第156話 沈む者
跳べない艦に残されたものは、報告の形で届いた。
——推進剤、四割。残弾、半分。舵、利く。以上だ。
数え上げに、十秒もかかっていなかった。報告のあと、ヴェインは数えた全部を、一つの仕事に割り当てた。追撃九隻の射線と関心を、船団の針路から引き剥がす。囮ではなかった。囮は敵を騙す仕事で、殿は敵を引き受ける仕事だ。騙す必要はもうない。引き受ければいい。それが、殿の最後の仕事だった。
《迎え火》は残った推進剤を惜しまず燃やし、九隻の隊列の横腹へ、斜めに切り込む針路を取った。無視できない角度だった。放置すれば、伸びた隊列の継ぎ目を順に喰われる。指揮個体の計算は正しく反応し、九隻は船団への直進を捨てて、紙の装甲の駆逐艦一隻に陣形を向け直した。
船団のゲート到達まで、四時間。
その四時間の分水嶺で、《送り火》は船団の最後尾に潜んでいた。
「条件を整理します」とツクモが言った。「指揮個体、軽巡級。現在、《迎え火》の機動に対応して陣形を再構成中。本艦からの距離、四千二百。杭の射程外です。残弾、官給の二本。指揮個体を撃破した場合、追撃群の連携は崩れます。彼らは個体としては七年前の艦です。束ねる者を失えば、損益の再計算に時間を要します」
「四千二百を、二千まで詰める手は」
「船団の雑音の中を、ステルスで後退します。《燈籠》の歌で、本艦の艦影を救助艇の残骸に偽装。所要五十分。成功確率は——指揮個体がヴェインに集中している限り、高い、とだけ申し上げます」
「やれ」
《送り火》は船団を離れ、闇の中を後ろ向きに滑り始めた。葬送艦の本来の歩き方だった。忍び寄って、中枢を一突きにする。撃ち合えば負ける艦の、唯一の勝ち筋へ向かって、五十分かけて戻っていく。
その五十分のあいだ、《迎え火》は一人で九隻と踊っていた。
深追いさせず、見限らせず、推進剤の残量を読み合いの賭け金に積みながら、隊列の鼻先を九度ずつ、船団から遠い側へ、遠い側へと撫でて逸らす。指揮系の回線には、操舵の報告だけが等間隔で流れ続けた。取舵九度。残弾、三割。右舷スラスタ、過熱。取舵九度。報告の声はどこまでも平坦で、平坦さの底に、同盟の訛りだけが沈んでいた。
「距離、二千百」とツクモが言った。「杭、一番管、装填済み」
「撃て」
一本目の杭が、闇を渡った。
届かなかった。指揮個体は発射の瞬間を読んでいた。TYPE-9の血を引く予測の譜面が、《送り火》の癖をどこかで学習していた。軽巡級は最小の噴射で未来位置を半艦分ずらし、杭は装甲の縁を擦って、宇宙の深い方へ消えた。
「外れました。残弾、一本。本艦の位置は露見しました。指揮個体、対応を計算中——」
その計算へ、ヴェインが割り込んだ。
《迎え火》が、最後の推進剤を一度に燃やして、指揮個体への正面突進に入ったのだ。残弾を全て撃ち放ちながらの、教本が自殺と分類する機動だった。軽巡級の計算は二択を迫られた。突進してくる駆逐艦を撃つために艦首を固定するか、正体の知れた葬送艦への回避を続けるか。
質量と速度を持って向かってくる脅威は、計算の中で常に重い。
指揮個体は艦首を固定した。固定して、主砲の照準を《迎え火》に合わせ、その三秒間だけ、未来位置がただの直線になった。
「——今です」
二本目の杭が、走った。
最後の一本は過たず、軽巡級の装甲を貫いて、中枢区画で止まった。指揮個体の灯が消えた。撃破、三十一隻目。ツクモが慣性で流れていく骸から最終ログを吸い上げた。元の命令は連合の様式で、艦隊前衛ヲ指揮セヨ、とあった。その下に三年前の日付で、任務再定義の一行が重ねてあった。保存します、百四十四件目——読み上げる声に、今夜も消去の問いは続かなかった。
感知網の上で、九隻の隊列が、形を失い始めた。
束ねる者のいない追撃は、八つの個別の計算に戻った。ある個体は最後に有効だった針路を直進し、ある個体は停止し、二隻は《迎え火》への射撃を続けた。損益の再計算には、時間がかかる。その時間を、船団は加速に変えた。
「船団先頭、ゲート進入。転送、開始」
