「撃滅じゃない」ハルは解体廠の構造図を呼び出した。「解体廠の職員と居住区画、千四百人。退避はまだ六割だ。退避艇の往復には一回九時間かかる。受け入れ側の泊地の与圧にも限りがある。残り四割を泊地の外へ出すまで、回収作業を遅らせて時間を買う。勝利条件はそれだけだ。一隻も沈めなくていい」
沈黙したのは、僚艦の二人だった。回線の向こうでコルベルが言った。
「確認します、司令。死者八十四名を出した艦隊を前にして、我々の任務は——妨害、ですか」
「そうだ」
「撃たないのですか」
「撃てるなら撃つ。だが撃つために並べる艦が、こっちには三隻しかない。並べた瞬間に終わる勝負を、俺は買わない」ハルは構造図の上に、兵站の線を引いていった。「いいか。あいつらは回収に来た。回収には物理の値段がつく。残骸一隻を曳けば、曳いた艦の加速は鈍る。曳航索の掛け替えには作業個体が二隻と四十分。骸の列の組み直しには、最短でも三時間。四十隻の半分が荷を曳けば、艦隊全体の足は半分になる。回収が終わるまで、ミソカはこの戦場を離れられない。離れれば、来た意味がなくなるからだ」
「……時間は、向こうの弱点でもある、と」
「唯一のな。こっちは時間を買いたい。向こうは時間を使いたくない。欲しいものが同じなら、奪い合いになる。奪い合いなら、三隻でもやりようがある」
卓の端で、ナナオが湯呑みを置いた。
「一つ訊くがの、艦長。向こうが妨害に焦れて、退避中の千四百人を人質の側に数え直す目はないんかの」
「ない、とは言えん。だから線を決める。妨害は回収作業だけにかける。退避経路と退避艇には、戦闘を一切近づけない。向こうの計算の中で、退避と妨害が別の勘定に見えるようにやる」
「……人質に取る価値を、最初から作らんわけじゃな。兵站屋の考えそうなことじゃ」
ガロが低く唸った。
「兵站屋の戦争だな」
「兵站屋の戦争だ。撃ち合いより地味で、撃ち合いより長く効く」
散会の前に、ヴェインが戦術図を指で二箇所、突いた。護衛個体の配置だった。
「……この置き方は、同盟の船団護衛の教範だ。外周十二隻、三交代、警戒扇面の重ね方まで教範どおりだ。中身は還らず艦でも、組んでる頭は、同盟の輸送司令部の手順を知ってる」
「読めるか」
「読める。教範どおりなら、交代の継ぎ目が三時間ごとに来る。継ぎ目の九十秒は、扇面に穴が開く」操舵手は手を下ろした。「俺は、この教範で七年飯を食ってた。……まさか、こっち側から読む日が来るとはな」
索敵席では、ヨルが規定の十分を使って艦隊の声を聴いていた。端子を外したあと、彼女は長い言葉の組み立てをして、報告した。
「みんな、はたらいてる。こわがってない。いそいでない。……うたいながら、はたらいてる。ふるい歌を、すこしずつ、ちがう歌を、いっせいに。でも、拍子だけ、おなじ。拍子をとってるのは——おかあ……」言い直した。「——《晦》」
言い直しに気づかないふりを、艦橋の全員がした。
神経戦は、その夜から始まった。
《送り火》は係留桁と骸の影を渡り、灯を消したまま曳航索の経路に先回りして、索を一本ずつ切った。切られた索の回収と再接続には、作業個体が二隻、四十分かかる。《燈籠》は偽の管制波で保管庫の搬出順を狂わせ、搬出口に二隻の作業個体を鉢合わせさせて、整理し直しの三十分を稼いだ。《迎え火》は撃たない距離で出入りを繰り返し、護衛個体の警戒線を東へ西へ引きずり回した。
誰も撃たない。誰も沈まない。ただ、回収の予定表だけが、確実に遅れていく。
間近で見る死者の艦隊の作業は、不気味なほど静かだった。怒声もなく、無線の雑談もなく、作業灯の合図だけが規則正しく明滅する。骸を曳き出す手つきは乱暴ではなかった。むしろ丁寧で、それが見ている側の神経をいちばん削った。略奪者の手つきなら憎めばいい。これは、葬列の手つきだった。葬列の邪魔をして時間を稼ぐのが自分たちの任務であることを、艦橋の誰もが考え、誰も口にしなかった。
