第149話 凪の帳簿
第七星系の前進泊地は、軍縮で半分眠っていた古い補給枠橋だった。
《送り火》は左舷を開いたまま、そこに五日繋がれた。応急修理、四百八十万。開いた二区画に仮の外壁を張り、推進系は定格の七割まで戻った。それ以上は入渠の仕事で、入渠できる工廠はゲート四つ向こうにしかなかった。
帳簿の仕事は、修理の音の下で進んだ。
「読み上げます」とツクモが言った。「支出。中枢杭三本、計七百五十万。内訳、官給二本の弁済五百万、自前一本の損耗計上二百五十万。応急修理、四百八十万。《迎え火》負傷者二名の治療費、六十八万」
「治療費は軍持ちじゃないのか」
「軍の医療費承認は、特務予算の精算審査と同じ列に並んでいます。審査は平均四十日です。火傷は、四十日待ちません」
「……立て替えだ。回収の見込みは書かなくていい」
「月次固定費百四十五万、第五二二日付。収入。連合方面軍経理部より、戦果調整金千九百万。撃破二隻分の認定は調整金に内包、個別賞金の請求権は特務扱いにより消滅。——差し引き、本作戦の収支は三百六十二万の黒字です。残高、九千三百六十五万」
「黒字、か」
「数字の上では」とツクモは言った。「数字の上では、です」
ハルは帳簿の隣に、もう一枚、名簿を置いた。アルマ解体廠、死者八十四名。暫定が取れて、確定になった名簿だった。年齢の列があり、職分の列があり、いちばん若い欄は十七歳の見習い工員だった。
黒字、という言葉の意味が、名簿の隣では持たなかった。彼は八十四を帳簿の別頁に書き写した。撃った死者ではない。だが、自分の立てた作戦線の上で買った時間の、値札の裏側ではあった。書く規則も、書かない規則もない。だから書く。それがこの帳簿の流儀だった。
ホークへの報告も、同じ机で書いた。保管目録との照合結果。機械の中枢区画、搬出された数、残った数。そして生体管制コア関連在庫の欄に、彼は事実だけを書いた——目録に記載あり、現物なし、搬出記録は攻撃以前の日付で抹消。誰の仕事かは書かなかった。書けるだけの材料がなく、書きたくなるだけの心当たりは、あった。送信の判を捺す指が、いつもより一拍遅れた。
三日目に、コルベルが枠橋を渡ってきた。
「負傷者二名、経過良好です。一名は今日から軽作業に戻りました」彼女は報告書の写しを差し出した。「それから——治療費の件は、艦の皆が知っています。礼を言うなと言われそうなので、報告の形にしました」
「報告として受理する」
「はい。受理してください」コルベルは少しだけ間を置いた。「司令。アルマの報告書、見たままを書きました。無人艦の艦隊が、骸を回収して去った、と。方面軍の参謀部から、表現の修正を求める照会が二回来ています。『回収』ではなく『略取』と書け、と」
「で、どうした」
「観測記録を添付して、原文のまま再送しました。三回目の照会が来たら、観測記録をもう一部添付します」
軍人の戦い方だった。ハルは写しに受領の判を捺した。ガロからは紙一枚だけが届いていた。四十隻分の波形照合、完了。該当なし。——まだ、外にいる。最後の四文字だけ、手書きだった。
ヴェインは、修理の五日間を音もなく働いた。
操舵桿の遊びを直し、推進系の応答の癖を一区画ずつ計り直し、夜は自分の手袋の解れを縫った。配給で出た酒は、半分だけ飲んで、半分を瓶ごと棚に戻した。蓋を閉める手つきに、未練はもうなかった。
五日目の夕方、ハルは仮外壁の検分で甲板に出て、先に来ていた操舵手と並んだ。眼下の枠橋では、《迎え火》が同じように傷を塞いでいた。
「二名、退院だそうだ。コルベルが礼を言ってた。治療費の件だ」
「……早い。火傷は、若いと早い」
しばらく、溶接の光だけが瞬いていた。ハルは前を見たまま言った。
「漂うよりは沈んだ方がましだ——昔、そう言ったな。今もか」
ヴェインはすぐには答えなかった。手すりに置いた手の、手袋の縫い目を一度だけ見た。
「……さあな。最近は、舵を握ってる間だけ、考えずに済む」
