第043話 偽の集結信号
観測四日目。《送り火》の食堂のテーブルは、星図と数字で埋まっていた。
ハルは戦う前に、いつものとおりルールを並べることから始めた。勝ち筋は、彼我の条件を全部並べた後にしか見えてこない。それが見えないうちに動く傭兵から、順に死んでいく。
「彼我の条件を整理する。敵は全長九百メートルの護衛母艦。対空火網は健在、装甲は当艦の主砲では正面から抜けない。護衛子機十四、三層同期の哨戒網に隙間なし。こちらは強襲巡洋艦一、杭三本、撃ち合えば確実に負ける。——ここまでで、正面の選択肢は全部消えた」
「外からミサイルを撃ち込むのは」とナナオが訊いた。本気の提案ではない。検討の漏れを潰すための、医者らしい問診だった。
「無意味です」とツクモが答えた。「対空火網は飽和攻撃を前提に設計されています。当艦の全ミサイルを斉射しても、母艦に届く前に全弾迎撃されます。弾薬費四百万crが、花火代になります」
「遠距離から杭は」
「中枢杭の有効射程は実質ゼロ距離です。あれは砲弾ではなく、押し込む杭です」
「つまり」とハルが引き取った。「懐に入るしかない。網に穴がないなら、開けるしかない。開け方は——敵に自分で開けさせる」
ハルは星図に一点を打った。
「《揺り籠》は七年間、待っている。船団の再集結指令——上位司令部から来るはずだった、集結点の更新命令だ。KC-118と同じ構図だ。待っている言葉があるなら、それを書ける人間がここにいる」
艦橋がわずかに冷えた。先月の猟を、全員が覚えている。帰還命令を罠に使った男が、今度は集結指令を罠に使う。同じ手を二度使う気分がどんなものか、誰も訊かなかった。訊かれても、答えはなかった。
「書式の復元は可能です」とツクモが言った。「大戦末期の船団統制プロトコル、認証鍵列、中継経路証明。艦長の記憶と私のライブラリで補完できます。ただし」
「ただし?」
「相手は賢い中枢です。KC-118は通信中継艦であり、信じたがっていました。《揺り籠》は護衛艦です。護衛艦の中枢は、疑うことを訓練されています。偽の集結指令を一通で送り、即座に艦体ごと動かすのは無理です。検証に失敗すれば、当該艦は通信元——つまり我々の方位を、敵性として警戒します。一度疑われた嘘は、二度と通りません」
「だから一通では送らない」
ハルは星図に、母艦から離れた三つの座標を順に打った。
「段階を踏む。最初に送るのは集結指令じゃない——「集結点候補の先行偵察命令」だ。子機の一部を割いて、候補座標の安全確認をさせる。軍の手順どおりに。本隊を動かす前に斥候を出すのは、護衛艦の中枢にとって一番疑いにくい命令だ。疑り深い相手には、疑り深い奴が安心する順番で嘘を並べる」
「……網から子機を引き抜く」
ヴェインが低く言った。
「そうだ。一度に全部じゃない。二機、また二機。哨戒網の層が薄くなった隙間から、まず七番の貨物船に取り付く。救出が先、撃破は後だ」
沈黙が一拍あった。それを破ったのは、いつもの平坦な声だった。
「艦長。最適化の観点から申し上げます」
「言ってみろ」
「生存者の回収を作戦に含めた場合、撃破の成功率は14%低下します。救出フェイズで当艦は船団区画——敵の腹の下に長時間張り付くことになり、被発見時の生存率はほぼゼロです。さらに、救出を先行させることで偽装通信の運用期間が延び、嘘の露見する機会が増えます。生存者一名の救出と、五千二百万の契約と、クルー三名の生命を同じ秤に載せる合理性がありません。切り捨てを推奨します。艦長、ご決断を」
底冷えのする提案だった。そして、数字としては正しかった。それが正しいことを、艦橋の誰もが知っていた。ナナオは目を伏せ、ヴェインは航路図を見たまま動かない。決めるのは艦長の仕事だ。この艦では、汚れ仕事も綺麗事も、決断はすべて一人の帳簿に載る。
「却下だ」
「理由を記録します。お聞かせください」
「あの信号は、まだ生きてる人間が点けたり消したりしている。それを見た上で素通りしたら——」
ハルは一度言葉を切った。
「俺たちは、あの母艦と同じになる。護送の数字だけ合っていて、腹の下で人が死んでいく」
「非論理的です」ツクモは即答した。「当艦と当該艦の挙動は、構造的に同型ではありません。……ですが、記録しました。では救出優先で再計算します。値札を申し上げます」
