第018話 私刑

 怒声の出どころは、難民区画の外れだった。
 夜の難民区画は、昼より正直な顔をしている。配給所のシャッターの前に、明日の列の場所取りの毛布が並ぶ。通路の壁には求人と尋ね人の貼り紙が層をなし、その一番上の層に、最近刷られたばかりのビラが重なっていた。
 ——同盟軍残党に職と寝床を与えるな。隣人の顔を確かめろ。
 刷りは粗いが、紙は良かった。難民区画の人間に買える紙ではない。誰かが外から持ち込んで、ここで撒いている。憎しみにも、流通経路と元手があるということだ。ハルはビラを一枚剥がして畳み、ポケットに入れた。剥がしたところで二枚目が出てくるだけの層の厚さだったが、剥がさないでいる理由も見つからなかった。
 貨物コンテナが谷をなす区画の底で、十人ばかりの人垣が、一人の男を囲んで殴っていた。

 ハルは走らなかった。走る代わりに、通路の継ぎ目の陰から、まず全体を見た。軍隊で覚えた手順だ。現場に近づく前に、現場が何でできているかを見る。
 殴る側は男が七人、女が三人。年齢はばらばらで、装いもばらばらだった。港湾作業着、商店の前掛け、古い軍用外套。共通点は一つだけ——誰も楽しんでいなかった。私刑には二種類ある。娯楽でやるものと、義務でやるものだ。後者の方が、ずっと止めにくい。
「——人殺しが」
「ウチの兄は二十二だった。お前らの機雷で死んだとき、二十二だった」
「同盟の犬が。何で生きてやがる。何でお前が生きてて」
 声は割れていた。割れた声で殴る拳は、技術ではなく重さで打つ。重さの分だけ、殴る側の関節も毎回傷んでいるはずだった。痛みを伴う打擲を、彼らは義務のように続けていた。
 囲まれている男は、大柄だった。
 四十半ば。白髪まじり。古い、徽章を全部むしり取った跡のある同盟海軍の防寒着。男は一言も発さず、命乞いもせず、抵抗もしていなかった。ただ、倒れなかった。倒れない、ということだけを最低限の動作でやり続けていた。顎を引き、こめかみと喉を肘で守り、打撃の力を膝で逃がす。
 ハルは、その守り方に見覚えがあった。
 乱闘の構えではない。あれは——艦の構えだ。被弾を前提に、重要区画だけを残して耐える艦の運用と同じ思想で、男は自分の身体を運用していた。喰らっていい場所で喰らい、艦を、いや身を保たせている。操舵手の反射だ。それも、撃たれ慣れた艦の。
 ミミナの噂話が、記憶の棚から落ちてきた。飲んだくれの元同盟駆逐艦長。操艦は外縁回廊で五指。名前は——ヴェイン・コルサク。
 保安機構の前科記録の照合結果と、一致した。

 見ているだけ、という選択肢も、彼の中には確かにあった。
 これはこの港の古い傷の発作であって、よそ者の手当てが効く種類のものではない。介入すれば敵意の宛先がこちらに移るだけで、移った敵意は艦に、稼業に、いつか書類の照会という形で届く。リスク計算の答えは「通過しろ」だった。ツクモなら〇・二秒で同じ答えを出すだろう。
 それでも足が止まったのは、倒れない男の守り方が、あまりにも艦の沈め方に似ていたからだ。浸水区画を捨て、隔壁を閉じ、傾きだけを保つ。ああやって沈まずにいる艦を、ハルは軍港で何隻も見た。沈まずにいることと助かることが別物だということも、同じ軍港で覚えた。沈まない艦は、誰かが曳航するか、誰も曳航しないまま錆びるかの、どちらかだった。

