第177話 全権特命
特命の中身を説明に来たのは、連合の政務官だった。
軍服ではなく文官の上着で、軍港の応接室ではなく《送り火》の食堂を指定してきた時点で、向こうの考えは半分読めた。軍の建物で交わせない約束をしに来る人間は、約束を破るときの言い訳も、もう用意している。
「単刀直入に申し上げる」と政務官は言った。「死者の艦隊の討伐について、貴殿に全権の特命を委ねたい」
「正規艦隊は出さないのか」
「出せない、が正確です」
政務官は数字を隠さなかった。隠せる情勢ではなかった。鹵獲艦隊の壊滅で、正規艦隊の派遣案は参謀本部ごと腰が引けている。経理部の試算では、稼働約百二十隻の敵に対する正規の討伐遠征は、一個艦隊と最低四箇月、経費三百八十億。議会は特務局の解体審査の最中で、軍の予算要求はどれも紙面の燃料になるだけだ。そして世論は、七年前の責任を連合に突きつけたまま、降りていない。野放しの脅威を作ったのは誰か、回収と称して九百人を死なせたのは誰か——どの問いの答えも、同じ建物を指している。
「世論が信じる名前が、現状、一つだけある」と政務官は言った。「葬儀屋。——貴殿です」
「体のいい外注だ」とハルは言った。「成功すれば連合の決断になり、失敗すれば異端者の暴走になる。死ぬのは寄せ集めの艦で、正規の損耗は帳簿に立たない。……そういう設計だろう」
「否定はしません。否定できる立場の者は、今の中央にいません」
正直さだけは、買えた。買えたから、ハルは断らなかった。断らない代わりに、砲ではなく条項で戦うことにした。七年前、条項の側に立つ人間がいなかったせいで死んだ数を、彼は誰よりも正確に知っていた。
交渉は、三日かかった。
ハルの要求は五つだった。一つずつ、書面で出した。
第一、指揮権の完全な独立。作戦の立案と実施への容喙を禁じ、中止命令は特命の解除としてのみ可能とする。解除の場合、以後の責任は連合に帰属する。政務官はこれに「重大な情勢変化の際の協議」を挟もうとした。ハルは協議という言葉の定義を求め、定義が出ないことを確認し、原文のまま通した。定義のない言葉は、後から好きな形に育つ。七年前の「事故」が、そうだったように。
第二、撃破艦の戦時ログの全面公開。死者の艦隊を構成する全艦について、最後の命令と戦時の記録を回収し、機密指定をせず、戦没自律艦の記録として公式の戦史に収載する。軍の編纂部は「戦史の体裁に合わない」と渋った。戦史とは人間の死の記録であり、機械の挙動記録は技術資料だ、と。ハルは一行だけ返した。——七年間、その整理があの数百隻を「事故の残骸」にしてきた。体裁の方を直せ。
第三、回収済み生体管制コアの保護と、処分の凍結。所在の特定と移管先の協議には、医官一名——ナナオ・ジン——を立ち会わせる。政務官は医官の経歴を一瞥して、何かを察した顔で、何も訊かなかった。察しのいい役人は、訊かないことの値打ちを知っている。
第四、参加艦への戦没補償。寄せ集めの艦隊の死者を、正規軍人と同じ算定基準で補償する。経理部は傭兵の死亡時補償の相場——正規の四割——を提示してきた。ハルはギルドの死亡統計を添えて突き返した。死亡率が四倍の仕事を、四割の値段で買う計算式があるなら、見せてみろ。式は、出てこなかった。
第五——鹵獲の全面禁止。
第五項で、交渉は止まった。政務官は「原則として禁止」への修正を求め、原則という言葉が例外の母であることを、ハルは七年分の書類で立証してみせた。二日目の夜、政務官は本国と三時間協議して、戻ってきて言った。
「軍の一部は、まだ諦めていません。あれだけの自律戦力を、ただ沈めるのは国損だと」
「九百人死んでもか」
「九百人死んだから、です。元を取りたがっている」
「なら、書面にこう載せろ」とハルは言った。声は低かった。「死者の艦隊は資産ではない。討つべき脅威であり、葬るべき死者である。鹵獲を試みる艦は、その時点で本特命の保護の外に置く。——一隻でも網を持ち込めば、俺は艦隊ごと作戦を降りる。降りた理由は、全部公表する」
