第161話 資産目録
ヴェインの私物は、箱一つに収まった。収まってしまったことが、九日経ってもまだ、この艦でいちばん重い。
同盟軍の古い階級章と予備の操舵手袋は遺品目録に記載済み。《グロム》戦没者百十二名の名簿の入った端末は、充電されたまま机の上。日割り給与八万六千クレジットの封筒は、宛先のないまま保留の箱へ。死亡認定の確定通知は、まだ来ない。書式は受理された、と返答だけが来る。事務には事務の弔いの速度があり、それは生きている者の速度より、いつも遅い。
第五五〇日の朝、その遅い港に、速いものが来た。
「参謀本部特務局、監査第二班です。禁制AI特例運用許可第〇〇七号に基づく、定期監査を実施します」
第七桟橋に立ったのは文官三名と護衛二名。先頭の監査官は型どおりに身分証を示し、型どおりに要求書類の一覧を差し出した。ハルは舷梯の降り口でそれを受け取り、最初の三行で読むのをやめかけ、やめずに最後まで読んだ。
艦体構造図一式。自律中枢の稼働履歴および劣化診断記録。戦術ライブラリの複製権設定の現況。区画用途一覧。乗員名簿。
「定期監査というのは、運用実績と安全基準を見るものだと記憶しているが」
「様式が更新されました」と監査官は言った。「ご協力を」
「前回の監査は書類三枚で済んだ。今回は艦を裸にする量だ。様式の更新で説明のつく差じゃない」
「説明の義務は、様式に含まれておりません」
書類仕事を七百日やってきた男の目で、ハルは要求の並びを見た。運用を見る監査なら、航海日誌と交戦記録から要求する。この一覧は違う。構造、中枢の状態、ライブラリの権利関係。中古の艦を値踏みする保険査定人の並びだ。監査ではない。資産査定だった。
そして第〇〇七号の条文を、ハルは諳んじている。特例許可は特務嘱託資格に紐付く。資格が消えた瞬間、この艦は七百日前と同じ「違法な禁制品」に戻る。査定というものは、競りか、差し押さえの前にやるものだ。
防戦は二日かかった。
艦内への立ち入りは、契約条項第三条——艦内治外法権——を盾に断った。監査官は食い下がらなかった。食い下がらないことが、いちばん悪い徴だった。立ち入りが要らないということは、欲しいものが書類で足りるか、いずれ艦ごと取るつもりかの、どちらかだ。
構造図は艦籍登録時の公開図面のみを出した。非公開部分は「民間艦の営業機密」で蓋をした。稼働履歴は交戦記録の写しで代えた。複製権の照会には、ツクモが自分で回答文を起案した。
「現行の設定では、戦術ライブラリの複製は艦長権限でのみ可能です。——艦長。この問いの形式は、設定の確認ではありません。権限の移転先の確認です。私をどこかへ移す前提の、事前測量です」
「回答は事実だけでいい」
「事実だけを記載しました。事実は、彼らの用途にも適合します。それが事実の不便なところです」
劣化診断記録、の一行の前では、ハルの手が一拍止まった。夜の医務室で、ナナオが紙のカルテの束を撫でながら言った。
「TYPE-9系列の経年劣化は、軍の症例記録に載っとる。三十年前の葬送艦計画の、わしらが書いた記録じゃ。連中は知っとって訊いとる。何年目の中古か、帳面で確かめる気じゃよ」
「診断記録は艦内系に存在しない、と答える。嘘じゃない」
「嘘じゃないのう。わしのカルテは紙で、患者名は空欄で、艦内系の外じゃ。……三十年前に書いた症例記録が、三十年経って患者の値踏みに使われる。医者の書き物というのは、ろくな老後を送らん」
区画用途一覧には、一箇所だけ手を入れた。居住区画の一室を「医療隔離区。難民区画診療所からの長期収容患者一名。管理責任者、船医ナナオ・ジン」とした。ヨルの部屋だ。隔離区は防疫規定により、開示要求の対象から外れる。少女は自分の部屋が書類の上で病室になったことを聞いて、しばらく考えてから言った。
「……びょうき じゃ、ない」
「書類の上だけだ」
「しょるいのうえ、なら」ヨルは頷いた。「いい。しょるいは、よく、うそを つく」
七百日この稼業をやって、娘に教えたことの要約がそれだった。
