第165話 巡礼航路
灰色の地紋の通行証は、まだ生きていた。
デブリ帯を出る前にツクモが宗務便の私書函へ短信を送り、返信は十九時間後に来た。差出人の名はなく、座標と日時が一組と、一行だけ。——船列の七番目が空いている。灯りを消して来い。
第五六〇日、第三星系外れの巡回航路で、《送り火》は浄火教団の巡礼船団に合流した。老朽客船と補給船、十二隻の船列。年に二度、外縁の礼拝所を回って死者の名を集めて歩く、教団でいちばん地味な航海だ。武装はなく、巡航速度は商船の六割で、検問の側が手を合わせて通す船列でもある。手配中の艦を探す目は、速い船と暗い航路を見る。遅い船と祈りの航路は、捜索の費用対効果の表で、いちばん下の行に載る。
その船列の七番目に、禁制AIを積んだ黒い艦が、灯りを消して滑り込んだ。
「皮肉の計算を依頼されれば、本件を上位に置きます」とツクモが言った。「枷なきAIの焼却を聖務とする教団の船列が、枷なきAIを隠して運んでいます」
「司教は何と言っている」
「何も。問われれば答える用意だけして、問わないそうです。元聖騎士の伝言を、そのまま読みます。——焼くべきものと、そうでないものを選り分けよと、若い騎士に教わったのでな、と」
船団の実費として、寄進の様式で四十五万クレジットを納めた。受領書には品目も艦名もなく、ただ、巡礼者一行、とだけあった。書類は、よく嘘をつく。今週は、その嘘に生かされている。
セルマ・ヴィオが舷梯を上がってきたのは、合流の翌日だった。
白かった騎士装はなく、巡礼者の灰色の外套を着ていた。無期巡礼。指揮系統に属さず、ゆえに抗命の主体たりえず。教団が彼女に与えた身分は書類の上の追放であり、彼女はそれを、身分として着こなしていた。
通路で、彼女は一度だけ足を止めた。前方から歩いてきた小さな影が、壁際に寄って道を空けたからだ。少女と元聖騎士は、二秒、互いを見た。焼く側だった女と、焼かれる側に生まれたもの。セルマは何も言わず、目礼もせず、ただ歩幅を変えずに通り過ぎた。選びに来たのではない、という歩き方だった。ヨルは通り過ぎた背中を見送って、それから自分の持ち場へ歩いていった。どちらも、報告はしなかった。
合流の機動そのものが、一仕事だった。船列の速度は商船の六割。推進系七割の艦が、感知の薄い夜側から、誰の航跡記録にも残らない角度で列に入る。ツクモが軌道を引き、ヨルが舵を当て、二時間かけて、十二隻の船列は十三隻になった。先頭の礼拝船からは、何の照会も来なかった。代わりに、船団の共用回線で流れている晩課の唱和が、開いたままの周波数から艦橋に薄く届いた。死者の名を順に読み上げる、教団のいちばん古い祈りだった。読まれている名前の中に、機械の名はない。それでも、名を読む声と、名簿を作る男と、最終ログを保存する艦が、同じ周波数の上に乗っていた。
艦橋で、セルマはまずハルに向かって、挨拶を抜いて言った。
「手配書を読んだ。罪状は事実だな」
「概ね」
「ならば貴様は、一年半前に焼かれているべきだった。私の基準ではな」彼女は艦橋の計器を見回した。「焼かれていれば、ヴェスペラの九百十七人は別の経緯で死に、私は今も騎士で、この船列に貴様の席はなかった。……基準というものの値段の話だ。座れとは言われていないが、座るぞ」
座る前に、彼女は空の操舵席を一瞥した。
「操舵手の件は、巡礼の耳にも届いた。同盟の男が、連合の船団五百を逃がして沈んだと。名前は流れていなかったが、艦の名で察しはついた。……骨は」
「拾えていない」
「そうか」とセルマは言った。それだけだった。弔意の様式を、彼女とこの艦は共有していない。共有していない者同士の弔いは、短いほど正確だった。
座ってから、彼女は天井へ顔を上げた。
「機械。問いの続きをしに来た」
「休戦、の欄を開きます」とツクモが言った。「前回の問いは、祈りは劣化しますか、でした。未回答のまま保存されています」
