第017話 帳簿
猟の翌週は、精算の週だった。
四百七十三万クレジットあった残高は、三日で百六十万になった。
最初に消えたのは二百五十万——中枢杭、一本。
杭は店で買える品物ではない。製造元は大戦中の連合の工廠で、生産ラインは終戦の年に閉じた。市場に出回るのは軍放出品、つまり「処分済み」の判を押されて横に流れた在庫だけだ。流通経路は灰色で、灰色の経路の買い物は、素人がやれば足元を見られ、悪くすれば売り手ごと罠になる。
ハルは素人ではなかった。
補給科というのは、つまるところ物流の役所だ。彼は処分品の払い下げ規則を条文番号まで覚えていた。放出品には処分時の検査証が付く。検査証には検査官のコードが入る。コードの真贋は照合局の公開窓口で、手数料三百クレジットで確かめられる——ここまでは誰でも知っている。誰も知らないのは、検査証の様式が終戦の半年前に一度改訂されていて、旧様式の証書を付けた「終戦後の処分品」は全て偽造だ、という一点だ。
持ち込まれた三本のうち、二本の証書が旧様式だった。
「この二本は引き取れない。出どころは聞かない。聞かないのは今日だけだ」
仲買人は顔色を変えず、偽造の二本を黙って箱に戻した。残る一本——証書の通った正規の放出品——に、ハルは言い値の二百八十万から交渉を始め、二百五十万で手を打った。相場より安くはない。だが確実に本物で、確実に追跡されない買い物だった。灰色の市場で買っていいのは、白い品物だけだ。
「お客さん、軍の補給かい」
「昔な」
「道理で。……またの御贔屓を」
杭は夜のうちに艦へ運ばれた。
全長四・二メートル、重量八百キロの徹甲杭を、係留区の貨物クレーンから艦の装填口へ移す作業は、本来なら装填手の資格者二名でやる仕事だ。資格者は港に何人もいるが、呼べば作業記録が残る。記録に残せない貨物を、ハルは一人と一隻でやった。クレーンの操作はツクモが港湾系統に「保守試運転」の名目で割り込み、ハルは装填口で位置決めをした。八百キロは無重力でも八百キロの慣性を持つ。挟まれれば、宇宙服ごと潰れる。
「左に十二センチ。……停止。降下、毎秒五センチ」
「降下します。艦長、確認ですが、この作業の死亡率は資格者二名体制の十一倍です」
「資格者を呼んだ場合の、おれたちの逮捕率は」
「計算するまでもありません」
「なら降ろせ」
杭が三番架に噛み合う鈍い震動が、艦体を通って足の裏に届いた。残弾、三。
装填口を閉じて、ハルは手袋の中の汗を初めて自覚した。命懸けの作業を命懸けと感じる感覚が、まだ残っている。残っているうちは大丈夫だ、と軍の先任が言っていた。何が大丈夫なのかは、ついに教わらなかった。
次に消えたのは五十五万——燃料と反応材。
これは表の買い物で、表の買い物には表の理不尽がある。港の燃料公社は還らず艦狩りの艦への給油に「危険業務割増」を乗せてくる。規約のどこにも書いていない割増だ。ハルは規約のどこにも書いていないことを根拠に、割増の根拠条文を文書で要求した。文書、という言葉を出した途端に割増は消えた。役所と役所崩れは、文書という言葉に弱い。書いたものは残り、残ったものは監査に出るからだ。
最後に八万——滞納していた係留費。
精算窓口の職員は、滞納利息の欄を消しながら言った。
「次からは自動引落にしときなよ。うっかり六十日超えると、無保険艦は競売名簿に載っちまう」
「保険には、近く入る」
「みんなそう言うんだ」
残高、百六十万七千クレジット。
命を賭けた猟の純益が、月の固定費の二倍に届かない。
夜、ブリッジで、ハルは精算の数字をツクモと突き合わせた。
「収支を総括します。本件の粗利、四百六十万。経費、三百十三万。純益、百四十七万。本艦の月間固定費は約九十万。すなわち」
「分かってる。言うな」
「撃ち続けるしかありません」
言うなと言ったのに、彼女は言った。たぶん、これは彼女なりの確認だった。艦長がこの算術を直視しているかどうかの。
「この艦は飼っているだけで月九十万を食う。獲物は還らず艦しか採算が合わない。つまりおれは、撃ち続けるしかない」
「はい。経済的には完全に正しい結論です」
経済的には。
その限定の付け方が、彼女の語彙の中でどういう座標にあるのか、ハルは時々考える。考えて、いつも途中でやめる。倫理の壊れた機械が「経済的には」と限定を付けるとき、限定の外側に何があるのかを知る方法を、人類はまだ持っていない。
