第030話 閑話・採算表

 深夜の保安機構テネブラエ分署に、灯りは二つしか残っていない。当直室と、分署長室。エルデ・カンプは三杯目の代用カフェインを飲み干し、机の上の一枚の表に戻った。

 正義は、この机の上に置いたことがない。置いてあるのは採算表だ。

 還らず艦一隻に対する正規艦隊の出動費用。試算は何度やっても同じ数字を返してくる。フリゲート三隻と支援艦一隻の戦隊規模で、燃料・弾薬・人件費・保険、合計約一億二千万cr。所要三週間。人的損耗リスクは「許容範囲内」と注記されるが、許容するのは中央の文書であって、死ぬのは外縁の人間だ。そして中央が外縁の治安に割り当てた今期予算は、その出動二回分に満たない。

 同じ表の下段に、もう一つの数字がある。同種の標的一隻、賞金四百二十万cr。所要十一日。保安機構側の損耗、ゼロ。支出項目は賞金と、書類の余白に目をつぶる良心だけ——良心は予算科目に存在しないので、計上は不要だった。

 二十八倍。それが採算表の結論だった。決裁は、いつも数字が下す。カンプは署名欄にペンを置き、《送り火》の準指定業者推薦書に、いつもの角張った字で署名した。

 署名しながら、彼は机の最下段の引き出しのことを考えた。

 引き出しの中には、未処理の報告書が一通入っている。二月半前、検査課の若い職員が几帳面に上げてきた文書だ。表題、「テネブラエ港に係留中の回航艦に関する技術所見」。本文の要旨、当該艦の応答系に民生AIの規格を超える処理特性が認められ、禁制自律中枢——TYPE-9系——の所在の疑いを排除できない。

 処理する方法は知っている。上に回せば、中央から査察団が来て、艦は接収され、艦長は重罪で起訴され、検挙の手柄がひとつ、分署の統計に載る。そして外縁回廊の還らず艦は、今後も年に十数人ずつ人を殺し続け、分署はそれを一億二千万crの出動要請書と一緒に眺めることになる。

 カンプは今夜も、引き出しを開けなかった。

 扉が鳴って、当直士官が報告書の束を持って入ってきた。三十日分の哨戒・臨検業務の完了報告。臨検百十六隻、検挙四件。うち一件は制式小銃四十挺の押収で、流通先の推定は緋蓮団の末端だった。検問宙域の事故率は前月比で二割下がり、採掘組合からは第七採掘航路の航行警報解除を歓迎する文書が届いている。DP-09の撃破認定書の写しが、その下に綴じられていた。

「数字だけ見れば、優良業者ですね」と当直士官は言った。まだ三十前の、中央の士官学校上がりだ。「数字だけ見れば、ですが」
「数字以外に何を見る気だ」
「……あの艦、本当に信用するんですか」

 カンプは推薦書を決裁箱に落とした。

「信用? するわけがない」

 若い士官が瞬きをした。カンプは表の数字を指で叩いた。

「運用するんだ。猟犬に首輪の出自は聞かん。聞くのは、猟果と、躾だけだ」
「躾、ですか」
「臨検百十六件、苦情ゼロ。発砲報告ゼロ。難民船一隻を規定どおり航路外へ誘導して、規定外のことは何も報告に書いてこない」カンプは椅子の背に体を預けた。「ああいう書類を書く男は、二種類いる。何も考えていないか、全部考えた上で書類に残さないかだ。どちらでも構わん。書類が綺麗なら、こちらは守ってやれる」