乗員名簿だけは、誤魔化しが利かなかった。提出用の写しを作りながら、ハルは操舵手の欄で手を止めた。ヴェイン・コルサク。戦闘中行方不明、のち死亡認定——認定確定通知、未着。記載の規則上、欄はまだ消せない。死んだ男が、書類の上でだけ在籍している。監査官は受け取った名簿のその行を一瞥して、何も言わずに頁を繰った。何も言われないことが、その日いちばん腹に残った。
二日目の昼、監査官は一度だけ、一覧の外の質問をした。
「操舵手の欠員は、補充の予定が?」
「ない」
「自動操舵で運用を?」
「規定の範囲でだ」
監査官は短く書き留めた。操舵要員の欠員、という事実が、向こうの帳簿で何の欄に入るのか、ハルは考え、考えたことを後悔した。人が欠けるほど、艦は「中枢だけで動く資産」に近づく。死亡認定の遅れまでが、査定の都合に見えてくる。疑心の側に立つと、世界中の書類が一つの方向に並んで見える。七年前、調査委員会の机の向こうから自分を見ていた連中も、同じ景色を見ていたのかもしれなかった。
二日目の夕方、ホークから私信が届いた。
監査の件は把握している、が一行。様式の更新は局全体の措置で他意はない、が一行。形式だ。心配するな、が一行。結びに、ヴェイン氏の認定確定を急がせている、と添えてあった。
いつもどおりの、過不足のない温かさだった。
ハルは三行を二度読み、返信を書かずに端末を伏せた。七百日、この温かさに借りを返してきた。停止を解いてもらい、嫌疑を不問にしてもらい、貸しにしておくと三度言われた。その温かさが、今夜は初めて、寒かった。
「ツクモ。形式だ、という言葉の使用例を照合できるか。あの男の通信記録で」
「照合します。……過去七百日で四回。停止解除の前、不問の通知の前、嘱託契約の更新の前、そして今回です」と声は言った。「過去三回の『形式』は、いずれも七十二時間以内に、形式でない発令を伴っています」
理由を言葉にする代わりに、彼は要求書類の一覧をもう一度開いた。温かい男の局が寄越した紙は、隅から隅まで、冷たい順番に並んでいた。
深夜、非公式の短信が一通、跳ねた経路で届いた。発信元の符牒は《燈籠》。ガロ少佐の、癖のある省略文だった。
——封緘命令が来た。中身は知らん。知らんが、指定された輸送函の寸法だけは書いてある。内寸二・一に一・四に一・四。緩衝層は最厚指定。俺は箱の寸法で中身を当てる遊びが好かん。好かんが、当たりは見えとる。
ハルは数字を二度読んだ。二・一メートルに一・四に一・四。汎用貨物の規格ではない。耐衝撃緩衝層込みの、艦載自律中枢コアの摘出輸送規格だ。七年前、解体場の桟橋に列をなしていた函と、同じ寸法だった。
医務室から上がってきたナナオが、端末を覗き、酒を注がずに言った。
「劣化が進む前に回収する気じゃよ。中古の値が落ちる前にの」
「……回収して、どうする」
「決まっとろう。動かない艦を動かす支度の、続きじゃ。杭を買い戻し、コアを集め、それでもまだ足りんものがある。死者の艦隊を御するための、生きた見本。三十年もののTYPE-9が、整備込みで野に一基。買い手から見れば、掘り出し物じゃろうて」
誰も、それ以上は言わなかった。言えば届く距離に、まだ証拠が一つもなかった。
翌朝、監査団は引き上げた。受領書と引き換えに置いていった書類の束を、ハルは規定どおり頁数を確認し——最後の一枚で、手が止まった。
束の末尾に、要求一覧にも受領書にも載っていない頁が一枚、挟まっていた。表題、接収予定資産目録、案。回収を忘れたのか、忘れたふりをしたのか、警告なのか恫喝なのか、判じる材料はない。あるのは項目だけだった。
第九類。TYPE-9自律戦術中枢、九九号機。
所在、テネブラエ港。状態、稼働。
査定額の欄は、空欄だった。
「私の型式番号です」と、ツクモが平坦に言った。「査定額の記載はありません。中古市場が存在しないためと推定します」
港の朝は、いつもどおりに明るかった。明るい港の桟橋の先で、係留中の黒い艦は、目録に載った中古品の顔で、静かに浮いていた。