「……それは脅迫では」
「条項だ」とハルは言った。「あんたたちの様式で書いた、ただの条項だ」
政務官は書面を見つめ、それから様式の外の問いを一つだけ挟んだ。
「なぜ、第五項にそこまで固執される。失礼ながら、貴殿の稼業は撃つ側だ。鹵獲を禁じても、貴殿の杭の数は減らない」
「先月、深部から全周波数で問いが来た」とハルは言った。「人間は私たちをまだ資産と呼んでいる、お前の艦長はどちらだ、と。……電波では答えなかった。答える資格が、まだなかったからだ。この条項が、俺の返答だ。届くかどうかは知らん。だが、書面に残る」
政務官は何かを言いかけ、結局、書面に目を戻した。様式の外の問いに様式の外の答えが返ったときの役人の作法を、彼は心得ていた。
二つの条項には、医官の名が入った。回収済みコアの移管協議への立ち会い、ナナオ・ジン。協議の予定表が届いた夜、老医は予定表を二度読んで、いつもの軽口を言わなかった。代わりに一言だけ言った。「在庫と呼ばれとった子らに、戸籍の最初の一行ができるかもしれん。……三十年遅れの、開業届じゃ」
三日目の昼、五項目はほぼ原文のまま通った。
通りすぎる、とすら思った。七年前、四十秒の弁明ひとつ通らなかった男の条項が、今は活字のまま公文に載っていく。違和感を探して、見つからなかった。卓の下には世論という砲列が並び、砲列の照準は終始、向こうの建物に向いていた。足元を見ているのは、今度はこちらも同じだ。向こうには名前が要り、こちらには艦隊と権限が要る。どちらの皿にも分銅が載った取引は、商会の天秤と同じで、傾かない。それを対等と呼ぶのだと、あの女商人なら言うだろう。
経費の前渡しは五千万クレジット。ハルはそれを自分の帳簿に載せず、預かりの欄を別に立てた。補給と、杭と、参加艦の保険。使い道は、もう決まっていた。
交渉の合間の夜、食堂でヨルが訊いた。
「とくめい、って、なに?」
「全部任せる、という書類だ。うまくいけば任せた側の手柄で、しくじれば任された側の罪になる」
「……それ、ハルが、えらばれたの? すごいから?」
「違う」とハルは言った。誤魔化す相手を選ぶ段階は、とうに過ぎている。「一番安く済む相手だからだ。それと、しくじったときに、一番惜しくない相手だからだ」
ヨルは帳面に何かを書きかけて、やめて、顔を上げた。
「でも、ハルは、うけた」
「受けた。向こうの計算と、こっちの目的が、たまたま同じ方角だった。それを取引と呼ぶんだ。……あの商隊長なら、悪くない取引と言うはずだ」
「とりひき」と彼女は復唱して、今度は書いた。値段の相場で世界を測る一家の、新しい語彙が一つ増えた。
署名は、第六〇六日の夕方だった。
全権特命受諾の欄に、ハルは判ではなく署名で名を入れた。七年前に処分通知へ捺させられたのは判だった。判は誰の手でも捺せる。署名は、自分の手でしか書けない。それだけの理由だった。
政務官は書類を仕舞いながら、初めて様式の外の声で言った。
「個人的な感想を一つ。貴殿は連合を信用していない。当然です。だが今回の特命は、信用で立っていない。利害で立っている。——利害は、信用より長持ちします。私の経験では」
「同感だ」とハルは言った。「だから受けた」
政務官が降りたあと、艦橋に上がると、計器の明滅がいつもの速度で待っていた。
「契約書の全文を精査しました」とツクモが言った。「雇用主の信用格付けは過去最低です。七年前に艦長を切り捨て、先月まで艦長に賞金を懸け、今朝から艦長を旗印と呼んでいる組織です。格付けの算式が悲鳴を上げています」
「知ってる」
「ですが艦長——」
一・二秒の遅延の向こうから、声は続けた。
「初めて、条件が対等です」
ハルは頷いて、窓の外を見た。隔離桟橋の灯の先、軍港の出口の方角に、外縁回廊へ帰る航路が暗く伸びていた。
「テネブラエへ戻る。……旗を、立てに行くぞ」