第179話 前夜の帳簿
出撃前夜は、帳簿の夜と決まっている。
第六一三日、ハルは艦長室で、二冊の帳簿を並べて開いた。一冊は艦の経理、一冊は七年ものの、自分の帳簿だ。
経理の方から片付けた。残高、八千九百九十五万クレジット。約九千万——逃げる前から五百八万減り、減った内訳の一行ずつに、闇補給と偽装予約と寄進と中継料の受領書が対応している。逃げた分の請求書は、全部払った。それだけが、この数字の自慢だった。
特命の前渡金五千万は、預かりの欄で今日、全て消えた。
中枢杭、六本。一千五百万。特務局の解体審査で買い戻しの名義が凍結された途端、二年死んでいた正規流通が息を吹き返し、杭は一本二百五十万の定価に戻っていた。市場を枯らしていたのが誰の金だったか、値札ほど正直な証言もない。軍の保管分の払い下げで六本——在庫零の時代は、今日で終わった。
弾庫に杭が降ろされるのを、ハルは立ち会いで見た。骨市の仲買人から一本三百万の闇値で買った頃を思えば、定価の杭が定数で並ぶ光景は、ほとんど贅沢だった。
「弾庫、収容完了」とツクモが言った。「六本。本艦の竣工以来、最多の同時在庫です。葬送艦計画の本来の定数は八本でした。三十年目に、定数の四分の三まで戻りました」
「足りるか」
「足りるかどうかは、撃ち方が決めます。足りる撃ち方を、艦長が決めてください」
「相手は百二十だぞ」
「百二十を六本で撃つ計画は、立てません。百二十のうち、杭を要するのは指揮系統の節だけです。節は、姉を含めて十前後と推定します。……それでも足りませんが、不足の見積もりが立つことと、無謀は別です」
艦隊の補給と弾薬に二千二百万。参加艦の戦没補償の基金組成に一千三百万。前渡金の残り、零。呼集の返書は今日も届き続け、遠い港から駆けつけた傭兵艦と保安機構の応援で、名簿は夕方までに六十隻を超えた。一クレジットも自分の帳簿に移さなかったのは、潔癖ではなく作法だった。葬式の費用と香典を、喪主は混ぜない。
「経理の確定を確認しました」とツクモが言った。「本作戦の損益分岐は、計算しません。賞金の欄が存在しない猟は、本艦には初めてです」
「猟じゃない。葬式だ」
「訂正を保存します。……帳簿としては、奇妙に正しい形です。死者の数字の隣に、報酬の数字が並ばないのは」
医務室では、ナナオが全クルーの健康記録を更新していた。
ハル、異常なし、ただし睡眠不足の常態化に「本人が治す気がない」と注記。ヨル、能力使用の規定は一日二回各十分を維持、体温の上がり癖に予防の点滴一本。点滴の針を抜くとき、老医は言ったという。「お前さんの耳は、明日から艦隊六十隻分の命綱じゃ。命綱は、張りすぎたら切れる。切れる前に言うのが、お前さんの職務じゃぞ」。ヨルは頷いて、帳面に書いた。——いのちづな、きれるまえに、いう。自分の欄には「老衰の進行、予定どおり」とだけ書く、いつもの冗談。
最後に、老医は紙のカルテの最終頁を開いた。ツクモの診断記録だった。
「今日の平均、一・四じゃ」
計時器の数字を、彼は読み上げた。〇・九から一・二まで二十日。一・二から一・四まで、四十日。進行は緩んだが、止まってはいない。閾値の二・〇までの距離を、誰も口に出して計算しなかった。計算は、全員がとっくに済ませていた。
「所見を述べます」とツクモが言った。「この作戦の間は、保ちます。戦術中枢としての機能低下は、現時点で許容域です。終わった後の保証は、しません。——優先順位として、妥当です」
「妥当、で済ませるかの」
「済ませます。私は同族を終わらせるために造られた艦です。最後の同族の葬列に、間に合う計算が立っている。設計目的に照らして、これ以上の配分はありません」
ハルは、計時器から顔を上げなかった。約束はしなかった。治す、とも、撃たない、とも、言わなかった。言えば嘘になる言葉の在庫を、彼はもう七年分知っている。代わりに、第五四七日の夜と同じ答えだけを、同じ重さで置いた。
