第163話 三十分
切れたはずの回線が、十秒置いて、もう一度だけ立った。
「言い忘れた」とカンプの声は言った。「勘違いするな。これは温情じゃない。お前を挙げても、分署には一文も入らん。賞金は中央の予算から出て、中央の手柄で締まる。残るのはなんだ。猟犬のいなくなった外縁と、野放しの還らず艦が今年も殺す十数人だ。俺は三十年、その数字を顧客にしてきた。——これは採算だ。それ以外の科目は、うちの帳簿にない」
「分署長。技術所見は、あんたの引き出しから出たのか」
「出された、が正しい」と声は言った。怒りも弁解もない、在庫を読む声だった。「監査の一括提出命令だ。拒めば分署ごと監察にかかる。一年半、寝かせた。寝かせた事実は、いずれ俺の罪状になるかもしれん。なってもいい程度の罪状だ。……ハル。一つだけ教えておく。あの紙が罪になる日を選んだのは、紙じゃない。お前の艦の中身が要る日を、誰かが決めただけだ」
「分署長。一つだけ言っておく」
「聞かん」と声は言った。「公式には、この通話は存在しない。公式には、当該艦の追跡は管制障害により不能。公式には、俺は今夜、定時で帰った。……三十分だ。使い方は教えん」
今度こそ、回線は切れた。
ハルは艦長席から、短く三つ命じた。機関、冷態始動。係留、非常解放準備。総員、配置。
ナナオは医務室の棚という棚を固定し、紙のカルテの束を診療鞄に移した。ヨルは操舵入力の席に着き、ヴェインの手袋の位置を一度直してから、自分の手を膝に置いた。出港前の点呼は、四人だった頃の様式のまま、三人と一隻で行われた。
三十分は、長くも短くもなかった。機関の冷態始動は規定で二十二分かかる。残りの八分で、ツクモは艦籍応答信号を停止し、港湾管制への自動応答符号を全て眠らせた。港に対して、艦は順番に口を閉じていった。二年間、書類の上で築いた「テネブラエ港籍、民間特務艦」という身分が、八分で骨組みまで畳まれていく。建てるのに二年、畳むのに八分。身分というものの工期は、いつも壊す側が早い。
「応答符号、全停止」とツクモが言った。「本艦は現時刻をもって、どこの港の艦でもありません。——七百日前の状態に戻った、とも言えます」
「あの頃と違う点を一つ言え」
「乗員が四名……三名と、遺品が一箱、増えています」
医務室から上がってきたナナオが、艦橋の手すりに掴まって、誰にともなく言った。
「夜逃げは二度目じゃがの、わしは。一度目は署名から逃げた。今度は署名と一緒に逃げる。……進歩と呼んでええのか、これは」
誰も答えなかった。答えの要らない種類の独り言だと、全員が知っていた。
「出航手続きは行いません」とツクモが確認した。「係留クランプの非常解放は、港湾設備の損傷弁済債務が発生します。概算十四万クレジット。滞納中の港湾使用料と保険料、計百二十万と合わせ、当港への債務は百三十四万になります」
「帳簿に載せておけ。逃げた分の請求書は、いつか全部払う」
「記録します。摘要は——夜逃げ、では様式に合いません。緊急出航、とします」
第七桟橋の管制灯が落ちたのは、宣告どおりの時刻だった。
誘導ビーコンが沈黙し、桟橋区画の監視網が保守画面に切り替わり、港務の呼出にどこも応えなくなる。管制障害。報告書に書ける、誰の悪意でもない四文字。その四文字の中を、全長二百八十メートルの黒い艦体が、灯火を全て殺して滑り出した。
操舵席は、空のままだった。
舵はツクモの自動操舵が大枠を取り、索敵席のヨルが二系統目の入力で繋ぎ目を埋める。ヴェインの教練記録、全二十一篇。死んだ男の手癖が、手順の一部として艦を運んでいた。修正舵の前に操舵桿を指で一度叩く音。減速の前の、半呼吸。記録された音を、ヨルは消させていない。こえが、てじゅんの、いちぶ——彼女がそう言ったのは、もう二週間前になる。
「離岸、完了。港内速度で航路外へ抜けます」とツクモが言った。「艦長。本航行は、当該体制での初の実戦運用です」