救助艇が跳び、補給船が跳び、中破巡洋艦が長い転送に呑まれて消えた。一隻、また一隻。十四時間の砂時計の砂が、最後の数粒まで、ゲートの白い喉に落ちていく。
《迎え火》は、もう加速しなかった。
推進剤は突進で尽き、残弾は尽き、艦体のあちこちが開いていた。それでも艦は、惰性の針路を細かく振り続けていた。二隻分の射撃が、当たらない。当てさせない舵が、まだ生きていた。
「《迎え火》。こちら《送り火》。回収に向かう。位置を——」
「来るな」
即答だった。報告ではない言葉は、それで二度目だった。
「あんたの艦が来れば、八隻の計算が変わる。船団の後尾が、まだゲートに入っとらん。……来るな。これは、操舵手の領分だ」
ハルの手が、通信卓の上で止まった。
領分、と言われてしまえば、艦長の持つどの権限も、そこには届かなかった。届く言葉を探して、見つかる前に、次の報告が来た。
「左舷スラスタ、停止。……舵、まだ利く」
二分後。
「機関、応答なし。……舵、まだ利く」
声は乱れなかった。痛みの気配も、急ぐ気配もなかった。操舵の報告は操舵の報告のままで、ただ、報告の間隔だけが、少しずつ開いていった。
船団の最後の一隻が、ゲートに入った。
次の通信は、来なかった。
感知網の上で、光点が一つ、消えた。
爆発の閃光を、《送り火》の光学は捉えなかった。距離と、残骸の影と、宇宙の暗さが、最後の瞬間を誰の目からも隠した。ただ、さっきまで数字を返していた輝点の場所に、もう何も無かった。それだけだった。
八隻の追撃個体は、《迎え火》の消えた宙域をしばらく漂い、やがて損益の再計算を終えて、一隻ずつ反転していった。深部へ。母の艦隊のほうへ。後衛の最後の一隻が感知限界を越えて消えるまで、四十分かかった。
その四十分のあいだに、コルベルから通信が三度入った。一度目は捜索許可の要請で、二度目は要請の様式を変えた同じ要請で、三度目は要請ですらなく、ただ数字の確認だった。当該宙域までの距離、敵後衛の残存数、《送り火》の残弾、ゼロ。彼女は軍人なので、数字が出揃えば結論も出た。出た結論を、彼女は最後まで言葉にしなかった。言葉にする代わりに、《迎え火》の喪失報告の起案を始めます、とだけ言って、回線を切った。
遺体も、艦も、回収できる者は誰もいなかった。
《送り火》は、最後にゲートへ向かった。
転送の窓をくぐると、回線が一斉に温度を上げた。ゲートの向こう側は、生き残った者たちの音で溢れていた。救助艇の医療要請、点呼の声、中破巡洋艦の乗員たちが誰かの名を呼び合う声、そして、どこかの艦の若い通信士が泣きながら繰り返す、感謝の符号。船団は生きていた。五百人を超える人間が、十四時間の向こう側に、生きて届いていた。
《送り火》の艦内だけが、静かだった。
ヨルは索敵席で端子を外し、外した端子を、いつものように丁寧に巻いた。巻き終えた手が、それ以上どこへも動かなかった。ナナオは医務室の入口に立ったまま、誰も運ばれてこない寝台を見ていた。それから戸棚を開け、酒瓶の並びの、一本ぶん空いた場所を長いこと見て、何も置かずに閉めた。ハルは通信席で、受信確認の符号だけが並んだ送信記録を、上から順に、意味もなく見返していた。十一回送って、十一回、受信確認だけが返ってきた針路だった。最後まで使われなかった帰り道が、送信記録の形で残っていた。
ツクモが、口を開いた。
誰も、何も命じていなかった。
「保存します」
声は、いつもの平坦さで言った。
「ヴェイン・コルサクの最終通信、全二十六信。……保存領域、撃破艦最終ログと同区画。百四十五件目」
彼女の墓標の棚に、初めて、艦ではないものが並んだ。同族を殺すために造られた艦の保存庫で、同盟の操舵手の「舵、まだ利く」が、七年分の死んだ艦たちの最後の声と、同じ棚に収まった。分類の理由を、誰も訊かなかった。訊けば答えが返ってきてしまい、答えはたぶん、この艦の誰の語彙にもまだ無かった。
艦橋の正面で、ゲートの白い光が薄れていく。
操舵席が、空いている。