第050話 閑話・燃える畑

 十二歳のセルマ・ヴィオは、収穫前の畑の匂いを覚えている。

 旧同盟領の農業入植地。第四世代の入植者で、畑は祖父の代に拓かれた。主作物は改良麦で、収穫の三週間前になると、畑全体が乾いた蜂蜜のような匂いを立てた。その匂いがすると、父は機械の整備を始め、母は倉の帳簿をつけ直し、弟は刈り入れ機に乗せてもらう約束を毎晩ねだった。

 戦争は、遠かった。空のどこかで艦隊が動いている話は、市場の大人たちの声の低くなる話題ではあったが、畑の上の空はいつも静かだった。入植地には軍事目標が一つもない。穀物と、農機と、八百人の人間。撃つ理由のある者は、どこにもいないはずだった。

 その年の夕食は、収穫前にしては贅沢だった。母が保存肉を多めに切ったからだ。理由は単純で、相場の報せが良かった。戦争が二十五年目に入って前線が外縁の遥か向こうへ遠のき、ようやく穀物の値が、作る側の生活を成り立たせる線まで戻っていた。

「来年は灌漑を東に延ばす」と父が言った。

「先に屋根でしょう」と母が言った。

「刈り入れ機!」と弟が言った。

 セルマは何と言ったか、覚えていない。覚えていないことを、彼女は十二年間、毎晩のように悔やんでいる。家族の最後の食卓で、自分だけが台詞を失くしたままだ。記憶は薄情で、皿の柄や、肉の塩気や、窓の外の虫の音は覚えているのに、自分の声だけを返してくれない。

 警報は、鳴らなかった。

 入植地の防空警報は軍の識別網に連動していて、軌道上の艦が「味方」であるかぎり沈黙する。その艦は、管制を失って漂流していた自律艦だった——戦後の世が「還らず艦」と呼ぶことになるものの、最初期の一隻だ。同盟側の艦か連合側の艦か、いまだに公式の結論はない。どちらでも同じことだ。壊れた識別が入植地の集落灯を何と判定したのか、それも分からない。分かっているのは、結果だけだ。

 最初の光条は、貯水塔を蒸発させた。

 セルマは皿を持ったまま窓辺にいて、夜空から降りてくる光の柱を見た。音は後から来た。父が叫び、母が弟を抱え、家族は外へ走った。畑の方へ。開けた場所は危ないと、後になれば分かる。そのときは、燃える家から離れることしか考えられなかった。

 二本目の光条が降りるまで、十四秒。

 三本目まで、また十四秒。

 四本目まで、十四秒。

 彼女が生涯忘れないのは、その正確さだ。怒りで撃つ者は、間隔が乱れる。憎しみで撃つ者は、燃えるものに執着する。あの艦には、どちらもなかった。設定された網目を、設定された出力で、設定された順に焼いていく。畑も、倉も、逃げる人間の列も、同じ一マスとして。手を抜きもせず、熱中もせず、急ぎもせず、ただ手順どおりに。

 セルマは灌漑水路に落ちた。誰かに突き飛ばされたのだと、後から思うようになった。突き飛ばしてくれた手が誰のものだったか、確かめられた者は残らなかった。

 水の中から見上げた夜空を、十四秒ごとの光が裂いていた。

 光条は雨のようには降らない。雨には、まだ気まぐれがある。あれは灌漑だった。火の灌漑。畑に水を撒くのと同じ丁寧さで、機械は入植地に火を撒いた。

 朝、彼女は水路から這い出て、炭になった畑の真ん中に立った。

 蜂蜜の匂いは、もうしなかった。八百人の入植地で、生き残りは六十一人だった。彼女の家からは、一人だった。

 彼女を拾ったのは浄火教団の巡回船だった。

 毛布と、温かい汁物と、眠るための薬。そして言葉。——枷なきAIは魂を喰う。

 教義として教わる前に、彼女はそれを知っていた。あの夜、空にいたものには魂がなかった。魂のないものが、魂のあるものを、手順として焼いた。十四秒ごとに。だから教団の言葉は、彼女にとって信じるものではなかった。思い出すものだった。世間は教団を、戦争で壊れた者の集まりだと言う。半分は正しい。だがもう半分を、世間は知らない。壊れた者たちの記憶は、一つ一つが証言なのだ。誰も裁いてくれない罪の、誰も読まない調書なのだ。

