第019話 操舵手

 翌日の夕方、難民区画の縁にある安酒場で、二人は卓を挟んだ。
 昨夜のヴェインは「考える」とも言わなかった。ただ、この店の名前と時刻だけを口にして、コンテナの谷の暗がりへ消えた。来るかどうかは五分五分だと思っていた。来た、ということが、最初の返事だった。

 ヴェインは安蒸留酒を一杯だけ頼み、口をつけなかった。
 顔の腫れは引きはじめていたが、眉の上の裂傷は開いたままで、医者にかかった様子はなかった。難民区画の医者は安くない。安い医者は、医者ではない。
「昨夜の話の続きだ」
 ハルは前置きを省いた。
「艦は二百八十メートル級の巡洋艦。乗員は現状おれ一人。仕事は還らず艦狩り。操舵手の席が空いている」
「断る」
 即答だった。
「理由を聞いても」
「連合の艦を、転がせと」
 杯の表面を見たまま、ヴェインは言った。
「俺は同盟の艦乗りだ。十九で乗って、艦長まで二十年、同盟の艦しか転がしたことがない。最後の艦は——」
 言葉が、そこで三秒止まった。
「……沈んだ。乗員百十七名のうち、戻ったのは三十一名だ。艦長の俺が、その三十一に入ってる。戦犯リストってのはな、勝った側が書く帳面だが、載ってる理由まで全部が嘘ってわけでもない。俺は撤退戦で機雷原を使った。敵の追撃も止まったが、味方の脱出艇も何隻か、あれで死んでる。数えたい奴が数えれば、俺は人殺しだ。昨日の連中の兄貴も、あの海域なら——俺の機雷かもしれん」
「かもしれない、で殴られてやるのか」
「確かめる方法が、互いにないだけだ」
 ヴェインは初めて酒を一口含み、すぐ杯を置いた。
「で。そういう男に、連合の艦の舵を握らせたい理由は何だ。外縁回廊に操舵手は掃いて捨てるほどいる。素面で、リストに載ってなくて、殴られてない奴がな」
 ここからが交渉だった。そしてハルは、この交渉に使える札が誠実しかないことを、昨夜のうちに結論していた。経歴に傷のある男は、口説き文句の裏を読む。読まれて困る裏なら、最初から表にしておくに限る。
「条件を先に言う。給与は歩合、猟の純益の一割五分。当面の固定給は払えない。寝床と食事は艦持ち。艦は老朽で、整備士はいない。冷却機は劣化していて、自動操艦では補正しきれない。だから人間の手が要る」
「……ここまでは、ただの貧乏所帯だな」
「歩合の中身を先に検めるぞ、艦長殿。猟の純益てのは、何を引いた後の数字だ」
「賞金からギルド手数料、弾薬費、燃料、係留費の按分を引いた後だ。前回の猟で言えば純益百四十七万。一割五分なら二十二万。猟が空振りの月は、ゼロだ」
「日雇いの月給より悪い月があるってことか」
「ある。逆に、中型を獲れば一猟で百万を超える。博打の胴は艦が持つ。あんたが張るのは腕だけだ」
「……数字を隠さんのは買う。で?」
「ここからが本題だ。あの艦には、降りたら忘れる、では済まない種類の秘密がある。乗れば共犯になる。何の共犯かは、乗ると決めるまで言えない。決めて、聞いて、降りるのは——できない相談だと思ってくれ」
 ヴェインの目が、すっと細くなった。
「禁制品か」
「言えない」
「人身か。荷が人間なら、俺は受けない」
「違う。それだけは言える」
「……艦の名前は」
「《送り火》」
 その名を聞いたときの男の顔を、ハルは見ていた。同盟の艦乗りなら、葬送の火の名を艦に付ける感覚を、どう受け取るか。
 ヴェインは長く黙った。沈黙の長さは、たぶん彼の七年の長さだった。
「……条件を一つ、こっちからも出す」
「言ってくれ」
「俺は舵を握ってる間は飲まん。だが、握ってない時間に何を飲むかは、俺の勝手だ。説教は受けない」
「構わない。操舵記録が落ちたら、その時に話す」
「軍人の言い方だ」
「お互いにな」
 ヴェインは杯を干した。それが署名だった。
「……漂い続けるよりは、沈んだ方がましだ」
 立ち上がった男は、昨夜より三センチ背が高く見えた。

