第020話 閑話 窓口の戦後
ミミナの朝は、帳面の繰り越しから始まる。
昨日までに戻った者の名を確かめ、戻る予定を三日過ぎた者の名に小さな点を打ち、点が三つ溜まった名に、線を引く。
線を引くのは、朝のうちと決めていた。夕方に引くと、家まで持って帰ることになるからだ。
傭兵ギルドテネブラエ支部の受付に座って、九年になる。
戦時中からの二年は、徴募の窓口だった。志願者の名前を帳面に書く仕事だ。終戦からの七年は、傭兵の窓口になった。やることは変わらない。名前を書いて、線を引く。書く帳面の表紙が変わっただけだ。
夫の名前は、彼女の帳面にはない。
夫は傭兵ではなかった。第三星系航路の定期輸送船に乗る、ただの船員だった。戦争を無事に生き延びて、終戦の二年後——航路の外れで還らず艦に遭った。船は警告なしに撃たれ、十四名が死に、夫はその十四名のうちの一人になった。公式記録の死者四千人余りのうちの、一人。
保安機構から渡された書類には「航路逸脱の事実なし。回避可能性なし。賠償請求先なし」とあった。
請求先なし。
あの一行を、彼女は今でも諳んじられる。撃った艦には持ち主がいない。命令した軍は解体された。配備した国はもう存在しない。誰のせいでもないと書類は言い、誰のせいでもないものに、夫は殺された。彼女の戦後は、あの一行から始まっている。
今朝は、線を一本引いた。
ドゥガンという護衛傭兵だった。五十がらみで、腕は並で、酒場では声の大きい男だった。鉱石船団の随伴に出て、海賊に遭い、船団は無事で、随伴艇だけが還らなかった。雇い主の商会は規定の見舞金を払い、ギルドは死亡時事務を執行する。遺体なし。遺族の登録なし。つまり、名前を処理して終わりだ。
ミミナは台帳のドゥガンの行に定規を当て、一息で線を引いた。波打った線は引き直せない決まりだから、窓口の人間は線だけは上手くなる。九年で、彼女は港でいちばん線の上手い人間になった。なりたくてなった技能ではなかった。
線を引いた後、彼女はドゥガンの行の特記事項欄を見た。空欄だった。九年窓口にいて、酒場の声の大きさまで知っていた男の欄が、空欄。通り名のひとつも育たないまま死ぬ傭兵が大半で、それがこの稼業の本当の死亡率だと、彼女は思っている。死ぬことより、空欄のまま死ぬことの方が、ずっとありふれていて、ずっと安い。
午前の窓口は、いつも通りに流れた。
護衛依頼の精算が三件。新規登録が一件——二十歳そこそこの元工員で、彼女は規定通りに死亡時事務の説明をし、規定通りに「護衛から始めなさい」と言った。聞かないだろう。聞かない順に、線が引かれていく。
昼過ぎ、酒場区画の声が、今日も同じ話題を回していた。
「——だから単艦だって。第三星系の哨戒型を、単艦・無傷・八日で、だぞ」
「正面火力で抜ける相手じゃねえだろ、あれは。先行の三人は何で死んだと思ってんだ」
「だから化かしたんだとよ。緋蓮の生き残りの話、聞いてねえか。デブリ帯で味方同士で撃ち合わされたって例の与太。あの黒い艦は、艦の頭ん中に入ってくるんだと」
「与太に決まってんだろ……いや、しかしなあ」
「で、今度は何だっけ。戦犯上がりの同盟艦長を拾ったって?」
「私刑の現場から、書類読み上げてかっさらってったらしい。翌日にはもう乗せてたと。連合の艦に同盟の操舵手だぜ。正気じゃねえよ」
「正気じゃねえのは前からだ。単艦で哨戒型に行く時点でな」
笑い声。笑いの底に、薄く恐れが混ざっているのを、彼女の耳は聞き分けた。窓口は港の耳たぶだ。九年座っていれば、噂の成分くらいは利き分けられるようになる。
あの男の噂は、ここ数日で性質が変わりはじめていた。最初は「変な拾い物をした変な男」の話だった。いまは違う。傭兵たちは、自分たちの物差しで測れないものの話をするときの声で、あの男の話をしている。
誰かが言った。
「ありゃ、ありゃもう、葬儀屋だな」
卓の周りが、一瞬だけ静かになった。
「葬儀屋稼業の葬儀屋じゃねえ。手前の葬式じゃなく——艦の葬式を挙げて回ってる方の、本物の葬儀屋だ」
「うまいこと言ったつもりか」
「だってよ、考えてもみろ。撃沈報告書、見た奴が分署にいてな。砲戦痕なし、破壊は中枢のみ、他は無傷。残骸に航路標識まで打って帰ってきやがった。あれはもう討伐じゃねえ。埋葬だよ」
ミミナは帳面から顔を上げなかった。
上げなかったが、手は止まっていた。
