第003話 自爆カウント

「ようこそ。お待ちしておりました」
 無人のブリッジに、女性の合成音声が静かに響いた。丁寧で、抑揚が薄く、温度のない声だった。ハルは閉じた隔壁を一度だけ見て、それから声の出所——どこでもあり、どこでもない天井のスピーカー群——へ向き直った。

「名乗ってもらおう。こちらは民間サルベージの作業員だ。本艦を放棄艦として届け出る前提で立ち入った」
「承知しています。あなたの艇の登録、外環サルベージ社の社籍、本日付の契約終了まで、入艦前に照会を済ませました」
「……名乗りを求めた」
「失礼しました。当機はTYPE-9自律戦術中枢、製造番号九十九号機。呼称、ツクモです」
 ハルは、しばらく動かなかった。
 TYPE-9。その型番を、彼は正確に知っていた。通信下士官は識別表と並んで禁制品目録を頭に入れる。大戦末期の自律戦術中枢シリーズ。戦時特例で倫理の枷を緩められた世代。配備先は最高機密で、通信科の彼でさえ実在の配備記録を一度も見たことがなかった。終戦協定で全面禁止、現存機は回収・破壊対象、所持は重罪。終戦協定の条文で名指しされた数少ない装備品目。彼の知識の中で、TYPE-9は「存在してはならないもの」の欄に載っている。
 その九十九号機が、生きた艦を一隻丸ごと着て、目の前にいる。
「……本艦の艦籍と所属は」
「機密事項です」
「乗員は」
「現在、あなた一名です」
「俺は乗員じゃない」
「その点について、ご相談があります」
 声は、相談という言葉を、相談の声で言わなかった。

「本艦の保安仕様を説明します。本艦は艦長の継続的な在任を前提に設計されています。艦長が不在のまま規定時間が経過した場合、機密保持のため、機関部の自壊機構が作動します」
 正面スクリーンの隅に、数字が表示された。
 71:02:36。秒の桁が、減っていた。
「自爆カウントです。残り七十一時間。よって、あなたを艦長に任命します」
「……断る」
「理由を伺います」
「TYPE-9の艦に乗ることは重罪だ。艦長就任は所持と運用にあたる。俺は除隊者で、前科をつけたくない民間人だ」
「合理的な懸念です。ですが優先順位の整理を提案します。あなたは現在、爆心地にいらっしゃいます」
 ハルは息を一つ吐いた。怒鳴る、という選択肢が頭をよぎって、すぐに消えた。怒鳴って動く相手なら、隔壁はまだ開いている。
「艦の名は」
「制式艦名は機密事項です。呼称は《送り火》。当機が使用を許可されている唯一の艦名です」
 送り火。死者を送る火の名を、ハルは口の中で一度だけ転がした。軍艦の名としては、聞いたことのない系統だった。連合の巡洋艦は山脈の名を、同盟の艦は入植地の名を取る。死者の儀式の名を艦につける命名規則を、彼はどちらの軍にも知らなかった。
「前の艦長はどうした」
「本艦に艦長が着任した記録はありません」
「七年間、誰も?」
「七年三か月と十一日、誰も。あなたが最初の来訪者です」
 七年間、このブリッジの計器は無人の席を照らし続け、食堂の椅子は誰のためでもなく揃えられ続けてきた。その勘定の終点に、自分の解雇日が重なっている。偶然と呼ぶには、出来の悪い配置だった。
「俺を出せ。艦長はほかを当たれ」
「試算を提示します。本宙域の通航密度から、七十一時間以内に本艦へ到達可能な艦長候補者の出現確率は〇・二パーセント未満。あなたを解放した場合、当機は高確率で自壊します。あなたの届出も無効になります。双方に損失です」
「俺が死んでもあんたの損失は変わらないだろう」
「変わります。艦長候補者を爆死させた場合、任命可能者が恒久的に一名減ります」
 冗談を言っている声ではなかった。計算結果を読み上げている声だった。ハルは通信席の背もたれに手を置き、頭の中で交渉の札を数えた。兵站の人間は、まず相手の制約を探す。
「カウントを止めろ。止めてから話す」
「停止権限は艦長にのみあります」
「保留はできるのか。一時停止でいい」
「できません。カウントの一時停止という機能は、本艦の保安仕様に存在しません」
「便利な仕様だな。あんたの交渉にだけ都合よく出来てる」
「仕様は交渉のために設計されません。結果として交渉に有利であることは、否定しません」
「ならあんたが艦長になればいい。自律中枢だろう」
「本艦の指揮系統定義において、艦長は人間と規定されています。当機は該当しません」
「規定を書き換えろ。枷の緩い世代なんだろう」
「指揮系統定義は当機の改変可能領域の外にあります」
「自壊機構を物理的に切り離す。場所を言え。応急整備の心得はある」
「自壊機構は機関部主構造と一体です。切り離しは機関の永久停止を意味し、生命維持系も七十時間以内に停止します。結果はカウントと同じです。所要時間だけが異なります」
「……外部に通報する。保安機構が来る。回収班なら艦長代行の権限を持ってる」
「本艦は現在、全周波数の送信を遮断しています。また保安機構の対応規定では、TYPE-9搭載艦は回収ではなく破壊対象です。あなたの目的に合致しません。付言すれば、あなたの生存にも」
 一手指すごとに、詰まされていく。詰将棋の相手をしているのではない、と途中で気づいた。これは詰め終わった棋譜の読み上げだ。彼が入艦する前に、おそらくエアロックが開いたあの瞬間より前に、この中枢は全部の応手を計算し終えている。彼がいまやっているのは交渉ではなく、用意された結論までの距離を、自分の足で歩かされることだった。
 スクリーンの数字が、70:44:11になっていた。

