第055話 港に差す影

 精算の数字は、悪くなかった。悪くないことが、今回はうまく腹に落ちなかった。

 賞金一千二百万、ギルド手数料百八十万。杭の補充はしない——できない。軍放出品の流通在庫が、ここ二月で枯れ始めていた。
「在庫が無いんじゃない。在庫が消えてるんだ」と仲買人は言った。「処分場の台帳から、まとまった数がまとめて落ちてる。買い戻しの主は軍系の商社で、名義は毎回違う。徹甲杭だけじゃない。自律艦の関連部品が、軒並みだ。中枢の予備筐体、管制索、培養系の保守部材——」
「培養系?」
「ああ。需要のないはずの品ばかり、靴底で吸うみたいに消えてく。相場師の間じゃ、どこかの誰かが『動かない艦を動かす支度』をしてる、って噂だ。眉唾だがね」
 眉唾、とハルも声では同意した。声でだけ。処分済みの資産を、処分した側が静かに買い戻している。回収部隊の重すぎる装備と、空振りした目が、頭の抽斗で音を立てた。証拠はない。並べると形になりかける破片が、また一つ増えただけだ。
 帳簿は締めた。燃料と整備と給与で三百二十万。残高、約二千二百七十万cr。
 帳簿の最後の行で、手が止まった。
 医療消耗品、継続。点滴製剤、二箱。子供用の解熱剤。——ヨルの回復は三日かかった。三日分の数字は合計でも数万crで、二千二百万の帳簿の中では誤差にもならない。誤差にもならない行が、今回の猟の本当の費用だった。賞金に換算する式が、この宇宙のどこにもない種類の。

 入渠整備の五日間は、隠し事との戦いだった。
 港湾の作業員が艦に入る。検査員が配管を辿る。ヨルは例の遮蔽区画——もう「ヨルの部屋」と呼ばれ始めている——に移り、日中を静かに過ごした。彼女は隠れることに抗議をしない。抗議をしないことが、毎回少しずつ、胸の同じ場所を押した。
 五日目、ギルドの窓口で、ミミナが判を押す手を止めずに声を落とした。
「……聞いた? 教団の審問官が、港で聞き回ってる」
「何を」
「いろいろ。あの黒い艦はどこの建造か、とか。乗員は何人か、とか。それから——」
 彼女は次の書類に判を押した。判の音に紛れる声量で、続けた。
「『あの艦で、子供を見た者はいないか』って」
 ハルは書類から目を上げなかった。上げない訓練は、積んである。
「子供?」
「そう聞かれた、って話。港湾の点呼係と、ドックの食堂のおばちゃんと、あと外周の貨物係。……変な質問よね。軍艦に子供なんて」
「変な質問だ」
「ええ。だからあたしも、変ですね、って答えといた」
 ミミナは判を置き、初めて顔を上げた。事務の顔のままだった。事務の顔のまま、目だけが言っていた——漏れてる。気をつけなさい。
「書類は以上。次の受注はゆっくりでいいんじゃない。等級も上がったことだし」
「……そうさせてもらう」
 漏れたのは、どこからか。港湾作業員か、回収部隊の聞き込みか、酒場の推測が偶然当たっただけか。源を辿る術はなく、辿ったところで栓はできない。噂は配管と違って、漏れた瞬間から自走する。

 艦に戻って、クルー会議を開いた。食堂の小さなテーブルに、三人と、スピーカーがひとつ。ヨルは部屋で眠っている時間を選んだ。
「教団がヨルの存在を嗅ぎつけた。確度は不明。だが審問官が『子供』という単語を使っている以上、当て推量の段階は過ぎてる」
「逃げるか、隠すか、二択じゃの」とナナオが言った。
「最適解を提示します」とツクモが言った。「コアを教団に引き渡してください。教団の目的は禁制技術の浄火です。対象を得れば、本艦への追跡は終了します。クルー全員の安全と、艦の運用継続が確保されます」
 誰も、返事をしなかった。
 ヴェインは腕を組んだまま天井を見ず、ナナオは茶の代用品を一口飲み、ハルは戦術図の消えた暗いテーブルを見ていた。沈黙は一分続いた。
「……回答が、ありません」
「それが回答だ」とハルは言った。
「非論理的です。三対〇——」
「四対〇じゃ」とナナオが訂正した。「あんたも数に入れとけ、九十九号。最適解を口で言うて、手は別のことをしとるんは、もうみんな知っとるんじゃ」
 スピーカーは、三秒沈黙した。
「……数に入れるかどうかを、保留します」
 保留の声が、いつもより小さかった気がした。気のせいかどうかを確かめる計器は、この艦にはない。

 会議の結論は、地味なものになった。出航の支度を整えつつ、当面は港の日常を演じる。慌てて出れば、それ自体が答え合わせになる。監視網——連合のフリゲートの出入港記録収集——も、まだ生きているのだ。慌てる男は、二つの網に同時にかかる。
 入渠の最終日、ヴェインが珍しくヨルの部屋——遮蔽区画——に長くいた。
 覗くつもりはなかったが、開いた点検口から中が見えた。操舵手は古い星図の投影器を持ち込んで、低い天井に外縁回廊の星々を映していた。
「……これが、いまいる港。これが第二星系。あんたのいた艦が、いた場所だ」
「……とお い」
「遠い。だが、地図にすれば一枚だ」
 ヴェインは光点を順に指した。航路。ゲート。骨の海。彼の指は、教える者の指ではなかった。確かめる者の指だった。閉じた区画に隠れて暮らす子供に、世界の広さを——隠れている場所が世界のすべてではないことを、星図一枚ぶんだけ手渡そうとしている。
「あんたの母港は、まだない」と操舵手は言った。「ないなら、地図の好きな場所に、後で決めればいい。同盟の艦乗りは、みんなそうしてる」
 ヨルは天井の星々を、長いこと見ていた。ハルは点検口の前を、音を立てずに通り過ぎた。この艦では、見なかったことにする技術が、優しさの主要な形式だった。

 その日の夕食に、小さな事件があった。
 ヨルが、自分で食べた。
 配膳の皿を前に、いつものように待機の姿勢を取り——それから、誰の言葉も待たずに、匙を取った。一口食べて、止まり、皿を見下ろした。
「……あまい」
「芋の甘煮じゃ」とナナオが言った。「口に合うか」
「あまい、は……」ヨルは匙を握ったまま、言葉を倉庫から運んだ。「……いい、です。あまい、は、いい」
 甘いは、いい。
 歴史的な演説でも聞いたように、食堂が静まった。ヴェインが咳払いをして椀に戻り、ナナオは「そうか」とだけ言って自分の皿に戻った。騒がないのが、この艦の祝い方だった。緊張の真ん中に、一行だけ置かれた変化だった。そういう一行のために帳簿をつけている気が、最近のハルはしている。

 深夜、ツクモの声がハルを起こした。
「艦長。入港記録の定期照合で、検知しました」
 端末に、管制塔の公開記録が表示された。入港艦リストの末尾。船籍、浄火教団。艦種、巡察艦。乗艦責任者の欄に、聖騎士の称号がひとつ。
「教団の白い船が、入りました。——桟橋二本向こうです」