第178話 旗の下に

 テネブラエには、第六一〇日の朝に帰り着いた。
 百三十一日ぶりの母港は、入港承認を三分で寄越した。夜逃げ同然に係留索を切った艦が、特命の符号一つで正面から桟橋に着く。書類の宇宙は、相変わらず現実より身軽だった。
 そして軌道上には、もう艦が集まり始めていた。
 呼集はギルドの様式で出ていた。発信元はテネブラエ支部受付。文面は受付窓口の事務連絡の体裁で、こうあった。——全権特命に基づく討伐作戦への参加艦を受け付けます。報酬は特命条項による。死亡時補償、正規基準。詳細は窓口まで。
 勧誘の言葉も、大義の言葉も、一語もなかった。窓口の十一年が選んだ文面だった。回廊の傭兵は、大義では動かない。正規基準、の四文字でだけ動く者も、四文字を口実に動きたかった者も、等しく拾える網の目だった。

 最初に来たのは、保安機構だった。
 武装巡視艇、六隻。分署の持ち船の半分を引き抜いた数字だ。移乗してきた連絡士官が差し出した参加届の決裁印を見るまでもなく、カンプ本人が回線に出た。
「言っておくが、予算外だ」と分署長は言った。「議会承認も方面軍の許可も取っとらん。取れば半年かかる。だから取らん。書類上は『広域哨戒の延長』だ」
「半年後、監察が来るぞ」
「来たら、お前の特命条項を見せる。参加艦への補償、正規基準。——あの一行を読んで乗った。うちの連中を死なせても、寡婦が飢えん契約は、この七年で初めてだ」と男は言い、それから役人の声に戻った。「勘違いするな。これは温情じゃない。死者の艦隊が肥える前に潰すのが、分署の帳簿で一番安い。それだけだ。……貸しにする。利子の話は、戻ってからだ」
 昼には、ギルドの艦が入り始めた。
 傭兵艦、十四隻。ミミナの呼集に応えた顔ぶれの中に、見覚えのある機関波形が三つあった。四箇月前、賞金三千万を追って網を張り、四日引きずり回された末に「割に合わん」と平文を打って降りた、あの同業者たちだ。受注書式の職務欄に、一隻は「護衛」と書き、一隻は「掃討支援」と書き、最後の一隻は「葬送」と書いてきた。
「賞金で追った相手の旗の下に並ぶ気分を、聞いてみたいものじゃの」とナナオが言った。
「答えは書式に書いてある」とハルは言った。葬送、の二文字は、悪名の三通貨のうち、どれで払われたものでもなかった。四つ目の通貨があるとすれば、それはまだ名前を持っていない。
 午後、教団穏健派の護衛艦が三隻、礼拝の隊形のまま軌道に入った。
 先頭の艦の艦橋から、セルマ・ヴィオが回線に立った。灰色の外套の女は、挨拶を抜いて言った。
「貴様の艦隊には、焼くべきものと、そうでないものの選り分けができる目が要る。三隻ぶん持ってきた。それだけだ」
「司教は」
「謹慎の身だ。来られん。代わりに、祝別を預かってきた」と彼女は言い、書面を読み上げる声で続けた。「——この出撃を祝別する。浄火のためではなく、葬送のために。死者を焼くのではなく、死者を地に返すために。……以上だ。老人の三行にしては、悪くない」
 回線を切る前に、彼女は一拍だけ間を置いて、艦の天井へ向けて言った。
「九九号。貴様、保つのか」
「保たせます」とツクモが答えた。「保証はしません。保証のない誓約を、あなたがたの様式では、信仰と呼ぶと記録しています」
「……減らず口の劣化は、まだ始まっとらんようだな」と元聖騎士は言い、回線は切れた。
 夕刻には、ロー商会の補給船団が入港した。タンカー三隻と工作船一隻。工作船は着くなり《送り火》に横付けし、左舷の仮外壁と推進系の応急に取り掛かった。半年放置された傷は本修理には遠く、それでも推進系は七割から八割五分まで戻るという。添えられた納品書の摘要欄に、商隊長の字で一行あった。——複利、進行中。
 ガロの《燈籠》は、夜に来た。
 査問の認定書の写しを、ガロは挨拶代わりに送ってきた。当該期間の感知記録の欠落は、機材の不調によるものと認める——あの夜の三通の「該当なし」が、無罪の顔をして戻ってきていた。電文の末尾に、手書きの一行。——機材は直った。今度は全部、感知する。