「わかってる」
「わたしが、やる」とヨルが言った。前を向いたままだった。「ならった。はらで、きるの」
艦は、教えられたとおりに曲がった。誰の目にも、上手い操舵ではなかった。几帳面で、遅れがなく、冒険のない、教練記録そのままの舵だった。それでよかった。死んだ教官の判子が、まだ艦のどこかで効いている。
舷窓の外を、中央埠頭の戦没者の壁が流れていった。九日前、ハルは保険金の送金を終えた足で、あの壁を素通りした。立ち止まる資格の整理が、まだついていなかったからだ。整理は、まだついていない。ついていないまま、今夜は港ごと壁を捨てていく。指名手配の身で次にこの壁の前に立つ日が来るのか、来るとしてどちらの名分で立つのか、考えは着地しないまま、壁は視界の後ろへ落ちた。
港湾空域の縁に、《燈籠》がいた。
哨戒位置、東に二十度。解散命令を受けた電子戦フリゲートは方面軍の指揮下に戻され、今夜は港の出入りを見張る網の一目に組み込まれている。囮歌の癖も、機関波形も、偽装筆跡も、この艦の全部を知っている男が、感知卓の前に座っている。
ステルスは応急修理のままだ。左舷二区画は仮外壁で、推進系は定格の七割。波形を完全には殺せない。殺し切れない波形が、《燈籠》の感知網の縁を、十一分かけて横切った。
十一分のあいだ、艦橋では誰も無駄な音を立てなかった。ヨルが一度だけ、感知方位へ顔を向けて、小さく言った。
「《とうろう》、きこえてる。……いきを、とめてる」
艦の聴き分けをする耳には、感知波の振り方で、向こうの卓の緊張まで聴こえるらしかった。怒って動く艦と、怖がって動く艦と、息を止めている艦。
ツクモが、軍の定時報告系を黙って傍受していた。
二三一〇、《燈籠》発、方面軍宛、定時感知報告。該当なし。
二三二五、同。該当なし。
二三四〇、同。該当なし。
三通の定型文が、艦橋の片隅の画面に並んだ。ハルはそれを見て、半年前の別の定型文を思い出していた。該当記録なし。特務局が、摘出痕の報告書を呑み込んだときの四文字。書式は嘘を運ぶためにある——そう思って七年生きてきた。今夜、同じ書式が同じ顔のまま、人を生かす嘘を三回打った。
「ガロ少佐の感知卓が私を見落とす確率は、計算上、零です」とツクモが言った。「報告は虚偽です。虚偽の感知報告は、軍法会議の管轄です。少佐は、部下二十六名を喰った還らず艦をまだ探している人です。軍歴を失えば、探す手段も失います。——それを承知の上の三通と、計算されます」
「保存しておけ」
「保存します。分類名は——空欄で」
◆
同じ夜、ギルド支部の閉局間際の窓口で、ミミナは手配案件の受注書式を開いていた。
照会は日没までに三十一件になっていた。明日の朝には、出足の速い連中が桟橋を離れる。受付にそれを止める権限はない。
彼女は書式の末尾、特記事項の欄に、一行を打ち込んだ。
——本案件は対象者の傭兵等級(第二級)に係る係争を含むため、受注者の等級審査を保留事項とする。確認まで受注確定を留保。
規定集のどこにも反しない一行だった。等級持ちの傭兵に手錠を売るときは、等級の貸し借りを先に締める。古い規定の、誰も使わない正しい読み方。確認の往復には、ゲート越しの通信遅延で、最短でも丸一日かかる。
判子を一つ、彼女は静かに捺した。
夫を還らず艦に取られた女が、還らず艦を狩る男の逃げ足に、丸一日を足した。台帳の備考欄には何も書かなかった。書かないことの書き方なら、この窓口で七年、嫌というほど覚えた。
◆
《送り火》が第三星系の縫航ゲートを抜けたのは、日付の変わる直前だった。
ゲートの向こう側、航路帯の出口に、民間船の灯が四つ、扇形に散って待っていた。武装登録のある中型艇。航路管制に届け出のない遊弋。互いの間隔は、感知網を重ねる教科書どおりの距離。
「同業者です」とツクモが言った。「葬儀屋稼業の網です。艦長——挨拶に来ています」