第013話 囮歌

「接近を開始します。艦長、ご決断を」
 承認、と言いかけて、ハルは一拍止まった。

 止まった理由は、戦術にはなかった。計画は細部まで詰めてある。接近経路、ウィンドウ、中止条件、離脱経路。数字は全部並んでいる。
 止まったのは、これから歌わせるものの中身だった。
 七年待った艦に、偽物の船団の声を聞かせる。存在しない待ち人の声で呼び出して、待ち人がいるはずの場所から、杭を打つ。
 戦術としては正しい。正しさの形をした何かが、別の名前を持っている気がした。冒涜、という単語が浮かび、彼はそれを打ち消さなかった。打ち消す代わりに、被害記録の十六人と、十七人目の顔のない誰かを隣に置いた。釣り合いは取れない。取れないまま、どちらの皿が重いかだけは、はっきりしていた。
「……承認する。始めろ」
「囮歌、起動します」
 艦内の照明が、給電優先順位の変更でわずかに沈んだ。

 囮歌は、歌だった。
 最初にそれを「歌」と呼んだ者の語感を、ハルは初めて理解した。表示の上では、それはただの電波放射のシーケンスだ。だが構成は歌に似ていた。主旋律——船団管制の定期通信。和声——船団各船の識別信号、位置符丁、速度報告。通奏低音——航法ビーコンの相互照合。それらが正確な間隔で重なり、誰もいない空間に「船団」をひとつ、編み上げていく。
「同盟第十二船団管制様式、終戦時改訂版を使用します。船団規模、輸送船六、随伴タンカー一。編成は標的の最終護衛任務の記録に一致させます」
「最終任務の船団を、そのまま再現するのか」
「はい。標的が最も疑いなく受け入れる構成です」
 ハルは黙って頷いた。頷いてから、自分が何に頷いたのかを考えないようにした。
 送信が始まった。
 暗い空域に、七年前の声が流れ出す。

 歌が流れている間、ハルは自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
 傍受訓練を思い出していた。軍の通信学校では、敵性通信の聴取課程で同盟の船団通信を何百時間も聞かされる。教材は実録だ。船団管制の定期通信、位置符丁、速度報告——いま囮歌が歌っているのと同じ形式の、本物の声たち。教官は言った。「形式を覚えるな。呼吸を覚えろ。通信には国ごとの呼吸がある」
 同盟の船団通信の呼吸を、彼はまだ覚えていた。応答までの間合いが連合より半拍長いこと。復唱の省略規則。緊急時ほど声が遅くなる、奇妙な文化。教材の声の主たちはもう大半が死んでいるだろうに、その呼吸だけが彼の耳に残り、七年後のいま、偽の船団に呼吸を吹き込む作業に使われている。
 知識は、使い道を選べない。選べるのは使う側だけで、使う側の選択肢も、たいてい思っているより少ない。
「ツクモ。三番輸送船の応答、半拍早い。同盟の呼吸じゃない」
「……補正します。応答遅延、〇・七秒追加」
 歌が、わずかに人間くさくなった。

 最初の応答は、四分後に来た。
「標的、受信を確認。識別照会が来ています」
 来た照会を見て、ハルは思わず身を乗り出した。
「……照会様式が古いな。戦時の三次照会だ。平時様式に落ちていない」
「標的にとって、戦争は終わっていません」
「分かってる。だが三次照会は乱数表の世代照合が要る。手持ちの乱数表は」
「終戦時点のものを保持しています。ただし照合週の指定が、標的の内部時計に依存します。七年分の累積誤差は未知数です」
 ここだ、とハルは思った。理屈の通らない部分。機械同士の照合の、人間が埋めるべき隙間。
「標的の内部時計は進んでるはずだ。九秒」
「……七年間の哨戒周期の累積誤差。適用します」
「待て。単純加算じゃない。同盟の艦載時計は縫航のたびに管制局へ強制同期する仕様だった。だが管制局はもうない。同期に失敗した時の艦側の挙動は——自走に切り替えて、誤差を週次で繰り上げる。繰り上げ規則は通信科の教範の隅に載ってる。連合側は傍受解析のために、敵の時計の癖まで覚えさせられた」
 ハルは端末に計算を組んだ。七年分の週次繰り上げ、三百六十四回。導かれる照合週のずれ、二。
「乱数表、二週ぶん未来側へずらせ」
「適用します。——照会への応答、送信」
 十一秒の沈黙。
「標的、照合受理。本艦の歌を、船団として認識しました」
 ハルは息を吐いた。吐いてから気づいた。自分の専門が——七年間ただの罪の記憶でしかなかった軍用通信の知識が——いま初めて、猟の役に立った。役に立ってしまった。喜びに似た反応が腹の底で起きかけ、それが何に対する喜びなのかを考えて、静かに醒めた。

