第197話 四十二番

 テネブラエ港の手続きは、三日がかりだった。
 入港検疫、曳航解除、係留契約の再締結。特命の解任状は、入港の翌朝に届いた。政務官の署名と、定型の労いの一段落と、報奨に関する打診が一通。打診の内容は、復権と再任用——軍籍の回復、階級は曹長相当から、とあった。ハルは返書に一行だけ書いた。「七年前の卓に戻る道は、もうこの宇宙にありません。打診は辞退します」。報奨金の欄には、受取人の変更を書き添えた。全額、参加艦戦没者の補償係争分へ。八分の不備で止まっている百四十六名の残りが、それで動く。彼の帳簿の経理欄は、その週、一円も動かなかった。
 四日目に、軍の鑑定官が来た。
 禁制自律中枢の処分審査。終戦協定がTYPE-9に定める処分は回収と破壊で、例外の様式は存在しない。存在しないが、協定の定義には、機能要件が書いてある。自律戦術中枢とは、艦隊戦闘の自律的遂行能力を有する演算主体を言う——三十年前、禁止する対象を絞るために書かれた一文が、三十年後、別の仕事をすることになった。
 鑑定は艦上で、半日かけて行われた。
 弾道計算の速度。多目標の同時裁定。電子戦の生成能力。鑑定官は項目ごとに基準値と計測値を並べ、並べるたびに、眉間の皺を深くした。計測値は、どの項目も基準の何十分の一かで、補助計算機にも劣る数字が並んだ。
「……機能喪失の経緯は」
「切除手術です」とツクモが自分で答えた。「執刀医の記録と、摘出物の現物があります。ご検分ください」
 ナナオが、布を掛けた金属の盆を出した。鑑定官は布を上げ、焼け色の差した結晶束を長いこと見て、布を戻した。
 夕方、鑑定書が出た。判定の欄には、こうあった。本機は協定第四条の定める自律戦術中枢の機能要件を満たさない。——該当なし。処分審査の対象外。民生相当管制機として登録可。
 立ち会っていたカンプが、その写しを受け取り、懐から古い書類を一枚出した。八年前の日付の、TYPE-9疑いの未処理報告書。分署長の引き出しで、時限爆弾のまま眠り続けた一枚だった。彼は鑑定書の判定をその余白に書き写し、受理印を捺し、八年遅れの決裁を終えた。
「公式には」と彼は言った。「処理が遅れていた書類を、本日処理した。それだけだ」
「本音は」
「……八年、これで首が飛ぶ夢を見た」とカンプは言った。「今夜から別の夢を見る。予算の夢だ。礼は要らん。あんたの艦は、うちの分署の帳簿で一番安い艦隊だった。それだけの話だ」
 民生相当管制機の登録には、登録名の欄があった。
 型式番号でも、艦名でもよい、と様式の注記にある。鑑定官が事務的に「TYPE-9、九十九号機、で登録しますか」と訊き、ツクモは〇・何秒か、遅い頭で言葉を選んだ。
「ツクモ、と。仮名三文字です。型式は、製造の履歴であって、名前ではありません」
 登録簿に、ツクモ、の三文字が載った。禁制品の番号として三十年存在したものが、初めて、公の台帳に名前で存在した。いた、ということになるのは、怖くて、少しいい——いつか誰かがそう言った登記を、機械が一件、済ませた。
 その晩、ナナオのもとには中央から封書が一通届いていた。
 特命条項三号にもとづく、回収済み生体管制コアの所在調査の中間報告。発見、保管庫二箇所、稼働状態のコア、数基。詳細は立ち会いの上で——とあった。老医は封書を白衣の内に仕舞い、仕舞った場所を軽く叩いた。
「三十年遅れの開業届がの、ようやく初診の予約をもろうたよ」と彼は言った。「中央くんだりまで、年寄りの往診じゃ。戻る日付は、聞くな」

