第014話 中枢杭
標的は、残骸帯の縁で減速を終えた。
偽の船団の後尾——存在しないタンカーの左舷後方四千。教範が定める、機関不調の僚船を守る位置だった。
「標的、警戒位置に静止。船団の『修理完了』を待つ態勢です」
ツクモの声は、囁きほどの音量に落ちていた。音量を落とす必要は艦内には何ひとつないのだが、彼女はこういう局面で必ずそうした。誰の癖を学習したのか、ハルは聞いたことがない。
「本艦の位置から距離二千二百。残り秘匿時間、七分」
「まだ遠い」
「はい。最終接近の経路を提示します」
宙域図に細い線が引かれた。線は残骸帯の岩塊を二つ縫い、標的の艦尾側へ回り込み——標的と「船団」を結ぶ軸線の内側へ入っていた。
ハルは一瞬、その線の意味を測りかねた。それから理解して、低く息を吐いた。
「……護衛対象の側から、入るのか」
「はい。標的の警戒正面は船団の外周——脅威が来るべき方向です。船団の内側は、護衛艦にとって『守るべきもののいる場所』であり、警戒対象空域ではありません。センサーの割り当ても最低です」
守っているものの位置が、いちばんの死角になる。
理詰めの答えだった。理詰めの答えがそのまま、何かの皮肉の形をしていた。最も安全なはずの場所が、最も致命的な場所になる。守られているはずの位置から、杭が来る。
「経路、承認。接近を開始しろ」
「接近します」
《送り火》は岩塊の影を離れ、死んだ船の骨の間を滑った。
機関は最低出力。姿勢制御は冷気噴射のみ。二百八十メートルの艦体が、漂流物の速度で漂流物のふりをして、偽の船団の只中へ入っていく。
距離千八百。
冷却機の温度曲線が、赤い帯に指の先を掛けた。残り五分。
距離千五百。
標的の艦影が、光学の視野で形を持ち始めた。同盟製小型護衛艦。艦首の連装砲塔、艦体側面の対艦誘導弾架——誘導弾架は、空だった。七年の哨戒のどこかで撃ち尽くしたのだ。補給の来ない歩哨は、撃ち尽くした弾の架台を捨てる手段すら持たない。
距離千二百。残り三分。
「艦長」
「言うな。分かってる」
温度曲線は帯の中へ入った。三番ユニットの効率がもう一段落ちれば、秘匿は計算より早く破れる。破れた瞬間、距離千二百は死の距離だ。現役同等の火器管制に、撃ち合えない艦が千二百で裸にされる。
進むしかなかった。進む以外の全ての選択肢は、もっと前の分岐に置いてきた。
距離千。
標的の砲塔が、ゆっくりと旋回した。
ハルの心拍がひとつ跳ねた——が、砲口はこちらを素通りし、船団の外周方向で止まった。定時の警戒旋回。教範第何条かの、律儀な首振りだった。
「距離九百。……八百」
射程内。
「六百で撃つ。最後まで詰めろ」
「承知しました」
六百。確実を期す距離。それはツクモが推奨した数字であり、いま、その数字を選び直したのは自分だ、ということをハルは正確に自覚していた。外せば次はない。外した杭は二百五十万クレジットで、外された標的は十七人目を作りに戻る。
距離七百。温度警告が一段上がった。
距離六百五十。
距離六百。
「中枢杭、照準固定。標的中枢区画、艦体後部第三隔壁直下。——艦長、ご決断を」
ご決断を。
彼女はいつも、最後の一語をこちらに残す。発射の物理はツクモがやる。照準も、弾道計算も、発射機構の制御も。人間の反射では何一つ間に合わない領域の仕事だ。それでも引き金の言葉だけは、必ずこちらに置いていく。
仕様なのだろう、とハルは思っていた。自律兵器の交戦には人間の承認を要する——枷の残骸のような手続きが、彼女の系のどこかに残っているのだろうと。
だが、いまこの瞬間に分かったことが一つあった。仕様であろうとなかろうと、この一語の置き場所は正しい。撃ったのは機械だ、という言い訳の通る構造を、この艦は艦長に許していない。十六人を殺した艦を撃つのも、その艦が七年守った任務ごと撃つのも、おれの声だ。声に出した者が、帳簿をつける者だ。
四分の死亡確率と、二百五十万の杭と、四千十二の数字が、一瞬だけ脳裏を均等に通過した。
ハルは、撃て、と言った。
発射の反動は、思ったより小さかった。
徹甲杭は無誘導の質量兵器だ。閃光もなく、噴炎もなく、ただ一本の杭が暗闇を六百メートルだけ渡った。
渡り切った。
標的の艦体後部で、装甲板が内側へ咲いた。音はない。宇宙に音はない。光もほとんどなかった。爆発というものが、起きなかったからだ。杭は装甲を貫通し、その先にある自律中枢を——七年間、九秒しか間違えなかった頭脳を——物理的に砕いて、止まった。
「撃破を確認しました」
