第021話 帳尻

 初撃破の賞金、その残りは百六十万クレジット。テネブラエ港に戻って一月、その数字は帳簿の上では既に死んでいた。

 外周第七係留区の窓から見える《送り火》は、係留灯の下でただ黒かった。全長二百八十メートルの自律強襲巡洋艦。自律艦を殺すためだけに設計された禁制の艦は、いまは何も殺さず、係留架に繋がれて、月九十万crの飼い葉を食んでいる。動いても金が出ていき、止まっていても金が出ていく。軍艦とはそういう生き物だと、補給畑にいたハルは誰よりよく知っていた。知っていることと、払えることは別の問題だった。

 《送り火》艦長室。ハルは端末に三通の請求書を並べ、上から順に開いた。艦体保険と港湾使用料、月額九十万cr、支払期限は明後日。保険は先月、無保険係留の砂時計が尽きる前に、結局入った。戦闘特約を削って月四十二万——還らず艦との交戦は元から「原則不払い」なのだから、削っても失うものは気休めだけだった。それから燃料・反応材の補給見積もり、六十万cr。操舵手ヴェイン・コルサクの給与、月二十五万cr——雇用時の取り決めは歩合の一割五分だったが、猟の出ない月は実入りがゼロになる計算で、最初の精算のあと、固定給に改めた。歩合のままなら今月のヴェインの給与は文字どおりのゼロで、給与がゼロの操舵手を抱える艦長は、操舵手より先に信用を失う。合計百七十五万cr。

 残高、百六十万cr。差し引き、十五万crの赤字。命を懸けた猟の純益は、一月もたずに尽きる。それがこの稼業の算術だった。

「読み上げは不要ですか、艦長」
 天井のスピーカーからツクモの声が降った。抑揚のない、丁寧語の声。
「いい。三度読んだ」
「では最適解を提示します。操舵手の雇用契約を解除してください。月二十五万crの固定費が消滅し、収支は改善します」
「却下だ」
「次善案を提示します。艦体保険を解約してください。月四十二万crの支出が消滅します」
「却下だ。次に外殻が裂けたとき、修理費でこの艦ごと沈む」
「第三案。中枢杭の在庫一本を売却してください。闇市場での想定売価、百八十万cr。当面の支払いはすべて——」
「却下だ。次の猟で死ぬ」
「三案とも却下を記録しました」ツクモの声は、一度も温度を変えなかった。「では現状を整理します。本艦は三十二日以内に、最低百八十万crの収入を必要とします。艦長、ご決断を」

 決断しろと言われても、決断の材料がなかった。それが問題の本体だった。

 ハルは端末の画面を切り替えた。朝の習慣で、外縁回廊の航行情報と事故記録に目を通す。第五星系で輸送船が消息不明、原因調査中。第二星系の旧戦場跡で、サルベージ船が還らず艦と思しき艦影に追尾され、退避。先月の還らず艦による死者、公式集計で九名。

 九、という数字を、彼は誰にも見せない私的な帳簿の頁に書き足した。七年続けてきた手の動きは、考えるより先に終わっている。書き終えてから、いつもと同じ薄い吐き気がきて、いつもと同じように、それを朝の仕事の続きで上書きした。九人の名前は記事に載っていなかった。載っていれば書いたのか、書けたのかは、七年続けても答えの出ない問いだった。

 午前のうちに、ハルは傭兵ギルドのテネブラエ支部へ歩いた。難民区画の脇を抜ける連絡通路には、今日も日雇いの列ができている。日給四千cr。並んでいる顔の半分は、七年前まで軍服を着ていた年格好だった。列の先頭で、荷役主任が今日の採用数を読み上げ、数に入らなかった男たちが声もなく散っていく。誰もハルを見なかったし、ハルも長くは見なかった。

 ギルドの掲示板に、出物はなかった。還らず艦の賞金案件は中型が一件だけ。賞金千百万cr、推奨等級第三級以上、推奨戦力は複数艦。登録一月余りの第五級には、応募資格の段階で届かない。残っているのは貨物護衛、債権回収、行方不明者の捜索。どれも《送り火》の図体では、受けるだけで燃料代の赤字になる仕事ばかりだった。

 支部の酒場側から、昼前だというのに低い喧噪が流れてくる。仕事のない傭兵は飲むしかなく、飲む金のない傭兵は安い卓を囲んで時間を潰すしかない。卓のひとつから視線がいくつか、ハルの背中を測って、離れた。単艦で還らず艦を獲った第五級。噂はもう、本人より先に港を歩いている。

「賞金案件は、いまは無いわ」
 受付のミミナが帳面から顔も上げずに言った。
「中型が一件、出ているように見えるが」
「あなたの等級では受けられない案件は、無いのと同じ。規則は変えられない」彼女はそこで顔を上げた。「等級は実績でしか上がらない。実績は案件がないと積めない。案件は等級がないと回らない。——この稼業で一番よくできた罠よ。みんなここで干上がるか、無茶をして死ぬかするの」

 それから思い出したように、一枚の通知を窓口に滑らせてくる。

「保安機構から照会。分署に顔を出して、ですって。——心当たりは?」
「ない」
「そう。じゃあ、向こうにはあるのね」
 彼女は帳面に戻った。窓口の脇の壁には、今期の死亡傭兵の告知が三枚、事務的に貼られていた。三枚とも、葬儀屋稼業だった。一番新しい一枚の登録日は、ハルの三日後だった。