 介入の手段を、ハルは三秒で選んだ。
 拳ではない。彼の拳は十人を止められないし、止められたとしても、止め方が間違っている。殴り合いに勝った介入者は、群衆の敵意の相続人になるだけだ。
 彼は端末を出し、保安機構の公開周波数を、拡声で読み上げた。
「保安機構テネブラエ分署、通報受理番号の発行を要求する。事案分類、集団傷害の現行犯。現場、難民区画C-7、第三コンテナ列。当職はギルド登録傭兵、登録番号五ー〇四四一」
 怒声が、不揃いに止んだ。
「現場映像は通報と同時に分署へ送信される。集団傷害は外縁刑法で身元記録対象だ。記録は就労資格の審査に共有される」
 ハルは端末を掲げたまま、声の温度を変えなかった。
「ここから先は、全員の名前が残る」
 人垣が、ざわついた。
「……何だお前。同盟の仲間か」
「いや」
「じゃあ何でこいつを庇う。こいつらが何をしたか知らないのか。アレウス鉱山の輸送路で、機雷で、何百人——」
「知っている」
 ハルは短く言った。知っている、という言葉に嘘はなかった。彼の帳簿とは別の帳簿が、この港の住人の数だけあることを、彼は知っている。
「あんたたちの帳簿は正しい。だが取り立てる相手が違う。この男を殴って戻ってくるものが何かあるなら、おれは黙って見ている」
「————」
「何も戻ってこない。減るのは、あんたたちの就労資格だけだ。割に合わない。帰れ」
 正義は、正義では止まらない。止まるとすれば算術でだ。
 人垣は、ひとりずつ崩れた。最後まで残った外套の女が、地面に唾を吐いた。唾は男にではなく、ハルの靴の先に落ちた。それが彼女の、最後の取り立てだった。

 人垣が散って三分後、保安機構の夜回りが二人、通路の角から現れた。
 通報の動きが本物だったかどうかを確かめに来た顔だった。年嵩の方がハルの登録番号を控え、倒れている男を見て、それから面倒の総量を見積もる目で現場全体を見た。
「被害届は」
「出ない」
 答えたのは、座り込んだ男の方だった。保安員は男の顔と、男の外套の徽章をむしった跡を順に見て、何かを了解した。
「……ならば事案なしだ。次からは通報番号を先に取れ、傭兵。読み上げの様式は良かったがな」
 年嵩は皮肉とも忠告ともつかない調子でそう言い、若い方を促して戻っていった。難民区画の私刑は、被害届が出ない限り事案にならない。事案にならないものは、起きていない。この港の治安は、そういう帳簿のつけ方で保たれている。カンプの分署を責める気は、ハルには起きなかった。人員四十名で十二万人の港を見ている組織に、帳簿の外を拾う腕は生えてこない。
 拾うとすれば、帳簿の外にいる人間の仕事だった。

 人がいなくなったコンテナの谷で、男はゆっくりと壁に背を預け、座り込んだ。
 血を吐いた。吐いてから、折れた歯がないか舌で数える仕草をした。日常の点検のような手つきだった。
「……連合か」
 最初の言葉が、それだった。礼ではなかった。
 ハルは否定も肯定もしなかった。代わりに、医療品の携行パックから止血パッドを出して、男の手の届く床に置いた。手渡さなかった。手渡せば施しになる。床に置けば、拾うかどうかは男の決定になる。
 男は長いことパッドを見て、それから拾い、眉の上の裂傷に当てた。
「通報番号とやらは」
「発行していない。読み上げただけだ。様式を正確に読めば、発行済みに聞こえる」
「……はったりか」
「書類は、読み方より聞かせ方だ」
 男の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれなかった。血と腫れで、判別はつかなかった。
「一つ聞いていいか」
 ハルは壁に背を預けたまま言った。
「あんた、倒れなかったな。十人相手に、最後まで」
「……倒れたら、終わるからだ」
 男は止血パッドの位置を直しながら、抑揚なく答えた。
「艦と同じだ。浸水は止められなくても、傾きさえ保てば沈まん。沈まなければ、夜が明ける。明けた夜の数だけ、艦は古くなれる」
「古くなるのが目的か」
「目的なんぞ、とうにない。癖だけが残ってる。……艦乗りの身体ってのはな、艦より長持ちする。それだけの話だ。長持ちした分の使い道は、誰も教えてくれん」
 使い道なら知っている、と言いかけて、ハルはやめた。順番が違う。今夜言えば施しになり、明日言えば取引になる。男に必要なのは取引の方だった。
「妙な男だ。何が目的だ。説教か、布教か、それとも俺の身柄に懸賞でも出たか」
 ハルはコンテナの壁に並んで、立ったまま言った。
「ヴェイン・コルサク。元同盟海軍、駆逐艦長。操艦の腕は外縁回廊で五指——という評判の真偽を、確かめに来た」
 男の目が、初めてまっすぐにこちらを向いた。腫れた瞼の奥の目は、酔っていなかった。今夜は、たぶん飲む前に捕まったのだ。
「人違いだ」
「保安機構の記録と、さっきの身のこなしは、人違いだと言っていない」
「……記録を見れば、俺が何のリストに載ってるかも見たはずだ。連合の善良な市民が、口を利いていい相手じゃない」
「おれは善良でも、たぶんもう市民でもない」
 ハルは一拍置いて、用件だけを言った。施しの響きにならないよう、注意深く、雇用の響きだけを残して。
「操舵手を探している」