「標的に動きあり」
 宙域図の赤い線が、七年間守った紡錘形から、初めて外れた。
 標的は変針していた。偽の船団の方位へ、教範通りの会合針路。隊形再構成のための加速。七年ぶりに「船団」の声を聞いた護衛艦は、ためらいというものを一切見せずに、持ち場を捨てた——いや、違う、とハルは思った。捨てたのではない。持ち場の定義が船団の位置である以上、あれは持ち場へ帰ろうとしているのだ。
「会合予測点まで、標的の航程四十六分。本艦の接近ウィンドウ、予定通り十九分を確保——」
 ツクモの声が、そこで途切れた。
「訂正します」
 表示の隅で、機関区の温度曲線が予測の帯を上に外れた。
「ステルス系冷却機、三番ユニットの効率が低下。連続秘匿可能時間、十九分から十一分に短縮されます」
「……十一分」
「十一分です。接近距離の再計算——現経路では、秘匿が切れる時点で距離千四百。中枢杭の射程外です」
 撃ち合えば負ける艦が、隠れる時間まで失っていく。
 ハルは数字を睨んだ。中止条件は決めてある。距離八百を切れないなら中止。いまの計算は千四百。条件に照らせば、答えは出ている。出ているはずの答えの横で、彼の頭は別の計算を走らせていた。
「ツクモ。会合予測点の手前、灯標三七の残骸帯。あそこを会合点に重ねられるか」
「船団の現在位置を書き換える、ということですか」
「歌の続きでだ。船団が減速した、と歌え。理由は——タンカーの機関不調。随伴タンカーを抱えた船団の減速は、護衛艦にとって最も自然な事象だ」
「標的の会合針路が残骸帯を通過するよう、船団位置を逆算します。……成立します。本艦は残骸帯で待ち伏せに移行。必要秘匿時間、十一分以内に収まります」
「それでいく。歌え」
「歌います」
 囮歌が、ひとつ音を変えた。存在しないタンカーが、存在しない機関不調を、誰もいない空間で律儀に報告した。標的が応答する。船団後尾へ警戒位置を移します、教範第何条——七年前に死んだ言葉たちが、暗闇の中で正確に行き交った。

 移動の間に、ハルは中止条件をもう一度だけ口に出して確認した。
「待ち伏せ位置で秘匿が確立できなければ中止。標的の針路が予測帯を外れたら中止。冷却機の温度が赤帯の上限に触れたら、状況を問わず中止。中止後は?」
「残骸帯の陰で完全沈黙、標的の離隔を待って離脱します。再襲撃のウィンドウは三十一時間後。ただし」
「ただし?」
「冷却機の劣化は進行性です。三十一時間後の秘匿可能時間は、今回をさらに下回ります。確率論的には、今回が最良の機会です」
「最良が、六割か」
「はい。明日は五割八分です」
 数字は静かに退路を削ってくる。いつものことだ。ハルは計器の固定具を確かめ、それから、誰も座っていない操舵席を一度だけ見た。自動操艦の補正限界は計算に入れてある。入れてあるという事実は、限界が来ないことを少しも保証しない。
「一つ聞く。お前の『最良』には、おれが死ぬ場合の数字も入っているのか」
「入っています。艦長死亡の推定確率、本作戦で四分」
「……正直なことだ」
「虚偽の報告は、本艦の利益になりません。あなたが死ぬと、カウントが再開します」
 それは励ましではなかった。励ましではないと分かっていて、なぜか奇妙に据わりがよかった。命綱の根元が善意ではなく利害に結ばれていることの、この安心感には、たぶんあまり健全でない名前がつく。

 《送り火》は残骸帯へ滑り込み、機関を落とした。
 岩と金属の骨の間で、艦は息を殺した。ブリッジの計器灯だけが、ハルの顔を下から照らしていた。冷却機の温度曲線が、じわじわと赤い帯へ這い上がっていく。残り秘匿時間、表示は九分台に入った。
 汗が、首筋を一筋降りた。
 残り八分。
 岩塊の影は、影であって壁ではない。標的のセンサーがこちらの正面を向けば、ステルスと残骸の擬態だけが命綱になる。その命綱の保証時間が、計器の上で一分ずつ短くなっていく。ハルは自分の心拍を数えるのをやめた。数えると速くなる。軍で覚えた数少ない実用的な知恵の一つだった。
 残り七分。標的、減速継続。
 残り六分。標的の光学が、残骸帯を一度、ゆっくりと舐めた。《送り火》の偽装表面温度は、周囲の岩と〇・三度差の範囲に保たれている。〇・三度。それが生死の幅だった。
 誰も喋らなかった。ツクモにも、いまは歌う声のほかに出す声がなかった。
 光学センサーの視野の縁に、それが現れた。
 九十六メートルの艦体が、減速噴射の青白い光を曳いて、まっすぐにこちらの空域へ入ってくる。七年間守った哨戒線を背に、隊形を組み直しながら——偽の船団の声の方へ。