第053話 声
その朝、ヨルは食堂にいなかった。
医務室にも、寝台にもいない。艦内捜索という言葉が頭をよぎる前に、ツクモが位置を告げた。
「第三観測区画です。三十分前から、移動していません」
第三観測区画は、艦の背側に開いた小さな展望窓のある区画だ。戦闘艦に展望は要らないから、実態は光学機器の保守用足場にすぎない。その窓に、ヨルは額を寄せていた。
歩行訓練の補助具なしで、ここまで一人で歩いてきたことに、ハルはまず気づいた。それから、彼女の目が港の方ではなく、外縁の暗黒の方を向いていることに気づいた。
「ヨル」
呼ぶと、振り向いた。名前は、もう三日で根づいていた。
「……きこえる」
命令されずに、彼女が発した最初の言葉だった。
「何が、だ」
「……こえ。とおく。こわれた、こえ」
語彙はまだ、倉庫の奥から一語ずつ運び出される速度でしか出てこない。ハルは急かさず、窓の横に立った。彼女の視線の方位を、頭の中の星図に重ねる。第三星系の外縁。航路帯の北。
「ツクモ。その方位に何かあるか」
「照合します。——ギルドの脅威評価依頼が一件、本日付で出ています。第三星系外縁、中型還らず艦の出現。識別波の異常が報告され、航路に接近中。賞金一千二百万cr。脅威度、上方修正の途中です」
ヨルの聴いている方位と、依頼の座標が、重なった。
距離にして〇・四光年。受信機が拾えるのは、せいぜいが減衰しきった残響だ。それを彼女は、補助具なしで歩いてきて、額を窓につけて、聴いている。
「……いたい、って」
ヨルが言った。
「あのこえ、いたい、って、いってる」
ナナオの聴診が、四十日前に同じことを言った。痛がっとるんじゃ、と。医者が受信機と三十年の耳で聴き取ったものを、この子は素手で聴いている。
ツクモが、検証を申し出た。
「対象の聴音能力の精度を測定します。手順: 私が現在入港中の船舶を無作為に選択し、艦名を伏せて方位のみ指定します。対象が管制波の特徴から船種を識別できるか——」
「目的は」
「能力の信頼性評価です。戦術資源として運用する場合の基礎データに——」
「やらない」
ハルは遮った。遮ってから、声の強さに自分で気づいた。
「……検査はナナオの医療範囲だけだ。あの子は計器じゃない。較正もしない」
「計器ではない、という分類を記録します。では、彼女の聴いたものが正しいかどうかを、本艦はどう扱いますか」
「人の証言として扱う。裏を取り、判断の材料にする。計器の読みじゃなく、クルーの報告としてだ」
「……クルーの報告」ツクモは復唱した。「職務欄は、空欄のままですが」
「空欄のクルーだ」
「矛盾した分類です。保存します。——本艦の記録領域は、矛盾した分類の保存場所になりつつあります」
苦情の形をした何かだったのか、ただの事実の申告だったのか。いつものように、判別はつかなかった。
依頼を受けるかどうかの判断は、半日かかった。
数字の上では、迷う余地がない。中型一千二百万、準指定の脅威評価込み、杭の在庫は二本。冷却機は十五分まで戻り、クルーは四人。受けない理由は、帳簿のどこにもない。
迷いは、帳簿の外にあった。
ハルは医務室にナナオを訪ね、率直に言った。
「ヨルの耳は、猟の役に立つ。立ってしまう。索敵にも、解析にも、たぶん杭の精度にも」
「じゃろうな」
「使えば、あの子をまた中枢に戻すことになる。艦の部品に。——使わないと決めたい。決めていいか、医者として」
ナナオは器具の手入れの手を止めなかった。
「医者として言えるのはな、艦長。あの耳は塞げん、ということだけじゃ。使う使わんはあんたの決めることじゃが、聞こえる聞こえんは、あの子の身体が決めとる。あの子は今日も明日も、聴こえ続ける。——それを忘れんことじゃ」
答えになっていない答えが、いちばん正確な答えであることもある。
夕方、ハルは受注の手続きを済ませ、クルーに方針を告げた。
「明朝出港。標的は第三星系外縁の中型。——ヨルの能力は、使わない。本人の前で能力の話もしない。あの子は乗客だ。それで通す」
「非効率です」とツクモが言った。「対象の聴音能力は、本艦の索敵系を周波数分解能で上回ると推定されます。使用しない場合の作戦成功率の低下、試算で——」
「いい。記録だけしろ」
「……記録します。『使わない、と艦長が決定』。決定の理由欄は」
「空欄でいい」
「空欄のまま保存します」
空欄の増えていく艦だった。
出港の準備の合間に、ツクモがもう一件、報告を上げた。
「艦長。標的の航跡を脅威評価の観測データから再構成しました。当該中型艦は、第三星系外縁に『現れた』のではありません。——通過中です」
「通過?」
「三週間前の所在は第五星系の旧戦域。現在針路の延長線は、回廊深部。例の暗域方向です。識別波の劣化で航路に寄ってしまっただけで、本来の移動の目的地は別にあります。『集積仮説』に追記しました。これで観測例は、五件目です」
はぐれた艦が、はぐれた先で集まりつつある。一隻ずつなら偶然と呼べた現象が、五件並ぶと、別の名前を要求し始める。要求された名前を、まだ誰も口にしたくなかった。
「……賞金の出てるうちに獲る。それだけだ」
「はい。経済的には、完全に正しい姿勢です」
経済的には。彼女の限定の付け方は、いつも正確だった。
受注の窓口で、ミミナは書式を捌きながら言った。
「中型の脅威評価込み。あなたの等級なら適正案件。——ひとつだけ、規則外の話をしていい?」
「窓口の規則外は、いつも本題だ」
「最近のあなたの受注、間隔が短くなってる。揺り籠の後、休んでない。傭兵の壊れ方には二種類あってね。腕が落ちて死ぬのと、休み方を忘れて死ぬの。後者の方が多いの、統計上」
「覚えておく」
「覚えるだけなのも統計に入ってる」彼女は判を押した。「死亡保険の受取人、まだ遺族基金のままでいいの? 最近、艦の食料の発注量が増えてるって、港の納入業者が言ってたけど」
窓口は港の耳たぶだ。食料の納入記録から乗員の増減を読む程度のことは、この女の暗算の範囲だった。ハルは表情を消した。
「……基金のままでいい」
「そう。ならそう処理する」
ミミナは深追いしなかった。しない代わりに、書類を返す手が、一瞬だけ止まった。
「荷物が増えたなら、なおさら。——生きて戻りなさいよ」
翌朝、《送り火》は出港した。
加速に入った艦の、第三観測区画の窓に、ヨルが額を寄せていた。
乗客として乗せたはずの少女には、行く先の「声」が、もう聞こえている。聞こえていることを、誰も止められない。窓の外の暗黒を見つめる小さな横顔は、怯えとも期待ともつかない、名前のまだない表情をしていた。
名前のないものが、この艦には増えていく一方だった。