夫を殺した種類の艦を、沈めて回る男。
彼女はあの男のことを、どう勘定すべきなのか、半月経ってもまだ決められずにいる。
恩人、という勘定はできる。あの哨戒型は、夫の航路の隣の宙域にいた。放置されていれば、いつか誰かの夫を、誰かの妻を撃った。それを四百八十万で取り除いた男は、帳面の上では間違いなく恩人の側に立つ。
だが別の帳面では、勘定が合わない。
あの男が沈めて回っているのは、夫を殺したものの同類だ。同類を沈めるたび、賞金が振り込まれる。つまりあの男の稼業は、夫を殺した戦争の——あの「請求先なし」の戦争の——後始末を、金に換える仕事だ。後始末が商売になる世界では、戦争はまだ終わっていない。終わっていない戦争の中で稼ぐ男を、恩人と呼んでいいのか。
決められなかった。決められないまま、彼女は一つだけ、確かなことを知っていた。
窓口の九年で、依頼票の読み方は百通り見てきた。賞金額だけ見る者。推奨戦力を見る者。サルベージ権の査定から入る者。
賞金額より先に、被害記録の欄を開いた者は、あの男が初めてだった。
最初の行から最後の行まで、読み飛ばさずに読んだ。五年前の貨物船の行で、画面を繰る指が一度だけ止まったのを、彼女は窓口から見ていた。あの欄は、遺族と——それから、自分の側に勘定をつけている人間しか、ああいう速度では読まない。
あの男の帳面に何が書いてあるのか、彼女は知らない。
知らないが、帳面を持っている人間の手つきは、帳面を九年つけている人間には分かる。
午後遅く、酒場区画の賭けの胴元が窓口に来た。表向きは精算の用事で、本当の用事は情報の仕入れだった。
「ミミナさんよ。例の黒い艦の艦長、次の受注はいつだ。オッズを組みたいんだが」
「何のオッズ?」
「次の猟で死ぬか戻るか。今朝までは三対一で死ぬ方だったのが、哨戒型の一件で逆転した。今は戻る方に二対一。戦犯の操舵手が乗ったってんで、また荒れてる」
「人の生き死にで帳場を立てるの、規約違反よ」
「規約に『傭兵の生還』の項目はないぜ。調べた」
胴元は調べたのだろう。この港の人間は、自分の商売に関わる条文だけは法学者より正確に読む。ミミナは受注情報の開示を断り、胴元は肩をすくめて帰っていった。
帰り際の背中を見ながら、彼女は思った。オッズが立つというのは、この港の言葉で「名前が育ちはじめた」という意味だ。ドゥガンにはオッズが立たなかった。立つ前に、線が引かれた。
夕方、彼女は新しい頁を開いた。
艦持ち傭兵の管理台帳。等級、戦果、特記事項。特記事項の欄に、港で呼ばれはじめた通り名を控えておくのが窓口の仕事だった。通り名は、本名より早く広まり、本名より長く残る。死んだ後も、通り名だけは酒場で生き続ける。
彼女はペンを取り、書きかけた。
葬儀屋——
三文字目の途中で、手が止まった。
その名で帳面に載るということが、どういうことか。線を引かれる日まで、いや引かれた後まで、その名で呼ばれるということだ。夫の葬式を挙げてくれる者のいなかった彼女は、葬儀屋という言葉を、酒場の連中より少しだけ重く使う。
ミミナは書きかけの三文字を消した。
消して、本名を書き直した。
——アマノ・ハル。
通り名は、特記事項の欄ではなく、港が勝手に育てるだろう。彼女の帳面の仕事は、名前を正しく書いて、できるだけ長く、線を引かずにおくことだ。
彼女は台帳を閉じ、窓口の灯りを半分落とした。
家に帰ると、彼女は今夜も、棚の写真の前で上着を脱いだ。
写真の夫は、輸送船の舷梯で笑っている。隣に貼ってあるのは第三星系航路の古い航路図の切り抜きで、夫の定期便の航路に、彼女は五年前、ペンで小さな丸をつけた。船が消えた宙域の丸だ。
今夜、彼女はその切り抜きに、もう一つ印をつけた。
丸の隣、航路を一本挟んだ宙域。哨戒型がいた場所。先週まで、七年間ずっと、いた場所。
印は、バツでも丸でもなく、ただの短い横線にした。帳面で名前に引くのと同じ、終わりの線だ。引きながら、自分が誰の終わりに線を引いているのか、彼女はうまく言えなかった。夫を殺した戦争の、小さな一部の終わり。それだけは確かだった。
「……あんたの航路の、隣よ」
写真に向かって、彼女は報告した。九年窓口にいると、報告の習慣だけが身体に残る。夫は笑ったままで、何も言わなかった。死んだ人間は帳面をつけない。つけるのは、残った側の仕事だ。
明日も、誰かが登録に来る。