第052話 主治医の署名
ヨルの精密検査は、命名の三日後に行われた。
医務室の検査装置は半分が軍放出品で、残り半分はナナオが解体市場から組み上げた代物だ。老人は朝から器具を並べ、いつもの倍の時間をかけて校正をやり直した。診る前から、何が出るかを知っている者の支度だった。
検査は四時間に及んだ。
ヨルは指示のすべてに正確に従った。息を止めろと言えば止め、力を抜けと言えば抜く。従順すぎる被験者は、医者にとってむしろ診にくいのだとナナオは言った。痛みの反応で診る箇所が、申告で診られないからだ。
検査の途中、奇妙なことが一つあった。
ナナオが計測器を持ち替えるたび、ヨルがその名称を言うのだ。
「……神経伝導検査器。型式、医療規格の七三」
「ほう。知っとるか」
「……艦の、医務室に、あった。備品目録、三二一番」
《揺り籠》の医務室。使う乗員のいない、七年間誰も開けなかった区画の備品目録を、彼女は艦だった頃の記憶で諳んじている。器具の名は知っていて、器具を自分に使われた経験は、培養槽の管理装置以外にない。物の名前と、物のある暮らしが、彼女の中で繋がっていない。目録だけの世界で、七年。
「なら、これは分かるか」とナナオは聴診器を持ち上げた。
「……ちょうしんき。ふるい、きかい。目録に、ない」
「じゃろうな。わしの私物での、わしより年寄りじゃ。——これはな、音を聴く道具じゃ。機械を通さず、人の耳で、直接な」
老人はイヤーピースをヨルの耳に入れ、集音部を自分の胸に当てた。
ヨルの目が、見開かれた。
「……おと」
「わしの心音じゃ」
「……うた、みたい」
歌みたい。管制波を七年聴いてきた耳が、初めて聴く人間の鼓動に与えた分類だった。ナナオはしばらく黙って、それから「そうじゃの」とだけ言った。検査記録の余白に、老人が小さく何かを書き留めたのを、ハルは見た。数値ではない何かだった。
一度だけ、例外があった。
神経接続部の瘢痕——首筋の端子痕に検査用の触子を近づけたとき、ヨルの手が、寝台の縁を僅かに掴んだ。引いたのではない。掴んだだけだ。本人も気づかない、数ミリの動き。
ナナオの手が、止まった。
「……嫌か」
「……問題、ありません」
「訊き方を変える。嫌か」
「……」
ヨルは答えなかった。答えない、という答えを、彼女はまだ持っていないはずだった。持っていないものが、いま、出た。
「ええ兆候じゃ」
老人は触子を置き、別の手順に切り替えた。
「嫌がるのは、生きとる証拠じゃぞ、嬢ちゃん」
検査結果の説明は、艦長室で行われた。ナナオは紙の検査記録——彼は重要なものほど紙に書く——を机に置き、医者の声で始めた。
「まず、身体。栄養状態は回復基調。筋量は歩行訓練で戻る。内臓に異常なし。年齢は骨端線から推定で十一から十二。——培養出生の個体は出生記録がないでな、誕生日は永久に推定じゃ」
「それから」
「それから、本題じゃ」
老人は記録を一枚めくった。めくる手が、初めて鈍った。
「神経系の検査でな、学習野の構造に特徴が出た。痛覚系と学習系の結線が、設計的に強化されとる。自然発生ではありえん形でな」
「……どういう意味だ」
「この子はな、艦長。痛みで艦を覚えさせられとる」
ナナオは記録から目を上げなかった。
「生体管制コアの教育方式じゃ。操艦の誤りに痛覚信号を返す。正解には何も返さん。罰だけで組まれた学習系じゃ。理屈は単純での——痛みは、報酬より学習が速い。三割速い。三割速く艦になれる。それだけの理由で、設計された」
艦長室が静かになった。
ハルは、歩行訓練の手すりを思い出していた。痛みに音を上げない子供。基準値をください、と言った声。音を上げないのではない。痛みが彼女の母語なのだ。生まれてから今日まで、世界は痛みの文法で彼女に話しかけてきた。
「治るのか、それは」
「結線は治らん。じゃが、上書きはできる。痛み以外の信号で学ぶ経験を、積めばじゃ。……時間はかかる。七年ぶんの逆向きの時間がな」
ナナオは検査記録を閉じ、しばらく黙っていた。
それから、診察室では決して見せない顔で、言った。
「艦長。前に言うたな。わしの署名が、まだこの宇宙のどこかで人を殺しとる、と」
「聞いた」
「あの署名の在り処を、教えとく」
老人は、閉じた検査記録の上に手を置いた。
「生体管制コア教育方式・痛覚主導学習系。設計承認、医務監察部。承認医官の署名欄に、わしの名がある」
ハルは、何も言えなかった。
「戦時中の話じゃ。前線で人が日に千人死んどった頃でな。コアの学習が三割速くなれば、艦の就役が三割早まる。就役が三割早まれば、守れる船団が増える。死なずに済む千人のために、培養槽の中の数十を痛めつける——その算術に、わしは判を押した。押した夜のことは、何も覚えとらん。普通の夜じゃったからな。普通の夜に押せる判じゃったことが、いちばんの罪じゃ」
「……それで、この艦に乗ったのか」
「葬送艦の生き残りと、わしの判子の生き残りが、同じ回廊を漂っとると聞いてな」
老人は立ち上がり、検査記録を抱えた。
「乗せてもろうた理由は、前に言うたとおりじゃ。自分の作った地獄の、後始末よ。——あの子の主治医は、わしがやる。やらせてくれ、ではない。わしがやるんじゃ。この宇宙であの子の結線をいちばん知っとる人間は、いちばん罪の重い人間と同一人物でな。便利なもんじゃろ」
飄々とした言い方に、飄々はひとかけらも残っていなかった。
ハルは頷いた。頷く以外の返答を、この告白は求めていなかった。罪の重さを測り合う趣味は、二人ともなかった。同じ種類の帳簿を抱えた者同士、勘定の仕方だけは互いに分かる。
医務室へ戻る途中の通路で、ナナオは一度だけ足を止め、振り返らずに言った。
「それとな、艦長。診察中に、妙なことがあった」
「何だ」
「この子——艦の外を、聴いとるぞ」
「外?」
「検査の合間にな、視線が時々、艦の壁を抜けて何かを追う。方位を測ってみた。一度は港の管制塔。一度は、入港してきた貨物船。……壁越しに、船の管制波を聴いとる。受信機なしでじゃ」
老人は通路の闇の先を見た。
「七年、艦の耳で生きとった子じゃ。耳の方は、艦を降りても残っとる。——それが何を意味するかは、まだわしにも分からん。分からんことは、カルテに分からんと書いとく」