ツクモが言った。
「仕様通りです」
標的は、警戒旋回の途中の姿勢のまま、流れていた。
砲塔は外周方向へ向きかけた角度で止まり、姿勢制御の噴射は二度と吹かず、九十六メートルの艦体は、運動量保存則だけに従う金属の塊になって、存在しない船団の傍らをゆっくりと離れていく。
即死だった。
あるいは——とハルは思い、その続きを言葉にする前に呑んだ。呑んだ言葉は、たぶん「安楽死」に近い何かだった。苦痛の有無を論じる相手かどうかも分からないものに、そんな言葉を当てるのは感傷だ。感傷は仕事の後でやれ。仕事は、まだ終わっていない。
「囮歌、停止しろ」
「停止します」
存在しない船団が、ふっつりと黙った。七年ぶりに響いた待ち人の声は、護衛艦が死んでから十一秒後に、宇宙から消えた。
撃破の後が、始まった。
賞金の請求にはコアタグが要る。コアタグは中枢の残骸にある。中枢の残骸は、いま殺したばかりの艦の腹の中にある。
ハルは宇宙服を着た。
着る前に、ツクモが残骸の検分結果を読み上げた。
「残骸の状態を報告します。機関、停止。姿勢制御、停止。火器管制、応答なし。中枢の信号、消失。自爆機構——同盟の省人化改修艦は中枢直結の自沈装置を持ちますが、起爆系は中枢と同時に破壊されています。再起動の可能性、ゼロ。残存リスクは、加圧区画の急減圧と、破断面での裂傷です」
「つまり、死んでいる」
「はい。完全に」
完全に、という副詞を、彼女は強調しなかった。しなかったことが、かえって耳に残った。生死の判定を仕事にしてきた声だ、とハルは思い、その思考の続きを宇宙服の点検手順で塞いだ。気密、良し。酸素、四時間。命綱、二重。刃物と工具と、コアタグ用の封緘袋。
「移乗中の通信は常時開放します。三十秒応答がない場合、回収手順に移行します」
「回収手順の中身は聞かないでおく」
「賢明です」
ツクモが残骸との相対速度を合わせ、移乗用の索が渡された。
「艦内構造図を服の表示に送ります。中枢区画まで、艦首側通路経由で百十メートル。隔壁の電源は生きている可能性があります」
「了解だ」
索を渡り、破口ではなく正規のエアロックから入った。破口から入るのは礼を欠く気がした——という感覚が職業的に正しいのかどうか、考えないことにした。
機関区の脇を通るとき、手すりを伝う掌に、かすかな振動が残っていた。
主機はもう止まっている。残っているのは補機の余熱と、冷却材が配管の中で対流する微かな脈動だけだ。七年間、一日も止まらずに回り続けた機関の、最後の余韻だった。同盟の艦本部が大戦末期に量産した機関は、燃費と寿命だけを取り柄にした不細工な設計だと、連合の教本は書いていた。その不細工が、補給なしで七年回った。教本を書いた技師に見せてやりたい数字だったが、教本を書いた技師も、この機関を設計した技師も、もうどこで何をしているか分からない。設計者の消えた機械だけが、律儀に約束を守り続けていた。
艦内は、暗かった。そして、整然としていた。
非常灯の幾つかがまだ生きて、通路を等間隔に照らしていた。床に浮遊物がほとんどない。配線の留め具は全て留まり、消火器は全て定位置にあり、無重力用の手すりは磨耗の跡だけを残して並んでいた。七年間無人の艦内は、七年間掃除を続けた艦内だった。
乗員区画の前を通った。
寝台、十八床。全て畳まれ、固定具が掛かっていた。省人化改修済みの艦に、乗員はもとからいない。いないのに、寝台は十八床、いつでも使える状態で維持されていた。教範にあるからだ。たぶん、それだけの理由で。
操舵席には、誰も座っていなかった。
ハルは足を止めずに通り過ぎた。止めたら、何かを考えてしまう距離だった。
中枢区画は、艦体後部、第三隔壁の直下にあった。
杭は正確に届いていた。装甲の花弁の中心で、自律中枢だったものが砕けていた。基板と冷却材の球と、断たれた光配線が、灯りのない水槽の中身のように漂っている。
コアタグは中枢筐体の基部に残っていた。掌ほどの金属板。艦級、建造番号、就役年次。ハルはそれを外し、宇宙服の腰の袋に収めた。四百八十万クレジットが、袋の中で何の重さもしなかった。
離脱しようと身体を回したとき、視界の隅で、緑の灯がひとつ点いているのに気づいた。
中枢筐体の隣。独立電源の小さな匣。
戦時ログのストレージが、生きていた。
主の死んだ艦の中で、記録だけが、まだ灯りを点けていた。
「艦長」
通信にツクモの声が乗った。彼女にも見えている。
「戦時ログです。回収して再生しますか」
ハルは答えるまで、長くかかった。