 乗艦は、その夜のうちに行われた。
 エアロックをくぐったヴェインが通路の途中で一度足を止め、壁に手を当てた。艦乗りが初めての艦の「呼吸」を確かめる仕草だった。それから彼は何も言わずにブリッジまで歩き、ブリッジの扉が開いたところで、艦内放送が言った。
「乗艦を確認しました。ヴェイン・コルサク、元植民自治同盟海軍中佐。戦犯リスト第七類、収監優先度C。本艦への乗艦は、リスク要因の追加と評価します」
 氷点下の挨拶だった。
 ヴェインは天井を一度見上げ、それからハルを見た。
「……これか。共犯ってのは」
「これだ」
「枷なしの軍用中枢。型は——TYPE-9か。声の作りで分かる。うちの艦隊にも対抗で積む積まないの議論があった。倫理系を削った戦術中枢ってのは、こういう声で喋るのか」
「本艦の型式に関する推論は、艦外での発言を禁じます」
「禁じます、と来た」
 ヴェインは短く、同盟訛りの悪態を一語だけ吐いた。意味はハルには取れなかったが、語感で八割は伝わった。
「艦長。確認だ。こいつの言うことと、あんたの言うことが割れたら、どっちが先だ」
「おれだ」
「即答できるなら、いい」
 彼は操舵席に歩み寄り、席の埃を眺め、座らずにまず計器の配列を目で三周した。それから手の甲で、操舵桿に触れるか触れないかの位置をなぞった。
「試験航行を要求する。係留区の出し入れだけでいい。艦の癖は、書類じゃ分からん」
「ツクモ、管制に申請を出せ。試験航行、港内規定速度」
「申請します。……許可されました」

 出航前に、ハルは艦内を一通り案内した。
 機関区、糧食庫、医務室——期限切れの薬の棚は黙って通り過ぎた——それから、乗員区画。
 寝台は十八床あった。全て畳まれ、固定具が掛かったまま、八年分の埃を薄く積もらせていた。ヴェインは入口で一度足を止め、区画の奥まで目を通した。
「……誰も使ってないのか」
「おれはブリッジ脇の予備席で寝てる。中枢の近くの方が、何かあった時に早い」
「艦長が予備席で、乗員区画が空か。逆さまの艦だな」
 ヴェインは一番手前の寝台を選び、固定具を外し、畳まれた寝台を開いた。八年ぶりに人を受け入れる寝台は、軋みもしなかった。同盟の艦も連合の艦も、寝台の規格だけは似ている。彼は備え付けの拘束帯の長さを無言で調整し、自分の荷物——雑嚢一つだった——を枕元の網に固定した。
 それだけで、引っ越しは終わった。
 二十年艦に乗った男の全財産が雑嚢一つであることについて、ハルは何も言わなかった。自分の全財産も、似たような体積だった。

 試験航行は、四十分で終わった。
 ヴェインは《送り火》を係留区から出し、港外の規定空域で八の字を二つ描き、戻して、接舷した。
 それだけだった。それだけのことの中身を、ハルは計器側で見ていた。冷却機三番の出力が揺れるたび、ヴェインの手は揺れの半拍前に当て舵を入れていた。機関の癖を、彼は四十分で——いや、最初の八の字の前半で読み終えていた。
 八の字の二つ目の途中で、ヴェインが前を向いたまま言った。
「艦長。この艦、就役からいままで、誰が舵を握ってた」
「なぜ聞く」
「操舵桿の渋みが、新品のまま固まってる。人間が握った舵ってのは、よく使う舵角の方向だけ滑らかになるもんだ。こいつにはそれがない。自動で飛んできた艦の桿でもない——自動主体の艦は、桿の整備自体が後回しになって、別の渋み方をする。こいつは、毎日整備されて、一度も握られてない」
 答えたのは、ツクモだった。
「操舵装置は就役以来、未使用です。本艦に有人操舵の記録はありません」
「……七年──いや、八年か。八年間、毎日、誰も握らん桿を整備し続けたのか」
「操舵系は乗員用設備です。乗員用設備の維持は、仕様に含まれています」
 ヴェインは何も言わなかった。何も言わずに、操舵桿を握る手の力を、わずかに変えたのがハルには見えた。荒れ地を均すような握り方だった。同盟の艦乗りが、八年待たされた桿に何を思ったのかは、本人しか知らない。本人も、たぶん言葉にはしない。
 接舷誤差の数字が出た。
「接舷誤差、十一センチ。……本艦の自動操艦の直近実績は三十四センチです」
 ツクモの声に、わずかな間があった。
「操舵記録を、参照用に保存します」
 それが彼女の語彙における降伏文書であることを、ハルはもう知っていた。
 ヴェインは操舵席に深く座り直し、初めて、席の主の顔になった。
「舵、もらう」
 それだけ言って、彼は操舵席の埃を払った。