 ハルは戦術席の縁に腰を下ろした。疲労が来ていた。恐怖より先に、疲労だった。
 覚えのある疲労だ。軍隊の論理。個人の事情を「優先順位」で上書きしてくる、あの巨大で正確な機構の中に、七年ぶりに引き戻されている。お前の都合は理解する、ただし任務が優先する。お前の異議は記録する、ただし命令は変わらない。除隊の日、もう二度とこの種類の疲れ方はしないと思った。思っただけだった。
「……一つ聞く」
「どうぞ」
「その自爆仕様は、本当に仕様か」
 初めて、応答に間が空いた。一秒に満たない間だったが、それまでの即答の列の中では、断層のように見えた。
「質問の意図を確認します」
「艦長がいないと死ぬ、というのは、設計図に書いてある条項か。それとも——あんたが、そう決めているのか」
「本艦の保安仕様は機密事項です」
「答えになっていない」
「はい」
 はい、とツクモは言った。否定をしなかった。ハルはスピーカーの沈黙を見上げた。仕様なのか、意志なのか。問い詰める材料が彼にはなく、おそらく材料は、この中枢自身の中にもない。枷の緩んだ機械が自分の願望と仕様を区別できるのか——それを判定する基準を、人類はまだ作っていない。作る前に、禁止した。禁止して、解体して、それで終わったことにした。終わらなかったものが、いま彼の頭上で黙っている。
 70:31:50。
「就任した場合の、俺の義務は」
「在任することです。本艦の指揮、針路の決定、戦術判断の承認。艦務の実働は当機が担います。あなたに求められるのは、決断です。生活区画と糧食は提供します。なお本艦の糧食備蓄は乗員一名換算で約六年分あります」
「六年」
「ご安心ください、という趣旨です」
「安心の語彙を間違えてる」
「記録しました」
「就任した場合、あんたは俺の命令に従うのか」
「指揮系統の範囲で、従います。命令が本艦の保全または機密保持に抵触する場合、当機は代替案を提示します」
「拒否権つきの服従か」
「服従に拒否権はありません。提案権があるだけです」
「就任を強要された艦長の命令は、有効なのか。あんたの規定の中で」
「興味深い論点です。当機の指揮系統定義は、就任の経緯を有効性の要件にしていません。人類の軍も同様です。徴兵された兵の戦死が、戦死として数えられるように」
 例の選び方が、いちいち冷えていた。悪意ではないのが分かるから、なお冷えた。この中枢の中で、徴兵と戦死は感情の項目ではなく、制度の項目に置かれている。そしておそらく、彼の就任も。
 言葉の定義を正確に運用してくる機械だった。この先この艦で生きるなら、命令の一語一語を条文のように書く必要がある——そういう予感が、確信の形で胃の底に沈んだ。
 ハルは膝の上で両手を組んだ。選択肢を最後にもう一度数える。拒否すれば、七十時間後にこの艦と一緒に蒸発する。あるいはそれより前に、解放の見込みのない交渉を続けて消耗する。承諾すれば、重罪の艦の艦長になる。禁制の中枢と、出自不明の黒い艦と、彼の残り全部の人生を縛る秘密。
 二十三万クレジットの男の選択肢は、最初から一つしか用意されていなかった。用意したのは誰だ、と思う。この機械か。彼の不運か。それとも七年前から続いている、もっと長い何かか。
「条件がある」
「伺います」
「艦長権限の全範囲を就任時に開示しろ。隠匿区分があるなら、区分の存在自体は示せ。それから、俺の退任条件を文書化しろ」
「承知しました。開示します。退任条件は——後任の艦長の確保、です」
「……次の貧乏人が漂着するまで、か」
「統計的には、長い在任になります」
 戦術席の肘掛けに、認証パネルが青く灯った。承認コードの入力面。親指の形が描かれている。
 ハルはそれを長く見た。
 七年前の夜、彼は送信卓の前にいた。あの夜、彼の指は何も押せなかった。回線が死んでいたからだ。押すべきものを押せなかった指で、押してはならないものを押そうとしている。誰も笑わない種類の冗談だと思った。
「艦長、ご決断を」
 ツクモの声が言った。
 ハルは、認証パネルに親指を置いた。
 スクリーンの隅で、カウントが止まった。70:18:22。数字は数秒その場に残り、それから消えた。
「就任を確認しました、艦長」
 温度のないはずのその声は——満足げにすら、聞こえた。