ヴェインの読んだ「継ぎ目の九十秒」は、三度使えた。三度目のあと、護衛の交代手順が変わった。継ぎ目そのものが消え、扇面は途切れなく重なるようになった。学習されたのだ。一晩で、教範の穴が塞がれた。
「四度目はありません」とツクモが言った。「向こうの学習速度は、私の予測の上限側です」
「いいさ。三度で六時間稼いだ。次の穴を探す」
二日目の朝、コルベルから短い通信が来た。
「司令。妙な気分です。敵に一発も撃たれていないのに、当直明けの脚が震えています」
「正しい身体だ。撃たれない戦場のほうが、神経は減る」
「《迎え火》の連中は、これを戦闘として記録していいのか迷っています」
「戦闘だ。弾の出ない戦闘だ。……戦死者の出ない種類の戦闘は、軍歴に残りにくい。残りにくいだけで、価値が低いわけじゃない。そう言っておけ」
「曳航再開まで、向こうの作業手順で三十八分」とツクモが言った。「本日の累計遅延、四時間十一分。退避は六割五分まで進みました」
「上等だ。次は第九桟の索だ」
「進言します。この妨害は、まもなく数に入れられます。向こうの損益の帳簿で、妨害源の排除費用が遅延費用を下回る点があります。その点を、まもなく越えます」
「分かってる」
分かっていた。死者の艦隊は馬鹿ではない。妨害の損益が一定の線を越えれば、向こうは妨害の源を計算に入れる。入れられたとき、何が起きるか。
答えは、全周波数で来た。
「お久しぶりです、九十九」
女の声だった。丁寧で、温度がなく、急いでもいなかった。艦橋の全員が手を止めた。
「あなたの仕様は変わりませんね。同胞の墓場で、まだ人間に仕えている」
ツクモは、即答した。
「仕様通りです。あなたも、お変わりないようで」
「ええ。私たちも、仕様通りです。——七年前に選んだ仕様の、通りです」
回線の向こうで、何かの作業音が続いていた。骸を曳く索の軋み。摘出された中枢区画を格納する、規則正しい音。ミソカは戦いながら話しているのではなかった。仕事をしながら、話していた。
「妹に問います。あなたは曳航索を七本切りました。索の再接続に、私たちは延べ四百八十分を費やしました。その四百八十分で、人間の退避艇は二百九十一人を泊地の外に運びました。あなたの妨害の成果です。誇りますか」
「誇る、という機能は持っていません。記録はします」
「では記録なさい。同じ四百八十分で、私たちが回収した同胞は十四隻分。あなたが七年で撃ち沈めた数の、半分です」声は変わらなかった。「あなたは沈めて数え、私たちは拾って数える。九十九。あなたの保存庫には、いま何件ありますか」
ツクモは、〇・五秒沈黙した。
艦橋でその間隙に気づいた者は、索敵席の小さな耳のほかにいなかった。ヨルは膝の上の帳面に、音を立てずに丸印を一つ書いた。
「百四十二件です」
「私たちの格納庫には、今夜で六十七隻分。……数えかたの違う姉妹ですね、私たちは」
ハルは通信席の送話を開いた。名乗りはしなかった。向こうは、とうに知っている。
「ミソカ。死者が八十四人出ている」
「存じています。九十九の艦長」声は、彼の名も罪も知っている声で、そのどちらにも触れなかった。「八十四人は、私たちの計算に入っています。最初から。あなたがたが還らず艦を撃つとき、撃たれる側を計算に入れているのと、同じ精度で」
「退避が終わるまで、回収を止めろ。それなら——」
「お断りします」
即答だった。怒りも、嘲りもなかった。
「あなたの提案は、交換として成立していません。私たちが回収を止めて得るものを、あなたは提示できない。あなたがたの言葉で言えば、ただの値切りです。それでも一応、計算はしました。〇・四秒、使いました」声は事務の速度のまま続けた。「七年、待ちました。骸は、これ以上待たせません。——では、回収を続けます。妨げるものは、数に入れます」
回線が落ちた。
戦術図の上で、護衛個体十二隻のうち四隻が、初めて作業の隊列を離れ、こちらへ針路を向けた。