第041話 五千万の値札
朝の係留ドックは、機械の咳払いに満ちている。
《送り火》の艦長室——元は弾薬管理室だった三畳ほどの区画で、ハルは月初の帳簿を締めていた。残高、約七百万cr。先月、緋蓮団の一件で得た出動料と報奨から、修理費を引いた数字だ。数字だけ見れば、デブリ回収員時代の年収の倍以上が手元にある。
その隣に、出ていく数字が並ぶ。保険と港湾使用料、月九十万。ヴェインの給与二十五万、ナナオの給与三十万に部品調達予算。中古の冷却機は代金を払いおえ、ナナオの三日の作業で載せ替えが済んだ。ステルスの連続秘匿時間は十一分から十五分まで戻った。全快ではない。全快の部品は、もうこの宇宙で作られていない。
中枢杭の在庫は三本。撃つたびに一本ずつ、二百五十万の買い物で埋め戻してきた、この艦の牙の全部だ。大型相手の長期戦に、三本。心許ないが、四本目を買う余力はない。
飼っているだけで月に百五十万が溶ける艦。帳簿は静かに、次の獲物を要求していた。
保安機構分署からの呼び出しは、その帳簿を閉じる前に届いた。
◇
エルデ・カンプの執務室は、いつ来ても書類の山が一段ずつ高くなっている。分署長は挨拶を省き、机越しに端末を一枚、滑らせて寄越した。
「指名依頼だ。準指定業者への第一号になる」
画面には航路図が表示されていた。外縁回廊第二星系。縫航ゲートから主要航路が三本に分かれる屈曲点の周辺に、赤い印が散っている。七年分の、民間船の失踪地点だった。
「七年で十二隻。乗員は名簿の上で七十四名。残骸も出ない、救難信号も出ない、保険金の請求だけが出る。保険屋はあの航路筋を呪いと呼んで、掛金を三倍にした。おかげで真っ当な船はみんな大回りだ。迂回の燃料代で、外縁の物流が年に何億漏れてると思う」
「原因の特定は」
「先月ようやくだ。長距離哨戒の置き去りセンサーが、でかい艦影を一度だけ拾った。大型還らず艦。艦級不明。推進光の特徴から大戦末期の艦。それで起案が通った」
カンプは指を一本立てた。
「賞金五千二百万cr。撃破証明はコアタグ。残骸のサルベージ権付帯。——正規艦隊を出せば一個戦隊と六週間、費用は一億二千万を超える。人死にの危険手当は別枠だ。中央は外縁の航路に戦隊を出す予算を、七年間一度も認めていない。だからお前に回ってくる。それだけの話だ」
正義の話は最初から出ない。出ないことに、ハルはもう慣れていた。掃討は経済合理性で回っている。この男はそれを隠さないぶん、まだ正直な部類だった。
「大型は初めてだろう」
「ああ」
「中型までとは別の生き物だぞ。正面火力も、防空も、図体も。お前の艦のやり口が通じるかどうか、俺は知らん。知らんが——」
カンプは書類の山の上で指を組んだ。
「死ぬなよ。お前が死ぬと、代わりを探す手間で俺の残業が増える」
それがこの男なりの餞別だということも、ハルは知っていた。
席を立ちかけて、ハルは一つだけ条件を出した。
「大戦末期の部隊配置記録と、船団管制の周波数台帳。外縁第二星系方面のものを開示してくれ」
「機密指定の残ってる代物だぞ。何に使う」
「七年待ち続けてる艦を殺すには、七年前にあいつが何を待っていたかを知る必要がある。配置記録なしで大型に挑むのは、図面なしで金庫を開けるのと同じだ」
カンプは天井を仰ぎ、長く息を吐き、それから決裁端末を引き寄せた。
「『作戦上必要な参考資料の貸与』として処理する。指名依頼の特例だ。——複製は禁止だぞ、葬儀屋。機密照会の監査はお前の艦より怖い」
◇
艦に戻ると、ハルは食堂のテーブルに端末を三枚並べた。契約書、星図、そして帳簿。クルーを集めるのに、艦内放送は要らない。この艦の食堂は、四人も座れば満席になる。
「ツクモ。標的の推定艦級を」
「センサーが記録した艦影は全長八百五十から九百五十メートル。推進光の波形は大戦末期の大型艦のものです。あの世代の大型艦に積まれた中枢は、第七世代相当」
スピーカーの声は、いつもどおり平坦だった。
「私と同じ世代の中枢です。賢い獲物です」
「賢いと、何が変わる」
「単純な還らず艦は、最後の命令を一つの音のように繰り返すだけです。賢い中枢は、命令を解釈し続けます。七年分の解釈の果てに何をしているかは、行って見るまで分かりません。予測戦術ライブラリの的中率も、相応に下がります」
「具体的には」
「中型までの標的に対する私の予測的中率は、平均で九割二分でした。本標的に対しては、七割を下回ると見積もります。残りの三割は、艦長。あなたの領分です」
兵站と通信と手続き。戦闘のできない男の知識が、この艦の弾薬の半分だった。ハルは頷き、帳簿に向き直った。数字は感情を挟まずに並んでいく。
燃料と反応材、長期作戦分の積み増しで百八十万。予備部品と応急資材、ナナオの見積もりで二百二十万。保存食と医療品、水の再生フィルタ、六週間分で百五十万。計五百五十万。支出を全部引けば、残高は百五十万を切る。
「受ければ手元は百四十数万。失敗すれば——」
「破産より先に死亡する確率の方が高い、と試算します。葬儀屋稼業の第四級の平均生存期間は」
