第023話 通せない船
無国籍難民船《アルカ》、推定乗船人数七百四十名。停船信号に、船はすぐ応じた。逃げる燃料が、もう無いのだ。
光学映像に映るそれは、船というより漂流する集合住宅だった。旧同盟領の入植地連絡船——本来は星系内を二百四十人乗せて往復するだけの船体に、外付けの居住モジュールが三つ、溶接で継ぎ足されている。船殻のあちこちに応急修理のパッチが重なり、放熱板は半分が変色していた。継ぎ目の溶接痕は素人仕事と玄人仕事が入り混じり、この船が止まった港々で、その都度できる者ができることをしてきた七年が、外殻にそのまま地層になっていた。
拡大映像の隅、居住モジュールの小さな舷窓に、いくつも顔が並んでいるのが見えた。子供の顔が多かった。検問の艦を見ている。黒い軍艦を、怯えとも好奇ともつかない目で。ハルは拡大率を戻した。
「生命維持系の解析を完了しました」とツクモが言った。「酸素再生能力は定格の一三〇%で連続稼働中。設計寿命を超過しています。水の再生率から逆算して、衛生状態は劣悪。船体の構造疲労は限界域です」
「あとどれだけもつ」
「環境系の全損まで、最良で九十日。途中で部品がひとつ欠ければ、その日が最終日です」
「九十日の根拠は」
「希望的観測を排除した場合の上限値です。下限は提示しますか」
「いい」
通信が開いた。映像は粗く、相手の顔は影の中にあった。低い、嗄れた女の声だった。
「《アルカ》船長だ。積荷はない。武器もない。あるのは人間だけだ」
「保安機構の委託で臨検業務に当たっている。乗船人数と目的地を」
「七百四十一。昨夜ひとり生まれた」女は言った。「目的地は、受け入れる港だ。どこでもいい」
ハルは手元の記録を見た。《アルカ》のテネブラエ港への入港申請は、過去四月で三度。三度とも、受け入れ枠超過を理由に却下されている。難民区画は既に定員の倍を抱え、港湾当局は無国籍船の係留を認めない。第二星系も、第四星系も、回答は同じ書式の同じ文面だった。旧同盟領の入植地が崩壊してから、こういう船が外縁回廊に何隻漂っているのか、正確な数字は誰も持っていない。数えると、責任が生まれるからだ。
「乗船しての臨検は」とツクモが言った。「推奨しません。検疫上のリスクと、乗船人数の確定により本艦に保護責任の論点が発生します。確認は遠隔で充分です」
「……保護責任の論点、か」
「数えた者が、責任を問われます。行政の構造上の仕様です」
数えるな、と艦のAIが言い、それが行政の正解だった。ハルは遠隔の確認で手続きを進めた。
指示待ちの四時間、二隻は互いの光学距離で漂った。撃つためだけに造られた黒い艦と、運ぶことしかできない満員の船。《アルカ》は燃料を惜しんで姿勢制御すら最小限にし、ゆっくりと自転していた。回るたびに、舷窓の顔ぶれが入れ替わった。
三時間目に、《アルカ》から短い通信が入った。
「臨検官に頼みがある」と老船長は言った。「昨夜生まれた子の出生を、記録してくれんか」
「……出生登録は港湾当局の管轄だ。臨検記録は戸籍にならない」
「知っとる。無国籍の船で生まれた子は、どの港の帳簿にも載らん。親が死ねば、生まれた日を知る者もおらんようになる」女の声は事務的なままだった。「あんたの報告書は、保安機構の公文書じゃろう。隅でいい。日時と、母親の名と、女の子だということ。公の紙に一行あれば、いつか何かの役に立つかもしれん」
ハルは臨検記録の特記事項欄——四時間後に「特記事項なし」と書くことになる、その同じ欄の下の備考に、日時と船名と、生まれた子の性別を記載した。母親の名は記録した上で開示制限をかけた。無国籍者の名は、保護にも追跡にも使われうる。どちらに使われるかを、書く側は選べない。選べないなら、鍵だけかけておくのが手続きの作法だった。
「記録した。公文書番号を送る」
「……律儀な男だ」と女は言った。礼の言葉は、それが一番近かった。
保安機構からの指示は、四時間後に届いた。様式どおりの、短い文面だった。
——当該船舶の入港は認められない。航路外へ誘導せよ。
航路外へ誘導せよ。つまり、航路の安全に支障のない場所へ追い払え。その先でどうなるかは、指示書のどの欄にも書かれていない。書かれていないことは、存在しないことになっている。役所の文書は書いてあることしか要求してこない——二日前、ハルはそれを美点として数えた。数えたことを、いまは思い出したくなかった。
「誘導座標の算出を完了しています」とツクモが言った。「航路から〇・〇二光年外側の空域。航行船舶の接近確率、実質ゼロ。指示の要件を完全に満たします」
「……何もない場所だな」
「何もないことが要件です、艦長」