 保安機構テネブラエ分署。分署長室の机の上には、決裁待ちの書類が三十センチの塔を作っていた。エルデ・カンプは塔の中ほどから正確に一束を抜き出し、ハルの前に置いた。

「請負契約だ。外縁航路第三検問宙域の哨戒と臨検、三十日。百二十万cr」
「賞金稼ぎの仕事じゃないな」
「交通整理だ。正規職員を出すより安い。それだけの話だ」

 ハルは契約書を捲った。検問座標、停船命令権限の委任、臨検手順、武器使用は航路保全に必要な最小限、日次報告の様式番号まで几帳面に指定されている。役所の文書だった。役所の文書は、嫌いではない。書いてあることしか要求してこないからだ。

「人手が足りん」とカンプは言った。「中央は予算を削る。難民は日に何十人も流れ込む。検問に割ける巡視艇は二隻。それで管轄は〇・三光年だ。先月は検問の穴を抜けた武器が、第四星系の入植地で三人殺した」
「俺の艦で穴が塞がるのか」
「塞がらん。だが穴は小さくなる。役所の仕事というのはな、塞ぐことじゃない。小さくしたと報告書に書けることだ」

 カンプは決裁印を弄びながら、付け足すともなく言った。

「ひとつ、耳に入れておく。緋蓮団がデブリ帯の縄張りで妙な触れを回している。——黒い艦に手を出すな、とな。あんたの艦は商売敵に覚えられたらしい。検問に立つなら、顔はもっと売れるぞ」
「構わない。顔が売れて困る商売じゃない」
「素性が売れて困る商売だろう、あんたのは」

 ハルは答えなかった。カンプも答えを待たなかった。役人の言葉には二つの層がある。書類に残る層と、残らない層。いまのは残らない層の言葉で、残らない層の言葉は、警告であると同時に、目をつぶり続けるという表明でもあった。どちらの層も、署名を求めてはこない。

 艦の素性そのものには、今日も触れなかった。この男は善意で目をつぶるのではない。分署の帳簿が、目をつぶる値打ちを認めているだけだ。値打ちが消えれば、引き出しのどこかから別の書類が出てくる。それだけの関係だった。それだけの関係は、たぶん信用よりも長持ちする。

「受ける」
「だろうな。署名はそこだ」

 帰艦して契約データを共有すると、ツクモは三秒で全文を読み終えた。

「第十七条を指摘します。『本契約の履行実績は、保安機構準指定業者の推薦審査における評価対象となる』。——準指定業者は保安機構案件を直接契約できます。ギルド手数料一五%が消滅し、出動要請の単価も上がります」
「読んだ」
「では本契約は、額面以上の価値を持ちます。三十日の拘束と引き換えに、流通経路を一本買う取引です。妥当な判断です、艦長」
「褒められると不安になるな」
「褒めていません。事実を述べました」

 操舵室では、ヴェインが無言で航路図を引き直していた。検問位置、哨戒円、緊急時の退避ベクトル、燃料消費が最小になる滞留軌道。元駆逐艦長の手つきは、交通整理の仕事にも手を抜かなかった。

「……検問か」
「三十日だ」
「……了解」
 それだけだった。今日は、酒の匂いはしなかった。

 敵だった連合の検問業務を、同盟の敗残兵が黙って引き受ける。その沈黙に何が詰まっているのかを、ハルは訊かない。訊かないことが、いまのところこの艦で唯一うまく回っている取り決めだった。

 代わりに、訊かれる前に言っておくべきことを言った。

「給与の支払いが、十日遅れる。契約金の入金待ちだ」
「……構わん」
「利息はつけられない。詫びだけだ」
「……艦が沈まんのなら、それでいい」
 ヴェインは航路図から目を離さずに言った。給与が遅れると告げられて、艦の心配を先にする。失う順番を知っている男の返事だった。艦が先に死に、金が死に、人が最後に死ぬ。彼はその順番を、たぶん一度、最後まで見ている。

「ひとつ確認する」と、ヴェインが珍しく自分から続けた。「検問で……同盟の船が引っかかったら、どうする」
「同盟の船も連合の船も、手順は同じだ。書類どおりに調べて、書類どおりに通す。通せないものは、通せないと書く」
「……書類どおり、か」
「それ以外のやり方を、俺は知らない」
 ヴェインは小さく顎を引いた。了解とも、諦めともつかない動きだった。

 強襲巡洋艦に検問をやらせる。身内を狩るために造られた艦が、貨物船の積荷目録を照合して回る。ツクモがこの配置をどう演算しているのかをハルは想像し、想像するのをやめた。仕事は仕事だ。罪の利息は、支払いを待ってくれない。

 夕刻、補給の手配を済ませ——六十万crが口座から消え、残高は十万crになった——ハルは港の中央通路を歩いた。戦没者の名を刻んだ壁が、照明を半分落とした通路の奥まで続いている。壁の前に、花の代わりに機械油の小缶を置いていく老人がいた。整備兵の流儀だ。誰の名の前に置いたのかは、見なかった。見れば、名前を読んでしまう。読んだ名前は、帳簿と同じで、忘れる方法がない。

 終戦から七年。中央星系は復興景気に沸いていると、ニュースは今日も言っている。この港で終わった顔をしている者を、ハルはまだ一人も見たことがなかった。

 係留区に戻ったとき、端末が受信音を立てた。保安機構からの最初の任務指定。臨検対象の優先リストが、様式どおりの素っ気なさで並んでいる。

 その先頭に、こうあった。

 ——優先度一。無国籍難民船。入港許可、全港湾において発行記録なし。発見次第、停船させ指示を仰げ。

 賞金首より先に、追い払うべき人間のリストが来た。ハルは端末を伏せ、しばらくの間、暗い天井を見ていた。