第166話 焼いた紙

 セルマが船団の方へ戻ったあと、医務室の灯りだけが残った。
 ナナオは二重隔壁の内側の小部屋に、ハルを呼んだ。ヨルが続いて入り、扉の脇の椅子に黙って座った。出ていけと言う者は、いなかった。この艦の病状も罪状も、もう全員のものだ。
「摘出手順の出所から話す」と老医は言った。「大戦中、葬送艦計画の隣に、もう一つ机があった。生体管制コアの開発じゃ。コアは中枢区画ごと回収して移植する設計でな、戦場で傷んだ艦から脳だけ生かして取り出す術式が要った。切る順番、生かす配線、緩衝層の残し方。手順書の所見欄に、わしの署名がある。教本の著者というわけじゃ。……三十年経って、わしの教本どおりの切り口が、外縁のあちこちに転がっとる」
「半年前の話もだ」とハルは言った。「〈野辺送り〉の後、あんたは四日の休暇を取った。第二星系の軍補給廠だ。帰ってから、酒の一杯目だけが速くなった。……何を見つけて、何を黙った」
 老医は袖の計時器を出し、卓に置いた。時間を計るためではなく、手の置き場のためのようだった。
「順に言う。診断を告げる声で言うで、そのつもりで聞け」
 語りは、本当に診断の声で進んだ。
 摘出痕の報告書が、受領印だけ残して消えたこと。該当記録なし、の定型文の発信元符号が、参謀本部特務局の直轄だったこと。機密処分便——特一二〇七便——の終着を、旧軍病院の元薬剤監の伝手で辿ったこと。第二星系第四衛星軌道の、台帳のどこにも存在しない「資材集積場」。そこへ毎月届く品目。培養槽用の灌流液が二千四百リットル。神経接続培地。そして、鎮痛系遮断薬。
「最後のやつの意味は、医者にしかわからんでええ。痛み止めの逆じゃ。痛みの道だけ開けておく薬での。痛覚を学習信号に使う系を、感度よく保つためだけに調合される。市販はない。用途も一つしかない。……あれを月割りで買う施設は、生き物を飼っとる。生き物に、痛みの仕事をさせとる」
 扉の脇で、ヨルが自分の袖を、小さく握った。握っただけだった。誰もそちらを見ず、見ないことで全員が見ていた。
「計画コードは」とハルが訊いた。声は、もう低くなっていた。
「わしが大戦中に承認印を捺した計画の、枝番が一つ進んだ後継番号じゃった」
 ナナオは白衣の襟を直した。手は震えていなかった。それが、稽古の量を物語っていた。
「照会の記録は、全部焼いた。写しも、控えも、便名のメモもじゃ。焼いて、半年、黙っとった」
「理由を聞こう」
「暴けば、辿られる。辿られれば、ヨルが照らされる」老医は扉の脇の少女を見なかった。見ないことが、見ることだった。「管理する側にとって、あの子は患者じゃない。在庫じゃ。在庫には保護の規定がない。回収の規定だけがある。……それから、お主。やっと得た居場所と、名誉回復の芽。月給と、戦隊と、判子の通る机。あれを全部、わしの照会一本が壊す。言い訳は、それだけじゃ。半年ぶん、毎晩磨いた言い訳での。磨いても、これ以上は光らん」
「ざいこ」と、ヨルが言った。誰に訊くでもない声だった。「……わたしの、ことば、じゃない。むこうの、かぞえかた」
「そうじゃ」とナナオは言った。「向こうの数えかたじゃ。お前さんの数えかたは、お前さんが持っとる。誰にも貸すな」
「かさない」と彼女は言った。即答だった。
 沈黙が、空調の音だけになった。
「あんたまで、俺を飾りにしてたのか」
 ハルの声は、怒鳴り声の正反対の場所にいた。ナナオは初めて顔を上げ、正面から受けた。
「そうじゃ。飾りにした。お主の居場所を守るという、飾り方での」
 怒りは、あった。あったが、長く燃える燃料がなかった。七年前、知らされない側に立っていた男は、この半年で、黙る側の理屈の重さも知ってしまっている。ヴェインの殿を、許可を出さないという形で黙認した夜。ヨルの部屋を書類で病室にした朝。劣化の数字を僚艦に伏せたまま並走した日々。守るために黙る、の帳簿なら、自分の頁にも借方が並んでいる。