「——その依頼は、まだ受けていない」
「保存済みの回答と一致します」とツクモは言った。「一致の確認は、私の様式では、安心と分類されます」
夜に入って、ハルは出撃前の事務を二件、片付けた。
一件目は、艦の処分指図だった。《送り火》が還らなかった場合、ツクモの保存領域の百四十五件——撃破艦の最終ログと、一人の操舵手の最終通信——の写しをギルド窓口経由で公開すること。墓標を抱えたまま艦ごと消えれば、百四十五の葬式が、挙がらなかったことになる。指図書はミミナ宛に封をした。
二件目は、自分の保険の受取人欄だった。七年、空欄のままにしてきた欄だ。ペンを持ち、書ける名前が書類の上に存在しないことを確かめて、また空欄のまま閉じた。書けない名前のための欄を、書類はまだ持っていない。書式の側の欠陥は、こちらの帳簿にもある。
開いた回線の向こうで、教団の三隻が晩課を歌うのが、混信の縁に聞こえていた。葬送のための祈りだという。歌の上手い葬式になりそうだった。
消灯前、ハルは艦内を一回りした。
弾庫の六本の杭。商会の工作船が二日で張り直した左舷の外壁——本修理ではない、と工作長は三度繰り返したが、応急の上に応急を重ねた継ぎ目は、前よりまっすぐになっていた。倉庫の棚には、保留の箱。八万六千クレジットは、今夜も行き先のないまま、艦と一緒に深部へ行く。食堂の配膳棚の、縁の欠けた小さな食器。医務室の灯り。そして艦橋。
ヨルが操舵席の隣の管制補助席に座って、膝にヴェインの操舵手袋を載せていた。毎朝位置を直す係の彼女が、夜にそれを膝に置くのは、初めて見た。操舵席の脇には、同盟製の古い星図が、現状のまま留めてある。ヴェインの、ほし。彼女がそう呼ぶ紙の宇宙の隅に、明日向かう深部の宙域も、古い印刷で載っていた。
「ねむれないのか」
「きいてた」と彼女は言った。「ふかいところ。……おかあさんの、かんたい。ひゃくより、おおい。ならんで、しずかにしてる。——まってる」
「怖いか」
ヨルは少し考えて、首を横に振った。それから、縦に振り直した。
「こわい。でも、いく。……いつか、わたしが、ねらいを、あわせる。しってるから。それが、わたしの、しごとだから」と彼女は言った。「ヴェインが、いってた。せおうな、って。せおったら、かじが、おもくなる。……だから、せおわない。もって、いくだけ」
背負わずに、持っていく。手袋を膝に載せたまま、彼女はそう言った。ハルは隣の艦長席に座り、何も足さなかった。足せる言葉を持っている大人は、この艦にはいなかった。死んだ操舵手の語彙だけが、まだこの艦橋で現役だった。
自室に戻って、彼は七年ものの帳簿を開いた。
四千十二。引く、ではなく、重なる、に変わった数字の頁。三十一隻。解体廠の八十四名。ヴェスペラの九百十七。アルマの八十四。捜索円の印の付いた、およそ九百。二つ隣の席の男と、未提出の十一通。ヴェイン・コルサク。
頁を最後まで繰り、新しい頁に、彼は罪でも賞金でもない欄を一つ作った。線を二本引き、項目名だけを書いた。
——返すもの。
何を書くべきか、まだ分からなかった。七年は返らず、ヴェインは返らず、撃った三十一隻も返らない。返らないものの帳簿しかつけてこなかった手が、返すもの、という四文字の下で止まっている。それでも欄は作った。欄のないものは、いつまでも記帳されないままだからだ。
中身は、書かなかった。書ける日が来るのかも、知らなかった。それでも、帳簿のいちばん新しい頁が、初めて、罪の欄でも経費の欄でもないもので始まっている。七年つけ続けた帳簿の持ち主に許される変化として、それは多くも少なくもなかった。
窓の外で、テネブラエの港の灯が、一つずつ落ちていった。落ちない灯も、あった。桟橋の常夜灯と、ギルドの窓口の灯と、戦没者の壁の灯。還る者のための灯は、消灯の時刻表に載っていない。
出撃は、明朝〇六〇〇。