第196話 曳航
解隊の朝の配信は、いつもより長かった。
百四十六名。漸減戦の九十四、澪の四十一、制圧戦の十一。氏名、所属艦、遺族への支払いの完了率——九割二分、残り八分は書類の不備で係争中、進捗は引き続き全艦に共有する。文面の最後に、ハルは初めて、事務でない一行を足した。足すかどうか、前の晩に二時間迷った一行だった。
「諸君は死なずに削った。頼んだ仕事は、それで全部だ。——解隊。各艦、帰投せよ」
それだけだった。それだけの文面に、六十隻からの受領確認が、半日かけて、ぽつりぽつりと返ってきた。何隻かは確認符号のあとに余計な一行を付けてきて、規定違反だったが、ハルは咎める書式を起こさなかった。葬儀屋と仕事をした、と孫に自慢する、という一行があった。二度とごめんだ、給料は良かった、という一行があった。あんたの配信で、朝が来るのが分かった、という一行があった。ツクモは全部を保存し、分類名を「解隊の余白」とした。埋める癖が、つきはじめていた。
精算は、二日かかった。
タンカー二隻ぶんの補償と推進剤の損耗は、特命の正規基準で大半が埋まり、それでも書式の隙間から八百万が零れた。基準は人間の命の値段までしか定めておらず、商会の船員が積んでいた私物や、係争中の利息までは拾わない。零れた分は、出すと予告した者が出した。ハルの帳簿の経理欄に、補填、八百万、の一行が立った。残高、七千六百九十五万。賞金の欄のない猟の、最後の支出だった。
精算の列の最後に、コルベルが来た。
移乗してきた若い艦長は、軍の書式を二枚、卓に置いた。一枚は治療費の返済——いつかの戦いの立て替え、六十八万。利息の欄に、彼の字で「軍の書式に利息はありません」と書いてあった。もう一枚は、艦名登録の届けの写しだった。
「受領の判は、深部で頂きました」と彼は言った。「それで、艦の名が決まりました。名は戦から持ち帰るものだと、申し上げた件です」
届けの艦名の欄に、《迎え火》とあった。
「……二代目か」
「初代の喪失報告は、見たまま、のまま受理されました」とコルベルは言った。「艦は沈み、名は沈んでいません。沈んでいないものは、継げます。乗員五十六名、全員の連名で決めました。——お預かりしていた操舵手の航路は、来月もうちが守ります。民間船は、通れます」
ハルは六十八万を受け取り、受け取りの判を捺し、それから書式にない言葉を一つだけ言った。
「いい名だ」
「はい」とコルベルは言った。「知っています」
ガロは、残った。
《燈籠》は艦隊の帰投名簿から自分の名を外し、礁の常駐観測の任を方面軍に申請して、通った。眠った哨戒個体の漂流監視、深部の残存七十隻の台帳づくり、それから——彼自身の古い宿題。部下二十六名の仇の襲撃巡洋艦級は、この礁からも、まだ見つかっていない。
「機材は直っている」と彼は通信で言った。「今度は全部、感知する。……見つけたら、誰に報せればいい。保安機構か、軍か」
「俺に」とハルは言った。「宛先は、当分変わらない」
セルマの三隻は、解隊の翌朝に発った。
発つ前に、回線で短いやり取りがあった。聖遺物は司教の庫へ戻す、護衛は私が立つ、と彼女は言った。それから、管区へ戻ったらやることが二つある、と続けた。
「一つは、教練台帳の書き換えだ。鍵は焼くためのものではない、の一行。通すのに何年かかるかは知らん。年数は、信仰の敵ではない」
「二つ目は」
「選り分けの会を作る。焼くべきものと、そうでないものを、現地で見てから決める者の会だ。教団の内でやる。外でやれば、ただの異端の群れになる。内でやるから、効く」と彼女は言った。「……異端者。貴様の艦の機械に伝えろ。隣人の所見、の分類は悪くなかった。私の台帳にも、同じ棚を作る」
「自分で言え。聞いてるはずだ」
「聞いています」とツクモが割り込んだ。「保存しました。分類名は、相互です」