 五日目の朝、ヨルが初めて、昼の港を歩いた。
 ナナオの上着の頭巾を被り、老医の診療所行きに付き添う、という名目だった。存在はいまも対外秘で、書類の上の彼女は、どこにもいない。いないことになっている娘は、難民区画の市場で芋の山を眺め、修理待ちの漁船の列を眺め、それから、足を止めた。戦没者の壁だった。四千を超える名前が、石の面にびっしりと刻まれている。
「……これ、ぜんぶ、なまえ」
「ああ」とナナオが言った。「七年と、三十年ぶんのな」
 彼女は壁の前に長いこと立っていた。読めない名前を、読めないまま、目で一つずつなぞっていた。それから、壁の端の、まだ何も刻まれていない余白を指した。
「ここ、あいてる」
「彫る名前が、まだ決まっとらんのじゃろ」
「きまったら、ふえるんだ」と彼女は言った。「……なまえが、ふえる かべ。へらないで、ふえるの。それで、いいんだよね」
 老医は、すぐには答えなかった。増えないのが一番いいに決まっていて、増えるなら刻まれた方がいいに決まっていて、その二つの決まりの間が、戦後というものだった。
「いい質問じゃ」とだけ、彼は言った。「持って帰って、全員で分けるとしよう」
 五日目の昼、ハルはギルドの窓口へ行った。
 ミミナは彼の顔を見ると、何も言わずに奥へ引っ込み、引き出しから包みを一つ持ってきた。預かり番号、四十二番。ヴェインの遺品と、帳簿の写しと、艦が還らなかった場合の公開指図書。
「戻ったら引き取りに来る、の履行ね」と彼女は言った。「四十一通の遺書は、全部本人に返した。あんたのが最後。……保管料は、まけておく。台帳の備考欄が、いい埋まり方をした年だったから」
 包みを受け取るとき、ミミナはもう一通、薄い封筒を添えた。
「それと、これ。先月、届いた。宛先は《送り火》気付、アマノ・ハル様。差出しは——第二星系、造船所。《グロム》機関科一同」
 返書の、返信だった。
 ハルは窓口の脇でそれを開いた。短い手紙だった。艦長の手紙は受け取った、九人で回し読みをした、酒の席で三回読んで、三回とも誰かが黙った、とあった。あの撤退で生きた三十一人のうち、九人がいまも船を造っています。艦長が最後まで舵を握ったと、紙面で読みました。自分らの造る船は沈みません。沈まない船を造ることが、機関科の弔いの様式であります。——機関科一同。
 読み終えて、ハルは封筒を懐に入れた。それから、八年間の宿題をひとつ片付けた。保留の箱——本籍地のない男の、日割り給与八万六千。供託する役所のなかった金に、宛先ができた。第二星系、造船所気付、《グロム》機関科。送金の摘要欄には、操舵手の最後の月給、とだけ書いた。手数料の欄を、ミミナが窓口の裁量で消した。あの保険金の送金から、半年と経たない二度目の書式だった。
「これで、あの人の帳簿は閉まったの?」とミミナが訊いた。
「閉まらない」とハルは言った。「閉まらないまま、置き場所が決まった。それで充分だ」

 夜、艦長室で、彼は自分の帳簿を開いた。
 四千十二。重なる、三十八。
 三十八という数字を、彼は長いこと見た。七年と数ヶ月かけて、艦一隻と、クルーの命の残りと、操舵手一人を支払って、届いた数字がこれだった。置き去りにした数は、推定二百余。引き算は、最初から合っていない。三十八をどれだけ眺めても、二百には届かず、四千十二には触れもしない。完済はない。完済がないことは、一隻目の夜から知っていた。知っていて、続けた。続けた結果が、届かない数字と、閉じない帳簿だった。
 それでも、と彼は思った。
 それでも、三十八隻ぶんの墓は開けて、確かめて、埋め直した。三十八件の最後の命令は、誰かが読んだ。読む者のないまま漂い続けるはずだった声に、百八十八件ぶん、聞き手がいた。それは罪を減らさない。減らさないが、罪の隣に、別の勘定を一列、立てることはできた。帳簿というものは、罪の額を消すための道具ではない。何があったかを、丸めずに残すための道具だ。残す仕事だけは、七年、一度も休まなかった。
 彼は頁を繰り、いちばん新しい欄の前で手を止めた。返すもの。一年前に作って、空欄のままの欄だった。
 ペンを持ち、置き、もう一度持って、結局、今夜も書かなかった。
 撃つ仕事は終わった。返す仕事の名前を、彼はまだ知らなかった。知らないものを書くと嘘になり、この帳簿に嘘だけは書けない。空欄は、嘘よりずっとましだった。
 帳簿を閉じたとき、端末に通知が二件、並んで届いた。
 一件は中央から。『還らず艦戦没録』、官報収載および公開日程の確定通知。
 一件は港湾管理局から。退役艦《送り火》、係留墓地第三区、区画割当の通知。
 墓地が開く日と、墓に入る日が、同じ週に並んでいた。