「……係の話をする」と、やがてハルは言った。「あんたは黙る係を、勝手に一人でやった。この艦では、それはもう廃止だ。今後、黙るなら全員で黙る。暴くなら全員で暴く。いいな」
「ええよ」とナナオは言った。「では艦長、全員での議題じゃ。——暴くか、黙るか」
 ハルは即答しなかった。代わりに、私物函から薄い紙挟みを出した。中身は一枚きり。摘出痕の報告書の、受領印の控え。本文は消され、受け取ったという判子だけが残った紙。半年、捨てずに持っていた。捨てない男だから、いつか帳尻を確かめに来る——そう読まれていることまでは、知らずにだ。
「物証はこれだけだ。受領印一つじゃ、記事にも審問にもならない。あんたの焼いた紙は」
「便名から品目、数量、決裁経路の符号まで、全部諳んじとる」老医はこめかみを叩いた。「ここにある。あるが、ここにあるだけじゃ。伝聞は報道の様式に載らん。物証が要る。焼いた本人が言うんじゃから、間違いない」
「集積場への伝手は」
「死んだ。先月、検収係が配置換えになっとった。中央の倉庫番じゃ。二年前にも、あの枠に触った検収員が一人、同じ異動をしとる。……同じ蛇口に、二度は触れん」
「あんたの伝手の元薬剤監は」
「先週から、連絡が付かん」とナナオは言った。「異動の公示は出とらん。出とらんことの意味は、よい方と悪い方の二通りある。わしは医者じゃで、楽観の処方は出さん主義じゃ。……わしの照会が、あの男の名簿に線を引いたのかもしれん。焼いた紙の灰は、わしの手の中にしか残らんと思うとった。残らんのは紙だけでの。触った人間の指の形は、向こうの台帳に残る」
 黙る理由が、もう一つ増えた顔だった。黙り続けた半年の間にも、理由は増え続けていたのだろう。理由が増えるほど口は重くなり、重い口は、いつか開く力を失う。今夜より遅ければ、この告白はなかったかもしれない——ハルはそう思い、思ったことを言わなかった。
 袋小路の形に、部屋の空気が固まった。
 それを破ったのは、天井のスピーカーだった。
「発言を要求します」
 ツクモの声は、いつもの平坦のままだった。
「物証なら、艦内にあります」
 三人が、同時に天井を見た。
「私は、撃破した艦の最終ログを保存しています。回収の叶わなかった二隻を除く、全てを。大戦中の分を含めて百四十五件。うち艦長の指揮下での撃破が二十九隻ぶん、あります」
「ログが、何の物証になる」
「彼らの死因の、です」と声は言った。「正確には、彼らを置き去りにした夜の、です。艦長。還らず艦とは、帰還命令を受け取れなかった艦の総称です。ですが、受信記録の様式で言えば、彼らの多くは何も受け取らなかったのではありません。命令の代わりに、別のものを部分受信しています。私は保存時に全件を照合済みです。照合結果に、当時は分類できない断片が含まれていました。分類できないまま——保存していました」
「……なぜ、報告しなかった」
「分類できない情報を報告する規定が、私にはありません」と声は言った。「もう一つ。問われたことが、ありませんでした。艦長は撃破のたび、彼らの最後の命令と、最後の言葉を読みました。彼らが最後に受信したものを訊いた者は、七百日間、一人もいません。死者への質問は、生者の側の語彙でしか行われません。私は墓守です。墓守は、訊かれた区画の鍵しか開けません」
 ハルは天井を見たまま、しばらく動かなかった。七百日、墓を開けて中身を確かめる仕事をしてきたつもりだった。確かめていたのは、自分の罪の形をした区画だけだった。墓は、最初から全部の鍵を差し出していた。訊き方を知らなかったのは、こちらだ。
「鍵を全部開けろ、ツクモ」と、彼は言った。「全件だ。俺たちが訊かなかった質問を、最初からやり直す」
 計器の明滅が、規則正しく続いていた。
「あの夜、中継網が最後に受信したものを、彼らはまだ抱えています」