ハルは通信を開いた。事実を、事実の順番で伝えた。入港は認められない。航路外への退去を求める。指定座標を送る。退去後の航行の自由は妨げない——妨げないという言葉が、この文脈で何の足しになるのかは、言いながら自分でもわからなかった。
老いた船長は、抗議をしなかった。嘆願もしなかった。沈黙は数秒で、それは怒りの沈黙ではなく、予定表を確認する者の沈黙だった。
「了解した。座標を送れ」
「……抗議は、記録に残せる。残したければ」
「残してどうなる」女の声に、初めてかすかな起伏が乗った。笑ったのかもしれなかった。「七年で、抗議は四百回を超えた。記録は全部残っとる。残った記録を、誰が読む」
ハルは座標を送信した。《アルカ》の姿勢制御スラスタが弱々しく吹いて、船首が、何もない方角へゆっくり回っていく。
「あんたの声は若いな」と、ふいに女が言った。「戦争には出たか」
「……出た」
「そうか。なら知ってるな。命令ってのは、出す側より、届ける側の顔をして来るんだ」
女はそれ以上何も言わず、通信を切った。
《送り火》のブリッジは静かだった。ヴェインは操舵席で、遠ざかる《アルカ》の航跡をメイン画面に表示させたまま、消そうとしなかった。彼の母港があった星系の名を、ハルは雇用記録で読んだことがある。入植地崩壊のリストの、上から三番目にあった名前だ。あの船の乗客名簿に——名簿があるとすればだが——彼の知った名があるのかどうか、ハルは訊かなかった。訊いて、あった場合に、この艦にできることは何もなかった。
ハルは誘導完了の報告書を作成し、様式番号を確かめ、送信した。所要四時間十二分、対象船舶は指示に従い退去、抵抗なし、特記事項なし。書類の上で、業務はこれで終わっていた。特記事項なし。七百四十一人が何もない空域へ向かったことは、特記すべき事項の定義に含まれていない。
終わってから、ハルは言った。
「ツクモ。燃料区画の予備反応材、現在量は」
「定格予備の一一〇%。前回補給時に余剰を積んでいます」
「一〇%——四十万cr相当を切り離す。コンテナに詰めて、《アルカ》の針路に流せ」
「契約外支出です」ツクモの声は、一ミリも動かなかった。「回収見込み、ゼロ。本艦の財務状況において、四十万crは流動資産の大半に相当します。再考を推奨します」
「しない」
「理由の記録を求めます。本艦の航行記録は監査対象です」
「……『航路保全』と書いておけ。漂流船が燃料切れで航路に流れ戻れば、排除にも残骸処理にも保安機構の金がかかる。動ける状態で遠ざける方が安い」
三秒の沈黙があった。ツクモにしては、長い沈黙だった。
「記録しました。論理は成立しています。——成立させるために構築された論理ですが」
「知っている」とハルは言った。
「補足します。同種の判断が反復された場合、本艦の収支は四月以内に破綻します。本件を先例としないでください」
「善処する」
「善処は、確率の言葉ではありません」
「知っている」
コンテナの切り離し作業は二十分で終わった。《アルカ》は減速し、それを拾った。通信は一度だけ開いて、女の声が短く言った。
「借りにしておく。返せる日は来ないが」
「期限は設定していない」
「……名は聞かない。そっちも聞くな」
通信が切れた。《アルカ》は再び加速し——加速と呼べるかも怪しい微かな噴射で——指定された何もない空域へ、定員の三倍の人間を乗せて進んでいった。舷窓の顔は、もう見えない距離だった。
七年前、ハルは届くはずだった言葉を届けられなかった。数百隻が、いまも宇宙のどこかでその言葉を待っている。今日、彼は届けるべきでない言葉を、一語も間違えずに正確に届けた。どちらも仕事と呼ばれ、どちらも報告書の様式が用意されている。様式に欄がないのは、届けた人間がその夜どんな顔で天井を見るか、それだけだった。
当直を交代したヴェインが、食堂区画で酒瓶を出すのが見えた。コップに注ぎ、男は長いことそれを見ていた。飲むところを、ハルは見なかった。通り過ぎてしばらくして戻ると、コップは注がれたまま卓に残り、ヴェインはいなかった。飲んで忘れられる種類の一日と、飲んでも無駄だとわかる種類の一日があるのだろう。ハルは中身を流しに空け、コップを洗って伏せた。
その夜、ハルは自分の端末に《アルカ》の航跡データを呼び出した。船速、針路、残存燃料と、譲渡した四十万cr分の反応材を加味した漂流予測。三十日後、六十日後、九十日後——船がどの空域にいるか。誰に頼まれたわけでもなく、業務のどの様式にも該当しない計算を、彼は最後まで走らせ、結果を私的領域に保存した。
保存して、何になるのかは考えなかった。考えると、何にもならないことがわかってしまうからだった。