「言わなくていい」
操舵席から、ヴェインが振り返りもせずに言った。
「……受けるんだろう」
「ああ」
「なら数字はもういい。航路図をくれ」
ナナオは機関区画から上がってきて、テーブルの契約書を逆さまのまま一瞥した。
「六週間の長丁場か。年寄りには応える。循環系の濾材を倍積みにせんとな。——ま、わしの患者は人間だけではないんでな。連れてけ」
「給与は規定どおり出る。死亡保険も」
「縁起でもない話を事務的にするのがあんたのええところじゃ」
◇
その夜、ハルは自分の帳簿を開いた。安物の紙の手帳だ。電子記録は差し押さえられるが、紙は燃やせる。
失踪船の名簿を、一行ずつ書き写していく。船名、登録港、乗員数。鉱石運搬船が五隻、中型貨物船が六隻、小さな旅客船が一隻。十二隻、七十四名。最年少は旅客船の乗客名簿にあった、四歳の子供だった。確認された死者ではない。だから数字は鉛筆で、薄く書いた。濃く書き直す日が来るのか、消しゴムで消せる日が来るのか、まだ誰にも分からない。
手帳の前の頁には、これまでの数字が並んでいる。撃破数4。DP-09が殺した4。KC-118が殺した14。《アルカ》の31。引き算の頁と足し算の頁は、いつも足し算の方が早く埋まる。
七年前の夜、彼が届け損ねた言葉の先に、数百隻がいた。五隻目を沈めても、残りは数百のままに見える。完済はない。それを知った上で払い続けるのが、この稼業だった。
◇
翌日、ハルは傭兵ギルドの窓口に立った。保安機構の指名依頼でも、長期作戦の届け出と保険の更新はギルドを通す。それが第四級の義務だった。
ミミナは書式を三枚重ねて、判を押しながら事務的に言った。
「大型還らず艦への単艦出撃。当支部の記録では、過去に七件。生還は二件」
「確率の話か」
「掛金の話。死亡保険、今回の作戦期間は特別料率で割増になります。クルー三名分で四十一万。——それと、これ」
差し出されたのは、見覚えのない薄い用紙だった。遺言登録の様式。第四級以上の長期作戦では添付が推奨される、と欄外に小さく書いてある。
「推奨であって、義務じゃありません。書かない人も多いけど」
「……預ける。書いたら」
「はい。開封の条件は、ギルド規定どおり。九十日の音信不通で」
ミミナの口調は最後まで変わらなかった。変わらないことが、この窓口の親切なのだろう。彼女がこの書式を、かつて受け取る側として知ったのだということを、ハルは港の噂で聞いたことがあった。確かめたことはない。確かめないのが、この港の礼儀だ。
その夜、ハルは遺言の用紙を端末の灯りの下に広げ、長いあいだ白いままにしておいた。書くべき宛先が、思い当たらなかった。結局、一行だけ書いた——「帳簿は燃やせ。艦はツクモに聞け」。それで足りる人生だということに、感想は持たないことにした。
◇
出撃準備に四日かかった。
杭は三本とも発射筐から一度抜かれ、駆動部の総点検を受けて装填し直された。長期戦の備えで桟橋を行き来する補給資材の量に、港湾作業員は黙って目を見交わしていた。何を狩りに行く艦か、もう港の誰もが知っている。誰も口には出さない。代わりに、作業伝票の備考欄に誰かが書いた走り書きが、ハルの目に入った——「葬儀屋殿。釣り銭は墓場に置いてけ」。筆跡は荒れていたが、悪意の字ではなかった。DP-09の犠牲者の関係者か、ただの野次馬か。確かめる気はなかった。
保存食の箱を担いで通路を往復しながら、ナナオが言った。
「六週間ぶんの飯と、六週間ぶんの薬と、棺桶代わりの医療ポッドが一台。揃いも揃って景気の悪い積み荷じゃな」
「景気のいい積み荷を運ぶ船は、別にある」
「違いない」
ヴェインは出航前夜、一人で艦橋に残り、第二星系の航路図に重ねて旧戦線の座標を呼び出していた。大戦末期、あの宙域は同盟側の撤退路だった。撤退の殿で何個船団が消えたか、操舵手は航路図を見るだけで読めるのだろう。彼が何を確かめていたのかをハルは訊かず、ヴェインも言わなかった。
五日目の朝、《送り火》は桟橋を離れた。
見送りはいない。葬儀屋の出航を見送る習慣は、この港にはない。管制塔が事務的な離港許可を読み上げ、ツクモが事務的に復唱し、黒い艦体は係留墓地の間を縫って加速していった。
「艦長。本航海の損益分岐点を表示しますか」
「いい。——どうせ、分岐点の手前で引き返せる仕事じゃない」
「同意します。では、別の数字を一つだけ。失踪船十二隻の最終交信記録を解析しました。十二隻とも、最後の通信は遭難信号ではありません。航路管制への、定時の位置報告です」
「……つまり」
「全員、何が起きたか分からないまま消えています。悲鳴を上げる時間も与えない何かが、あの屈曲点にいます」
舷窓の外で、テネブラエ港の灯が小さくなる。戦没者の名を刻んだ壁も、難民区画の薄暗がりも、等しく遠ざかっていく。
五千二百万の値札の付いた何かが、二つ先の星系で七年間、船を呑み続けている。
《送り火》は誰にも見送られないまま、縫航ゲートの光の中へ滑り込んだ。