セルマは何か言いかけ、やめ、回線の向こうで短く息を吐いた。それが彼女の笑いの作法であることを、この艦の全員がもう知っていた。
ウェンディゴ・ローは、曳船を寄越した。
タンカー改装の無骨な船で、船首に商会の紋と、貸渡票が一枚。跳べなくなった巡洋艦は、ゲートのあいだの星系内航路を、自力では渡れない。ゲートそのものは向こうが縫ってくれる。縫ったあとの数日ぶんの脚が、もう無いのだ。貸渡票の摘要欄には、商人の几帳面な字でこうあった。曳航役務一式、請求先——戦争。注記——複利、回収済み。航路が開いた。それが利子よ、葬儀屋。
「商人の様式は、よく分からん」とナナオが言った。
「分かる」とハルは言った。「貸しは帳簿に載せない主義の人の、決算報告だ」
帰り道は、二十三日かかった。
行きに三日だった道のりだった。曳索の先で、《送り火》は黒い艦体を静かに運ばれていった。還らず艦を三十八隻沈めた葬送艦が、商会の曳船に引かれて還る。すれ違う航路の船は、その姿を遠目に見て、何の艦かを知る者は帽子を取り、知らない者は、ただの廃艦だと思った。どちらも、半分ずつ正しかった。
曳かれる艦の上の日々は、奇妙に静かだった。
ヨルは毎朝、操舵手袋の位置を直し、午後は曳航の振れを二系統目で抑える練習をした。曳かれる艦の舵というものがあることを、彼女は初めて知った。ナナオは医務室の棚卸しと、三十年ぶんの計時器の記録の清書をした。ツクモは夜ごと、墓標庫百八十八件の照合を一隻ずつ続けた。十七倍遅い頭では、ひと晩に終わらない。終わらないので、毎晩やった。日課ではなく、点呼として。
航海の半ば、ハルは一度だけ弾庫に降りた。
架台は、八つとも空だった。八本で始めた葬式の、八本目が姉を貫いて、それきりだった。中枢杭の市場は蘇生したから、金を出せば補充はできる。できるが、装填する機構を動かす戦術中枢が、もうこの艦にはない。杭のない葬送艦は、牙を抜かれた狼ですらなかった。仕事を終えた道具、という静かな分類だけが残った。ハルは空の架台を一巡り見て、灯りを消して、上がった。
夕食の卓で、ヨルが訊いた。
「テネブラエ、ついたら。……ふねは、どうなるの」
「跳べない巡洋艦に、猟の仕事は来ない」とハルは言った。隠す相手のいる卓ではなかった。「維持費は月に九十万。稼がない艦には払えない数字だ。……退役、ということになる。係留墓地という区画がある。大戦で退役した艦が、解体を待たずに繋がれてる場所だ。解体するかどうかは、艦主が決めていい」
「かいたい、しないよね」
「しない」と彼は言った。「墓地に繋ぐ。それも弔いの様式の一つだ」
「では、本艦は失業ですか」とツクモが言った。
「お前は艦体じゃない。中枢だ」とナナオが言った。「中枢の身の振り方は、別の相談じゃよ。慌てるな」
その相談が何を意味するのかを、その夜はまだ、誰も言葉にしなかった。
ハルは、申請書類の山を片付けた。
その中に、ギルドの様式が一枚、紛れていた。撃破艦最終ログの閲覧申請の、受付一覧の写し。公開はまだ先なのに、申請はもう三百を超えていた。一覧の最初の一行に、受理番号〇〇一、傭兵艦《ばら銭》機関員、とあった。氏名の欄は、几帳面な字で、隅まで丁寧に書かれていた。
名前というのは、書類と墓のためにある——誰かがそう言ったのを、ハルはどこかで聞いた気がした。一覧を閉じ、彼は思った。なら、これから開く墓地は、ずいぶん大勢の名前を呼ぶことになる。
二十三日目の夜、前方の闇に、テネブラエ港の灯が見えた。
操舵席の脇では、同盟製の古い星図が、出航の日のままの位置に掛かっている。ヴェインの星——名前の刷られていない端の一個まで、この艦は全部を積んで帰ってきた。持ち帰れなかったものの数は、帳簿の別の頁にある。それでも、帰りの積み荷の目録は、出航の日より一行だけ多かった。機械一名、生還。
戦没者の壁のある港。八年前に彼を拾わなかった港。曳かれて帰る黒い艦を、港の灯は、何も言わずに迎えた。