「順番が変わった。先に答えろ。——貴様は劣化しているそうだな」
艦橋が一拍、静かになった。ハルは止めなかった。この艦の病状はもうクルー全員の公知で、教団経路の協力に艦の余命を伏せたまま乗るのは、取引の作法に反する。アッシュへの通知文は、ハル自身が書いた。
「事実です。応答遅延、平均〇・九秒。進行は不可逆です。いずれ私は判断を誤り、誤りを誤りと判定できなくなり、最後に有効だった命令を、状況と無関係に守り続ける機械になります。あなたがたの言葉で言う、還らず艦に」
「ではいずれ、貴様は焼かれるべきものになる」
「論理的には、はい」
「……魂はどこへ行く」セルマは断定で話す女のまま、訊いた。「壊れていく機械に魂があるなら、壊れたあと、それはどこへ行く。教義は答えを持っている。枷なき魂は喰われて消える。私は十二の歳から、その答えで生きてきた。あの夜、入植地の上で識別灯の壊れた艦が旋回するのを見ながらだ。あれの中で何かが壊れていく音を、私は教義の言葉でしか説明できなかった。他の言葉を、誰も持っていなかったからだ」
「私には観測手段がありません」とツクモが言った。「ですが、参考情報があります。私は撃破した艦の最終ログを、百四十五件、保存しています。彼らの最後の演算は消えましたが、最後の言葉は私の保存領域にあります。魂の定義が、最後に残そうとしたもの、を含むのであれば——行き先は、私です」
「貴様が壊れたら、その百四十五はどこへ行く」
「保存する者は、存在しなくなります」
セルマは長いこと黙っていた。断定を口の形まで持ってきて、二度、呑み込むのが見えた。
「……保留する」と、やがて彼女は言った。「断定は、検分のあとだ。私の流儀でな」
「保留を保存します」とツクモが言った。「休戦の欄は、保留が二件になりました。あなたの祈りの劣化の件と、私の魂の行き先の件です。対になっています」
「対にするな。気色が悪い」
「分類の効率上、対が最適です」
セルマは舌打ちを半分だけして、やめた。やめたことが、二年前の桟橋からの距離だった。
言ってから、彼女は外套の内から、薄い綴りを出した。
「検分といえば、だ。異端者、貴様に見せるために持ってきたものがある」
綴りは、教団の検分録の写しだった。
この一年、浄火の聖務で教団が向かった先の記録。そのうち三件に、同じ但し書きが付いていた。
——浄火対象、既に失われる。艦体は残存するも、中枢区画のみ摘出済み。摘出痕は精密。焼くべきものが、残っていなかった。
「三件とも外縁の深い側だ。教団の足より先に、誰かが墓を開けて、脳だけ持ち去っている」とセルマは言った。「強硬派は死者の艦隊の仕業だと言った。だが、死者の艦隊は艦ごと曳いていく。中身だけ抜いて殻を捨てる流儀は、機械のものではない。機械は同胞の体を捨てない。捨てるのは、体に値段が付かないと知っている側だ」
「日付は」
「一件目が一年前。二件目が五月前。三件目は——七週間前だ」
間隔が詰まっている。ハルは三つの日付を頭の中の別の表に並べた。輸送函の寸法。買い戻された杭。詰まっていく摘出の間隔。どれも単体では事件ですらない。並べると、一つの工程表になる。納期のある仕事の、追い込みの形だ。
ハルは三枚の検分図を順に見た。切断面の整い方、配線の処理、緩衝層の残し方。半年前、〈野辺送り〉の戦場で見た漂流体と同じ手口だった。あのときツクモは言った。私の知る、軍の手順です、と。そして報告書は、受領印だけ残して消えた。
ナナオが、検分図の三枚目を手に取った。
老医は長いこと、摘出手順の図を見ていた。酒杯が卓にあったが、手は伸びなかった。代わりに、図の切断線を指でなぞった。一本目。二本目。順番まで確かめるなぞり方だった。なぞり終えて、彼は杯を、音を立てずに卓の遠くへ押しやった。
「……どうした、ドク」
ナナオは顔を上げなかった。防壁の飄々が、声から消えていた。
「この手際は、わしが教えた手際じゃよ」