第039話 勝ち方の値段
嘘の建造には、二時間かかった。
囮歌が歌うのは、存在しない巡視戦隊三隻の縫航反応と、その到着前通信だった。問題は、緋蓮団の電子戦手──艦隊出の腕だ──に検波されないことだった。並の偽装信号なら、見抜かれる。見抜かれた嘘は、《アルカ》の船殻に穴を開ける引き金になる。
「本物らしさの裏付けに、KC-118から回収した正規中継プロトコルを使用します」とツクモが言った。「保安機構の通信は外縁の中継網を経由します。中継網の署名様式は、中継艦の記録にあるものと同系です。──死んだ中継艦の作法で、生きている艦隊の声を歌います」
死者から借りた作法で、嘘を本物に化けさせる。
ハルは頷いた。頷く役目が、艦長の仕事だった。引き受ける、という形式で、責任の置き場所を確定させる。
「歌え」
囮歌が、歌い始めた。
最初は、遠い縫航ゲートの通過記録。次に、保安機構の周波数に乗った定型の進発通達。戦隊司令の識別符丁、随伴艦の位置報告、到着予定時刻──四時間後。すべての信号が、正規の中継署名をまとって、正規の方角から流れた。
四十一時間の絶望が、四時間の期限に化けた。
緋蓮団の陣形が、揺れた。
「敵旗艦、通信活発化。分隊内の交信量が三倍に増加──割れます」
海賊の算術は単純だ。四時間後に戦隊が来るなら、積み荷を抱えて逃げる時間は今しかない。盾の有効期限も四時間で切れる。人質は、買い手のいる商品ではないのだ。
二隻が、離脱に入った。穀物船から剥ぎ取った積荷ごと、縫航充填へ。
旗艦だけが、残った。
「旗艦、係留索の爆破切り離しシーケンス」とツクモが言った。「──切り離し点が近すぎます。《アルカ》の船殻直上で爆破します」
「やめさせろ、警告──」
遅かった。
爆破光が二つ、《アルカ》の船体中央で瞬いた。索は外れた。外れた反動と爆圧が、老朽船殻の限界を超えた。後部居住モジュールの接合部が、音もなく──宇宙ではすべてが音もなく──裂けた。
「《アルカ》後部区画、破断。減圧進行中。緊急隔壁の降下まで──十九秒」
十九秒。
光学画面の中で、裂け目から細かいものが宙に流れ出すのが見えた。細かいものが何であるかを、ハルの目は理解を拒み、理解した。
隔壁が落ちた。
流出が、止まった。
「《アルカ》より被害報告。後部区画の喪失。……人的被害、集計中です」
ツクモの音声が、〇・五秒、乱れた。乱れたことに、ハル以外の誰も気づかなかった。
旗艦は、離脱の加速に入っていた。
ヴェインは命令を待たなかった。《送り火》は最短の追撃線に乗っていた──命令より先に、舵がそこにあった。ハルも止めなかった。
「降伏勧告を送れ」
「送信。……応答なし。敵旗艦、縫航充填継続」
「機関を焼け」
光条が、旗艦の機関区を正確に焼いた。充填が死に、推進が死に、それでも旗艦は残った姿勢制御で艦首を回し──最後に残った武装で、最も近い穀物船に照準した。
道連れの構図だった。
「撃沈しろ」
ハルは言った。言葉は短く、決断の重さは短さに比例しなかった。
質量砲が、旗艦を二つに割った。
乗員九名。応答のなかった九名。おそらく、全員が元同盟兵。接舷強襲の古株と、その部下たち。正確さだけが残って、使い道が腐って、最後は腐った使い道と一緒に割れた。
ヴェインは舵を握ったまま、最後まで、一言も発しなかった。
戦闘終了から増援到着までの三十九時間、《送り火》は現場に留まった。
穀物船団の応急、《アルカ》の隔壁補強、負傷者の移送。ナナオは《アルカ》に渡ったきり、三十時間戻らなかった。戻ってきた老人は医療鞄を通路に置き、手を三度洗い、それから初めて口を開いた。