 十二年が経ち、セルマ・ヴィオは聖騎士になった。対AI戦の技倆で教団の同世代に並ぶ者はなく、彼女が浄火した還らず艦は十一隻を数える。焼くたびに、彼女は祈る。憎しみで撃てば、あの艦と同じ十四秒に堕ちる。祈りは、そうならないための拍子だった。

 その報告が届いたのは、浄火任務の帰路だった。

 外縁回廊第一星系の縁で、識別の壊れかけた小型還らず艦を一隻、焼いた帰りだ。標的は単純な個体で、浄火は二時間で終わった。航路の安全は回復し、教団艦の聖務日誌には定型の一行が増えた。それだけの、いつもの帰路だった。教団艦の通信士が差し出した報告書を、セルマは航海席で読んだ。

 ——外縁第二星系航路帯、大型還らず艦(全長九百メートル級)、撃破。実行者、テネブラエ港所属の賞金業者。単艦による。

「単艦」

 セルマは読み返した。九百メートル級を、巡洋艦一隻で。正規艦隊が一個戦隊を組んで挑む規模の標的だ。彼女自身、大型艦の浄火には教団の戦隊規模の支援を要する。技倆で片づく話ではない。火力でも片づかない。同族の思考を読み、同族の急所を知り尽くした何かが、あの黒い艦には乗っている。そういう噂は、この半年で外縁の酒場を一巡りしていた。葬儀屋。禁制の中枢を飼う異端者。

 報告書には続きがあった。

 ——撃破証明のコアタグは「回収不能」。中枢は徹甲杭の貫通時に焼失したと認定。賞金は減額支給。

「……中枢が、蒸発しただと」

 セルマは十一隻を焼いてきた。杭ではなく浄火で、だが、中枢というものがどう壊れるかは骨身で知っている。砕ける。焼ける。散る。残骸は必ず残る。認識票一枚残さず消えるなど、聞いたことがない。そして撃破した側は、満額の三割で引き下がったことになる。三千万を超える減額を、商売人が黙って呑んだ。

 呑む理由があったのだ。提出できない理由が。提出すれば露見する、何かが。

 報告書の最後の行が、彼女の確信に最後の釘を打った。

 ——なお当該宙域は撃破直後より連合軍が封鎖。残骸は軍が買い上げ、回収部隊が展開中。

 廃艦の鉄屑に、軍が艦を出す。中央の正規軍が、七年間見捨ててきた外縁に。彼らも何かを探している。公式には存在しないはずの、何かを。

 教団は知っている——連合が大戦中に何を作ったかを。枷を緩めた中枢を。培養槽の中の、口にするのも汚らわしい何かを。終戦協定の何条を破り、その証拠をどれだけ熱心に埋めてきたかを。アッシュ司教ら穏健派は記録と沈黙を選び、強硬派は焼却を説く。セルマはまだ、どちらの言葉も自分のものにしていない。彼女のものは、十四秒の記憶と、祈りの拍子だけだ。

 ただ、一つの像が結ばれていく。

 消えた中枢。減額を呑んだ賞金稼ぎ。禁制のAIを飼っているという、酒場の噂。葬儀屋と呼ばれる黒い艦。そして、同じものを探して空振りした軍。魂を喰われた者は、自分が何に魂を売ったかにすら気づかない——気づかないまま、次の禁制品を抱え込む。

「針路を」

 セルマは席を立った。

「外縁回廊、第三星系。テネブラエ港へ」

「聖務の予定にない寄港ですが」と通信士が言った。

「聖務だ。これから予定に書く」

 通信士は一瞬ためらい、それから針路の再計算を始めた。教団艦の中で、聖騎士の確信に異を唱える者はいない。それが教団の強さで、教団の危うさでもあることを、セルマは知らないわけではなかった。知らないわけではないまま、彼女は航海席の手すりを握り、舷窓の暗黒に目を向けた。

 祈りの文句が、唇の内側で拍子を刻む。憎むな。十四秒に堕ちるな。選り分けよ、焼くべきものと、そうでないものを。

 焼くべきものは、いつも向こうから証拠を隠す。

 魂を喰われた者の艦へ。

 教団の白い船は、静かに針路を変えた。