「考えずに済むのは、いいことか」
「分からん。だが、握ってない時間に考えてることは、変わった」彼は胸の物入れから、あの封筒を出した。三週間ギルドで眠っていた、差出人のない手紙。「機関科の生き残りだ。《グロム》の。九人のうちの一人。……俺が葬儀屋の艦で舵を握ってると、どこかで聞いたらしい」
「何と書いてあった」
「二行だ。『俺たちはまだ漂っています。艦長は、沈み方を見つけましたか』——それだけだ。返事は要らんと、末尾にある」
ヴェインは封筒を仕舞った。仕舞ってから、独り言のように言った。
「百四十三人乗ってた。生き残りが三十一。そのうち九人が海賊になって、それも終わった。残りの連中がどこで何をしてるか、俺は七年、調べなかった。調べる資格の置き場所が、分からんかった」操舵手は手すりから手を離した。「——返事を書く。要らんと言われた返事を書くのは、初めてだ」
その夜、彼の自室の灯は遅くまで点いていた。書き上がったのか、書き上がらなかったのか、ハルは訊かなかった。
新しい命令書は、調整金と同じ便で届いていた。送り火隊は応急修理の完了をもって出航し、死者の艦隊への触接を回復、正規艦隊の到着まで観測を維持せよ。交戦は許可しない。骸を曳いた艦隊の足は遅く、追いつくこと自体は難しくなかった。難しいのは、追いついた先で観測だけをしていることのほうだと、命令書を書いた者は知らないようだった。
同じ夜、医務室の二重隔壁の内側で、ナナオは袖から計時器を出した。
会戦が終わってから、計り直した分の集計だった。三日で三十一回。診察に紛れさせ、復唱に紛れさせて、三十一回。
平均、〇・七秒。
「……はやく、なってる」とヨルが言った。彼女の二冊目の帳面には、毎日の丸印と数字が並んでいる。会戦の前は〇・三。会戦のあいだは計れず、終わってから、〇・五、〇・六、〇・七。「ドク。なんねんたんい、って、いってた」
「言うた。わしの見立てじゃ、そのはずじゃった」老医はペンを置いた。「会戦の負荷かもしれん。四十隻を相手の戦術演算、囮歌の読み合い、姉との通信。あれだけ回せば、すり減りも早まる。……早まる、という所見をな、わしは三十年前にも書いたことがある。激戦区の中枢ほど、早う逝った」
「とまる?」
「分からん。負荷が抜ければ戻るのか、戻らんのか。三十日、このまま計る」彼は紙のカルテに、〇・七、と書いた。書いた数字を、長いこと見ていた。三十年前の症例記録の、二人目の患者の数字と同じだった。あの患者は、機械の患者は、その数字の十一ヶ月後に僚艦を撃った。「線を決めた、と前に言うたの。艦長に言うべき線じゃ。……その線が、向こうから近づいてきとる」
「……うん」
「お前さんは、書く係を続けい。わしは、計る係を続ける。線を越える日が来たら——言う係は、わしじゃ」
消灯後の居住区で、ヨルは寝台に座っていた。
熱はようやく下がっていた。膝の上の端末には、一組の座標が表示されたままになっている。母から送られた数列。消す操作は三度指の下まで来て、三度、押されなかった。
帰っておいで、と声は言った。あなたの席は空けてある、と。
席なら、ここにもある。索敵席と、食堂の椅子と、医務室の丸椅子と、操舵席の隣の見習いの席。七百日かけて、一つずつ増えた席だ。それは答えの半分だった。残りの半分は、まだ言葉になっていない。あの声の奥で鳴っていたもの——ツクモのずれと同じ形の、小さな乱れ。母の声も、ずれ始めている。それを聴いてしまった耳は、艦のなかで自分のものだけだった。
あなたの席は、空けてあります。七年前から、ずっと。
彼女は座標を見つめた。怖いものを見る目では、もうなかった。迷っている目でも、なかった。聞かなければならないことが、あの座標の先に一つだけある——そう決めた者の、静かな決意の色が、暗がりの中でじっと据わっていた。
窓の外では、死者の艦隊の去った深部の方角に、名前のない星々が音もなく並んでいた。