「重傷十一。うち三人は、まあ、保つ。残りは保たせた。──減圧で逝った三十一人は、わしの出る幕がなかった」
「あんたのせいじゃない」
「知っとる。せい、の話はしとらん」老人は四度目の手洗いを始めた。「出る幕、の話をしとる。医者はな、間に合わんかった現場の数を数えるんじゃ。あんたの帳簿と同じよ」
手を拭いた老人は、医務室へ向かいかけて、一度だけ止まった。
「……生後二月の嬢ちゃんは、無事じゃった。肺も、耳も。減圧の影響なしじゃ」
それだけ言って、行った。誰が訊いたわけでもなかった。訊けずにいた者が一人いることを、診察した者だけが知っていた。
ヴェインが口を開いたのは、増援到着の二時間前だった。三十七時間、舵を握ったまま一言も発しなかった男は、交代要員のいない操舵席で、前を向いたまま言った。
「……艦長。あの旗艦の九人な」
「ああ」
「降伏勧告に、応答せんかったのは──応答できんかったんだ、たぶん。あの手の古株は、投降すれば戦犯審査に直行する。審査の先は、わかっとるからな」
それきり、彼はまた黙った。撃たれて死ぬか、裁かれて死ぬか。選択肢が二つとも死である人間を、この回廊は今日も製造し続けている。ヴェイン自身が、その製造ラインから一人だけ拾われた男だった。拾われなかった九人の側を、彼は三十七時間、黙って数えていたのだ。
《アルカ》の死者は、三十一名だった。
ハルは名簿を作った。船側の記録は不完全で、半数には登録名がなかった。名のない者は、船内で呼ばれていた呼び名と、隔壁番号で記すしかなかった。C区画の鋳掛け屋。第三隔壁の婆。名簿はそういう行で埋まり、最後の行で、ハルの手が止まった。
乳児、女児、生後約二月。母親生存。
四月前、彼が公文書の備考欄に出生を記録した子だった。死者欄ではなかった。母親の腕の中で、生きていた。生きていることが、三十一の死の隣で、何かの赦しになるのかならないのか、ハルにはわからなかった。わからないまま、名簿の写しを老船長に渡した。
老女は名簿を受け取り、一行ずつ全部読み、それから言った。
「……あんたか。あの夜の臨検官は」
「ああ」
「燃料の借りは、まだ返せん。今度は名簿の借りができた」女は名簿を胸元に収めた。「借りを数える相手がおるうちは、船は沈まんもんじゃ」
保安機構の記録上、本件は「人質救出成功、損耗軽微」の成功案件として処理された。
損耗軽微。三十一名は、保安機構の帳簿では軽微だった。出動料一百五十万crと船団側の謝礼、撃沈報奨が入金され、《アルカ》の隔壁修理と生命維持部品の代金──請求先のない四百五十万cr──と、換装を決めた中古冷却機の代金二百八十万を引いて、残高は約七百万crに落ち着いた。
「契約外支出の累計が、本年度で四百九十万crに達しました」とツクモが言った。「先例としないでください、と申し上げた記録があります」
「善処すると答えた記録もあるはずだ」
「善処は、確率の言葉ではありません。──ですが」
ツクモは、そこで珍しく文を継いだ。
「《アルカ》の生命維持系の延命は、本件死者数の将来増加を抑制します。支出の分類を、慈善から損害抑制に変更しました。帳簿上の据わりが、改善されます」
彼女なりの何かなのだろう、とハルは思った。分類の変更という形でしか出力できない、彼女なりの何かだ。
最後に、ツクモは「集積仮説」のファイルを開き、今章の観測を追記した。
──斥候の回診。受領通知。残骸の生死判定、十一件の「生存」。
追記の末尾は、こう結ばれていた。
──何かが、数を揃え始めています。
葬儀屋は勝った。
港へ戻る艦内は、葬式のように静かだった。