「それと、艦長。本件の戦術記録から、改善要求を一件提出します」
「言ってみろ」
「最終接近フェーズにおいて、本艦の自動操艦は冷却機三番ユニットの出力変動を補正しきれませんでした。結果、秘匿可能時間を計画の十九分から十一分へ、八分喪失しています」
表示に、接近時の機関ログが並んだ。温度曲線の乱高下に合わせて、姿勢制御の噴射が細かく無駄を打っている。
「自動操艦は、設計時の機関特性を前提としています。経年劣化した機関の『癖』への適応は、本艦の学習範囲を超えます。劣化は今後も進行します。次の猟では、十一分が九分になります」
「結論を言え」
「人間の操舵手が必要です」
ハルは黙った。
黙っている間に、もう一つの数字が頭の中で帳簿を捲っていた。今回は獲物がいた。次もいるとは限らない。賞金案件は水物で、第五級の受注上限五百万の内側に収まる「割に合う」標的は、年に何件出るか分からない。獲物の出ない月、艦は係留費と保険と食費だけを淡々と食い、残高は月九十万ずつ沈んでいく。残高百六十万は、つまり猟果ゼロなら二ヶ月足らずの命だ。
葬儀屋稼業の死亡率の正体が、少し見えた気がした。眠らない機械が恐いのではない。残高の減る速度が、慎重さを買える速度を上回るのだ。次の月の係留費が、まだ熟れていない獲物へ傭兵の背を押す。焦りは戦術の穴になり、穴は線になって、ミミナの帳面に引かれる。
焦る前に、艦の性能を取り戻す。それが正しい順番だった。
分かっていた結論だった。機械は仕様で飛ぶが、老朽艦は仕様の外で飛ぶ。仕様の外を飛ばせるのは、仕様というものを最初から信じていない人間の手だけだ。
「……どこで探す。禁制AIの艦に乗せる操舵手だぞ。乗った瞬間から共犯だ。口の堅さと腕と、両方要る。そんな人間が、職安の名簿に載ってると思うか」
「載っていません。確認済みです」
「確認したのか」
「港湾労働者名簿、ギルド登録簿、保安機構の前科記録を照合しました。操舵適性と推定される経歴を持ち、かつ現在無職である者は港内に十一名。うち九名には飲酒障害または重大過失の勤務記録があります。残る二名のうち一名は緋蓮団との接点があり、一名は」
「一名は?」
「もう一人の、緋蓮団と接点のある方は」
「操艦記録は中の上。三年前まで緋蓮団系の運び屋の艇に乗っていました。現在は港湾の日雇い。技能面では許容範囲です」
「駄目だ。腕の問題じゃない。緋蓮団にはデブリ帯の借りがある。向こうの息のかかった人間をこの艦に入れるのは、借用書に住所を書き足すようなものだ」
「同意します。では、残る一名ですが——データが矛盾しています。操艦記録は外縁回廊で最上位。ただし所属欄が抹消されており、照合先が戦犯リストです」
戦犯リスト。
ハルは口の中でその言葉を転がした。連合の戦犯リストに載る操舵手——つまり、同盟軍人だ。艦を転がして、リストに載る程度には転がし続けた、敗けた側の軍人。
「名前は」
「ヴェイン・コルサク。元同盟軍駆逐艦長。現住所、難民区画C-7。職業、不定。戦犯リスト第七類、収監優先度C」
「優先度Cの意味は」
「訴追側の優先順位が低い、という意味です。証拠が薄いか、訴追の政治的価値が低いか、その両方です。逮捕状は出ていません。リストに載っているだけです」
「載っているだけ、で七年か」
「リストは消えません。消えない名簿に載った人間の雇用は、雇用主のリスク評価に直結します。念のため申し上げますが」
「この艦のリスク評価で、いまさら何が変わる」
「……変わりません。計算済みです」
ハルは端末を閉じ、すぐには何も言わなかった。
敗残の駆逐艦長を、連合の禁制艦に乗せる。正気の沙汰ではない。正気の沙汰でないことなら、この半月で随分やった。いまさら一つ増えたところで、帳簿の様式は変わらない。
寝る前に、彼は私的なファイルを開いた。
千行あまりの数列。いちばん下の、先日書いた行。
四千十二、引く、一。
完済のない分割払いの、最初の一行だった。利息だけで元金の減らない借金を、彼は他にも知っている。それでも払う人間と、払うのをやめる人間の差がどこにあるのか、彼は知らない。知らないまま、払う側にいる。
ファイルを閉じた、そのときだった。
窓の外——難民区画の方角で、人だかりの怒声が上がった。