モニタに数字が並んだ。追加の作戦日数、六日。微速機動と熱管理のための燃料増、約八十万cr相当。被発見の累積確率、22%上昇。クルーの連続戦闘配置時間、安全基準の上限を超過。超過分の人的損耗リスク、数値化不能。
値札は正確だった。正確であることだけが、ツクモの誠実さだった。彼女は止めない。止める機能がない。ただ、選んだものの値段を、一crの単位まで読み上げる。
「……承知の上だ。組む」
◇
偽の偵察命令の起草に丸一日かかった。
ハルは端末に向かい、七年前まで毎日書いていた書式を、指の記憶から掘り起こしていった。発令元の階梯、時刻印の桁、認証列の癖。冒頭の宛先符号は旧式の縦読み、本文は要件三項目、結語は定型句。軍の通信文には、本物にしかない退屈さがある。整いすぎた文面は、それだけで偽物だ。
「艦長。三行目の部隊符号、当時の改編を反映していません」
「……ああ。末期は統合されてたな。直す」
「はい。それと、文末の気象注意情報は不要です」
「いや、要る。本物の偵察命令には、必ず余計な定型文が付いてた。司令部の癖だ。書式の正しさより、退屈さを真似ろ」
「……記録します。「退屈さを真似ろ」。私のライブラリにない教義です」
「お前のライブラリは艦の殺し方しか載ってない。書類の殺し方は俺の領分だ」
「役割分担として妥当です」
起草の合間、ヴェインが珈琲の代用品を二つ持って通信席に来た。一つをハルの脇に置き、自分の分を持ったまま、画面の偽手紙を黙って眺めた。
「……同盟側も、こういうのを待ってた」
「集結指令をか」
「撤退命令を。終戦の半年前から、外縁の同盟艦隊は燃料も弾も尽きてた。命令さえ来れば退がれた。来ないから、退がれなかった」
ヴェインは代用珈琲を一口飲んだ。
「命令ってのは、来ないことで人を殺す。あんたの書いてるそれは——来ることで艦を殺す。どっちも、紙切れだ」
それだけ言って、操舵席に戻っていった。慰めだったのか、皮肉だったのか、ただの戦史の講義だったのか。たぶん本人にも区別はついていない。敗者の言葉には、そういう層がある。
深夜、文面を仕上げたハルは、送信予約の画面の前でしばらく手を止めていた。七年前のあの夜も、彼は同じ姿勢で端末の前にいた。中継すべき言葉を待ち、待ち続け、回線の沈黙だけを受け取った。今夜は逆だ。沈黙していた回線の側から、嘘の言葉が流れていく。
どちらが罪深いのかは、考えても答えが出なかった。考えるのをやめる技術だけが、七年で上達していた。
「艦長。仮眠を推奨します。送信時刻まで三時間十二分。人間の判断精度は連続覚醒十八時間で著しく低下します」
「お前は低下しないのか」
「私の劣化は、もっとゆっくり進みます」
冗談なのか事実の申告なのか、判別のつかない一行だった。ハルは仮眠を取った。夢は見なかったか、見たことを覚えていないかの、どちらかだった。
◇
送信は観測六日目の〇三〇〇。中継経路を三段偽装し、七年前に実在した上位局の「声」で、最初の偵察命令が放たれた。
四十秒の沈黙。
それから、《揺り籠》の管制波が変わった。七年間繰り返されてきた待機の周波数に、新しい系列が割り込む。照会。再認証要求。発令元の階梯確認。ハルとツクモはそれを一つずつ、本物の退屈さで打ち返した。即答はしない。本物の司令部は、末端の照会に即答などしない。十分待たせ、二十分待たせ、定型の確認文で応じる。
「——受領通知。来ました」
望遠像の中で、哨戒網の第三層から光点が二つ、剥がれた。子機が二機、偽の候補座標へ向けて増速していく。一時間後にさらに二機。軍の手順どおり、二機一組の相互支援で。
「四機抜けた。網の南天側、第三層に穴」
「……見えてる」
ヴェインは既に操舵席で、進入コースを引き直していた。減速進入。熱を殺し、デブリの流れに紛れ、開いた穴から船団区画の陰へ。機関は最初の三十分だけ使い、あとは慣性と冷ガスだけで十数時間を漂う。針の穴に、糸を投げてから通すような航路だった。
「所要、十九時間」
「ヴェイン。十九時間、保つか」
「保たせる」
それだけだった。ハルは頷き、最後にもう一度、哨戒網の表示を見た。
そのとき、ツクモが告げた。
「艦長。偵察に出した子機の挙動から、帰投定刻を逆算しました。候補座標の確認を終えた子機は、十一時間後から順次、網に戻り始めます」
開けた穴は、開けっ放しにはならない。
「穴が完全に閉じるまで、残り十一時間。進入所要は十九時間。——どこかで八時間、嘘を継ぎ足す必要があります」
ハルは端末を引き寄せた。書きかけの偽手紙の続きが、まだそこで待っていた。