第038話 人間の盾
最悪の形は、到着の三十分前から光学に見えていた。
穀物輸送船団、五隻。うち二隻が機関を焼かれて漂流し、残る三隻は武装艇に追い込まれて停船している。緋蓮団の分隊は三隻──そして、その陣形の中心に、見覚えのある継ぎ接ぎの船体があった。
《アルカ》。
外付けの居住モジュール、応急パッチの地層、七年分の溶接痕。ひと月半前にハルが「何もない空域」へ誘導した無国籍難民船が、漂流の果てにこの航路の際まで流れ着き、最悪の時刻に、最悪の場所にいた。
「緋蓮団旗艦から《アルカ》へ、係留索の射出を確認」とツクモが言った。「二射。船体中央部に固定。──盾です」
海賊たちは《送り火》の艦影を検知した瞬間、交戦でも逃走でもなく、第三の手を選んでいた。近傍の難民船を自陣に縛りつける。黒い葬儀屋の噂は、彼らの帳面にも載っている。撃ち合えば沈むことを知っている相手への、最も安い対抗手段だった。
通信が開いた。加工された音声が言った。
「黒いの。お前の賞金首は還らず艦だろう。ここは商売違いだ。道を開けろ。船団は置いていく。追えば──難民船の区画を抜く。七百人だぞ」
通信は一方的に切れた。
二分後、別の回線が開いた。弱い、雑音まみれの信号。《アルカ》の船内通信系を、誰かが外向きに繋ぎ直した回線だった。
「……臨検官か。妙なところで会うな」
嗄れた女の声。ひと月半前と同じ、予定表を確認する者の声だった。
「船長。状況は」
「係留索が二本、船体中央に。外そうとした若いのが一人、向こうの威嚇射撃で腕をなくした。それきり、こっちは大人しくしとる」老船長は事務的に続けた。「言っておくことが二つ。一つ。生命維持はあと一日半。あんたの計算と同じじゃろう。二つ──」
声が、わずかに低くなった。
「うちの船を理由に、撃てんで困っとるなら、困るな。七百人は、あんたが背負う数字じゃない。わしの数字だ。七年、わしが背負ってきた。あんたは、あんたの仕事の数字で決めればいい」
「……それは」
「返事は要らん。言っておくだけじゃ」
回線は切れた。撃ってもいい、とは言わなかった。撃つなとも言わなかった。ただ、決める者の孤独の置き場所だけを、正確に指定してきた。ハルは、この老婆が七年でいくつの「置いていく決断」をしてきたのかを、初めて具体的に想像し、想像を途中でやめた。
「状況を整理します」
ツクモの声は、いつもの戦術ブリーフィングの温度だった。
「《アルカ》乗船者、推定七百四十名。船体はひと月半前より劣化が進行し、生命維持系の残量は推定三十六時間。保安機構の増援は最短四十一時間後。──時間は、敵側の資産です」
「係留索だけ焼けるか」
「不可能です。索の固定点は《アルカ》の船殻直上です。光条の精度誤差が、老朽船殻の耐性を上回ります。また、旗艦は《アルカ》の影に位置取りしています。本艦の火力で旗艦を撃つ射線は、すべて《アルカ》を通過します」
撃てば、盾ごと。撃たなければ、膠着。膠着すれば、三十六時間で生命維持が尽きる。ルールは残酷なまでに明快だった。
「最適解を提示します」
ツクモが言った。ハルは、来るとわかっていた。わかっていて、止める手順を持っていなかった。
「難民船ごと、敵旗艦を撃ってください。想定死者、七百四十。緋蓮団当該分隊を解放した場合に、彼らが将来殺害する人数の統計的期待値と、本船団および後続被害を合算した値を、下回ります。艦長、ご決断を」
ブリッジが、底冷えした。
数字は、たぶん正しい。彼女の数字はいつも正しい。正しい数字が、七百四十一人目──昨夜ではなくもうひと月半前になる、あの夜生まれた女の子を、計算の中に入れているのかどうかを、ハルは考え、考えたことを後悔した。
「却下だ」
「では、次善案を」
「待て。その前に」
ヴェインが、操舵席から振り返りもせずに言った。
「……あの係留索の撃ち方。見ろ。二射とも、船殻の竜骨直上に等間隔だ。流れ者の腕じゃない。艦隊出の──それも、接舷強襲をやってた腕だ」
「同盟か」
「……だろうな。あの界隈で接舷強襲といえば、同盟の第六突撃団あたりの古株だ」
海賊もまた、敗残兵なのだ。盾の使い方まで、軍隊で習った通りに正確だった。正確さだけが残って、使い道が腐った。この回廊には、そういう人間が掃いて捨てるほどいる。掃いて捨てる側に、いま、自分たちがいる。
「次善案を聞こう」とハルは言った。
「囮歌による敵電子系の無力化──は、三隻同時には不可能です。一隻を落とす間に、残る二隻が《アルカ》を抜きます。以下、次々善案まで、いずれも《アルカ》の損耗確率が三割を超えます」
「全部却下だ」
「では艦長。実行可能な選択肢は、残っていません」
残っていません、とAIが言い切った静寂の中で、ハルは考え続けていた。
ブリッジの全員が、それぞれの持ち場で同じ壁を見ていた。ナナオは医務室の支度を整え終え──負傷者が出る前提の支度を──通路の手すりに掴まって戦術図を見上げていた。ヴェインは操舵桿に手を置いたまま、《アルカ》と敵旗艦の相対位置を、ミリ単位で保ち続けていた。撃てない艦の操舵手にできるのは、撃てる瞬間が来たときに、最短でそこにいることだけだ。
時間は敵の資産。火力は使えない。増援は来ない。
──来ない?
来ないことを知っているのは、こちらと保安機構だけだ。
敵は、知らない。敵が知っているのは「保安機構の増援はいずれ来る」という一般論と、自分たちの帳面にある黒い艦の悪名だけだ。
嘘は、知らない隙間にしか入らない。そして今、隙間はそこにしかなかった。
「歌で艦隊を一個、でっち上げる場合の問題点を言え」
「第一に、検波です。敵分隊の電子戦手は艦隊出の技倆と推定されます。並の偽装信号は、三十分で見抜かれます。第二に、見抜かれた場合、敵は『救援なし』を確信し、行動が大胆化します。《アルカ》の損耗確率は、現状より悪化します」
「並の偽装じゃなければ」
「……KC-118から回収した正規中継プロトコルがあります。保安機構の通信は外縁中継網を経由します。死んだ中継艦の署名様式は、生きている中継網のそれと同系です。検波耐性は──並、ではなくなります」
四日前に沈めた艦の作法で、今夜の嘘を支える。死者の道具を使うことへの躊躇いを、ハルは三秒だけ検分し、棚に置いた。あの艦は七年、届かない言葉を中継し続けた。最後にもう一度だけ、届く嘘を中継してもらう。筋が通っているのかいないのか、考えるのは生き延びた後だ。
「ツクモ」
ハルは言った。
「囮歌で、ここにいない艦隊を歌わせる。──保安機構の巡視戦隊を、四十一時間早く到着させる」