 完了報告の束の中に、一枚だけ、カンプが二度読んだ書類があった。
 無国籍難民船《アルカ》の誘導報告。所要四時間十二分、対象は指示に従い退去、抵抗なし、特記事項なし。完璧に様式どおりの報告書だった。様式どおりでなかったのは、添付された当該艦の航行ログの方だ。誘導完了の四十分後、《送り火》の燃料区画の質量が四十万cr相当、減っている。同時刻、貨物コンテナの切り離し記録が一件。報告書の該当欄には「航路保全措置」とだけあった。
 漂流船が燃料切れで航路に戻れば、排除にも残骸処理にも金がかかる。動ける状態で遠ざける方が安い——理屈は立っている。立っているが、この理屈は支出の後から建てられた家だ。カンプは三十年役人をやっている。後から建てた理屈の柱の細さは、見ればわかる。
 彼はその頁を、検収済みの束に戻した。監査が読んでも、数字は合っている。数字が合っている書類を掘り返す制度を、幸い保安機構は持っていない。
「……四十万で買えるなら、安いもんだ」
 何を買ったのかは、声に出さなかった。出せば備考欄に書く羽目になる。

 士官が下がってから、カンプは窓に寄った。

 分署の窓からは、外周係留区——職員が「係留墓地」と呼ぶ、解体待ちと差し押さえの船が並ぶ一角——の方角が見える。その端に、ひときわ黒い艦影があった。係留灯の光を吸い込んで、輪郭だけがかろうじて艦の形をしている。港の連中はあれを「葬儀屋の艦」と呼び始めていた。悪名は、検挙統計より速く育つ。

 葬儀屋。カンプはその呼び名の損益を、頭の中の別の表で弾いた。

 益の側。悪名は抑止力だ。あの黒い艦影が検問に浮かんでいるだけで、密輸屋は航路を変え、海賊の末端は仕事を選ぶようになった。費用ゼロの治安装置。分署の予算書には決して載らない資産だった。

 損の側。悪名は耳を集める。緋蓮団は既にあの艦の存在を知っている。浄火教団の巡回士が、港の酒場で「枷なきAI」の噂を拾い歩いているという報告も上がってきた。教団があの艦の素性に教義上の興味を持てば、分署の黙認は黙認のままでいられなくなる。中央の監査が入れば、なおさらだ。膨らみ続ける名前は、いつか必ず、誰かの文書に載る。

 その日が来たらどうするかを、カンプは決めていなかった。決めないでおく、ということを決めていた。役人を三十年やると、決めないという技術だけは中央の連中より上手くなる。

 机に戻り、彼は採算表の決裁欄に判を押した。判を押す直前、毎回かならず一度だけ自分に問う質問を、今夜も問うた。——これは正しいか? 知るか、というのが三十年来の答えだった。正しさは中央の予算と一緒で、外縁に届く頃には薄まって使い物にならない。届くのは数字だけだ。だから数字で決める。

 七年前、終戦の夜に外縁の中継網が黙ったときも、決めたのは数字だったのだろう、とカンプはときどき思う。あの事件の調書を、彼は保安機構の端末で二度読んだことがある。処分された下士官の名が、いま彼の決裁箱にある推薦書の申請者名と同じであることに、彼はとうに気づいていた。気づいたことは、どの書類にも書いていない。

「公式には、聞かなかったことにする」

 誰もいない執務室で、カンプは声に出してそう言った。それが今夜も、彼の結論だった。

 退庁の前、彼は採算表のファイルをもう一度開き、末尾の備考欄にカーソルを置いた。備考欄は監査の読む欄だ。役人の言葉で、役人に向けて、本音を一行だけ埋葬しておく欄でもある。

 カンプは打ち込んだ。

 ——※当該業者への依存度、上昇傾向。代替手段なし。

 退庁の通路は、中央埠頭の戦没者の壁の前を通る。
 三十年この港にいるカンプは、壁の名前の何割かを生前の顔で覚えている。覚えているから、立ち止まらない。立ち止まれば朝までかかる。彼の足は壁の前で速くも遅くもならず、役人の歩幅のまま通り過ぎた。
 立ち止まる役目は、と彼は思う。たぶん別の誰かに外注した。一隻ずつ墓を開けて、中身を確かめて回る、あの黒い艦の男に。委託契約書はどこにも存在しないが、発注したのが自分の判であることくらいは、自覚している。
 代用カフェインの空き缶を当直室の回収箱に落とし、分署長は家路についた。外縁の夜は長い。長い夜の治安は、今夜も数字で保たれていた。