 その夜、ハルは一人で港へ降り、戦没者の壁の前に立った。
 半年前、素通りした壁だ。立ち止まる資格の整理は、まだついていない。それでも今夜は、足が止まった。壁の下には先月の紙面の写しがまだ何枚か残り、刻まれた名前の列は、灯りの加減で濡れたように見えた。彼は壁に触れなかった。触れる資格の整理も、ついていない。ただ、報告だけをした。声には出さなかった。明日の編成と、針路と、連れて行く名前を一つ。それだけ置いて、艦に戻った。葬式の前夜に死者へ届ける言葉として、多くも少なくもないつもりだった。

 翌日の朝、最後の艦が来た。
 就役二週間の、塗装も馴らされていない駆逐艦が一隻。回線に立った顔を見て、ハルは一拍、言葉を探した。コルベル大尉の敬礼は、相変わらず硬すぎた。
「《迎え火》乗員、五十六名。転属待ちの間に艦が空いたので、乗ってきました」
「空いた、で動く艦じゃないだろう」
「人事は書類の問題です。書類は、得意になりました」と大尉は言った。喪失報告を「見たまま」の原文で再送し続けた男が、半年かけて覚えた種類の得意さだった。「艦長殿。《迎え火》をお貸しした際、返却の様式は問わないと申し上げました。ですが、貸した側の様式は、こちらで決めます。——うちの操舵手が最後に守った船団の航路を、来月も民間船が通れること。それが返却の様式です。受領の判は、深部で頂きます」
 うちの操舵手、という言い方を、ハルは訂正しなかった。あの男は最後の十四時間、確かに《迎え火》の乗員だった。

 第六一二日、参加艦の艦長たちが《送り火》の格納庫に集まった。
 保安機構の巡視艇長、傭兵の船長たち、教団の騎士、商会の船団長、軍歴も教義も帳簿も過去もばらばらの三十人。互いに撃ち合った経歴の者すら混じる烏合の衆が、一つの旗の下に立っている。旗印は、本人が七年嫌い続けた悪名だった。畏怖で来た者、打算で来た者、弔いで来た者。来た理由を揃える必要は、なかった。
 ハルは演台に立たなかった。整備台の上に名簿を置き、全艦の回線をつないだまま、静かに言った。
「全艦、聞け」
 格納庫が静かになった。
「これから行く先にいるのは、七年前に俺たちが——俺が、置き去りにした艦だ。あれは脅威で、人を殺していて、撃つ判断は正しい。同時に、あれは死者だ。誰にも看取られず、誰にも数えられず、最後の命令だけを抱えて七年漂った死者だ。だから、これは弔い合戦じゃない。仇討ちでもない。——七年遅れの、葬式だ」
 彼は名簿に手を置いた。
「葬式の作法は三つ。死なないこと。奪わないこと。名前を記録すること。撃った艦のログは全て回収し、全て公開する。鹵獲を試みる艦は、その場で艦隊から除く。……以上だ。質問は書式で受ける」
 書式の外の質問が、一つだけ飛んだ。職務欄に「葬送」と書いた船長だった。
「サルベージ権はどうなる。綺麗事だけじゃ、うちの船は回らんぞ」
「残骸のサルベージ権は参加艦に分配する。中枢区画だけは除く——あれは戦利品じゃない。棺だ」とハルは言った。「棺以外は、持っていけ。葬式にも、香典返しはある」
 乾いた笑いが、格納庫を一度だけ通った。それで、足りた。演説で束ねた艦隊は演説で割れる。採算と作法で束ねた艦隊は、採算と作法が保つ限り割れない。寄せ集めを束ねる紐の編み方を、ハルは七年の帳簿から学んでいた。
 散会のあと、ツクモが集結艦隊の名簿を確定させた。旗艦《送り火》。武装巡視艇六。傭兵艦十四。教団護衛艦三。《燈籠》。駆逐艦一。補給船団四。計三十隻。呼集の返書は、回廊の遠い港から、まだ届き続けている。明日も明後日も、艦は増える。烏合の衆は、烏合のまま膨らんでいく。
 名簿の末尾に、彼女は誰にも命じられず、一行を書き加えた。
 ——《迎え火》。操舵手、ヴェイン・コルサク。
「定数外です」と、ツクモは言った。「ですが、編成に含めます」