第066話 死んだ航路
現行の航路図に、その線は載っていない。七年前の改訂で抹消されたからだ。ハルが呼び出したのは大戦末期の軍用航路図——同盟軍が第六星系方面から撤退する際に使った、外縁デブリ帯沿いの退避航路だった。
図そのものは珍しいものではない。デブリ回収員は古い軍用図を商売道具にする。沈んだ艦の位置は、戦時の航路の上に並ぶからだ。七年間その図で飯を食ってきた男の手元に、抹消された線は何本も残っていた。
「ここだ」
ブリッジの表示に、死んだ線が浮かんだ。第五星系の外縁から、封鎖された縫航ゲートを大きく迂回して、第六星系の裏口へ抜ける航路。使えれば、封鎖線そのものを丸ごと回避できる。
「輸送日数は現行の五日から三日に縮む。検問の窓を待つ必要も、囮歌の九十分に賭ける必要もなくなる。週千四百トン——テッサの必要量を、まるごと届けられる計算になる」
「計算になる、と言ったな」ヴェインが航路図を見たまま言った。「……使えん理由があるんだろう」
「ある。だから死んだ航路だ」
ハルは航路の中ほど、デブリ帯にかかる区間を拡大した。保安機構の海図では、その一帯に赤い注記が打たれている。航行禁止勧告。原因種別、機雷原。そして観測識別コードが一つ。
「LM-313。同盟軍の機雷敷設艦だ。撤退戦のとき、追撃を遅らせるためにこの区間へ機雷原を敷いた。そのまま帰還命令を受け取り損ねて、七年間ここにいる」
「……敷きっぱなし、いうことか」ナナオが言った。
「敷きっぱなしなら、まだよかった。こいつは敷き直している」ハルは観測記録を並べた。「機雷には寿命がある。電池が切れ、信管が劣化する。だからLM-313は教範どおり、劣化した機雷を回収しては、新しい配置で敷き直す。七年間、終わった戦争の手順書のままに。機雷原は今も生きていて、配置は更新され続けていて、だから海図は永遠に赤いままだ」
被害記録も添えてあった。この七年で、勧告を無視して近道を試みた民間船が三隻、触雷して沈んでいる。死者二十六名。最初の一隻は終戦の年の鉱石運搬船で、乗員八名。二隻目は家族経営の行商船で、五名——うち二人は子供だった。最後の一件は十四カ月前、貨物船一隻、十三名。ハルはその数字を読み上げ、それが自分の帳簿に、もうとうに書き込んである数字であることは言わなかった。置き去りにされた艦が殺した者の数は、全部、置き去りにした男の帳簿に載る。七年前からの決まりだった。
「保安機構の賞金台帳には、中型還らず艦として載っている。賞金千四百万cr、撃破証明はコアタグの提出。航路の啓開と賞金と、テッサの腹。三つが一本の線で繋がる」
「繋がるが」ヴェインが初めて航路図から顔を上げた。「機雷原の中で接近戦をやる艦は、おらん。賞金が七年残っとる理由は、それだ」
「ああ。だから誰もやらない」ハルは静かに言った。「やらないから、俺たちに回ってくる。いつもの理屈だ」
「いつもの理屈じゃ」ナナオが茶を啜った。「いつものやつが一番、寿命に悪いんじゃがな」
◇
「ルールを確認する」
作戦立案は、その日の夜から始まった。ツクモが観測データを立体図に組み、敵の輪郭を描き出す。
「LM-313。同盟軍の標準的な機雷敷設艦です。全長三百十メートル。自衛火器は近接防御の機銃と短距離ミサイルのみ。砲戦能力は事実上ありません。本艦が艦砲で勝てる、数少ない相手です」
「ただし」とハルが継いだ。「撃ち合える距離まで近づく前に、機雷が殺す。観測できた敷設範囲から逆算して、機雷の総数は推定六百基以上。敷設パターンは——」
「三重螺旋です」ツクモが図を回転させた。「同盟軍の標準敷設教範、防勢パターンC。外殻、中殻、内殻の三層が、互いの死角を補完する螺旋配置を取ります。一層目を躱す針路は二層目の検知圏を通り、二層目を躱せば三層目に当たる。掃海せずに突破する経路は、幾何学的には存在しません」
「掃海すれば」
「敷設艦が検知し、敷き直します。七年間それだけをやってきた艦です。掃海の速度は敷設の速度に勝てません。また、掃海の爆発はこちらの位置を広告します」
「正面から行けば機雷、掃海すれば敷き直し、放置すれば航路は死んだまま、か」ナナオが指を折った。「で、賞金は千四百万。安いんか高いんか、わしには分からんようになってきたわ」
手詰まりの形をした図を、ヴェインが長いこと見ていた。寡黙な操舵手は、やがて図ではなく記憶を浚う目になった。
「……教範には、癖がある」
「癖?」
「同盟の敷設教範は、俺が士官学校で叩き込まれたのと同じ版のはずだ。三重螺旋は完璧に見える。だが敷き直しの最中だけは別だ」普段は単語でしか喋らない男が、その夜は文章で喋った。「古い機雷を回収して、新しいのを敷くまでの間——回収済みで未敷設の区画が、必ず一時的に開く。教範はその穴を、敷設艦自身の火器で塞げと書いてる。だが、こいつの自衛火器で塞げる幅は知れてる。教官は言うとった。『敷設艦の弱点は、几帳面なことだ』とな。几帳面な艦は、穴を開ける順番まで几帳面だ」
「敷き直しの周期は読めるか」
「読める。教範どおりに動いとるならな」ヴェインは図の一点を指した。「七年間、教範どおりにしか動いとらん艦だ」
ハルはその指の先を見た。狂った艦の、狂っていない律儀さ。手順書を守り続けることが、そのまま弱点の在処を教えている。還らず艦を狩る仕事はいつもそうだ。彼らは嘘をつかない。つけないことが、彼らの死因になる。
「ツクモ。敷設サイクルの観測に何日いる」
「最低四十八時間。確度を上げるなら七十二時間です。本艦は受動観測に徹し、放射は一切行いません」
「七十二時間とれ。杭の納品は」
「明日入ります。二本」
「一本で決める」ハルは言った。「決めそこなったら、機雷原の中で杭の二本目を装填する羽目になる。その状況は、二本目があっても助からない」
「同意します。なお、本作戦の費用対効果を報告します。賞金千四百万に対し、杭一本二百五十万、観測と進入の燃料約六十万、失敗時の損失は艦と乗員の全部です。最後の項目を金額換算しますか」
「するな」
「了解しました。換算せずに記録します」
◇
三日後、《送り火》はテネブラエを発ち、死んだ航路の入口に着いた。デブリ帯の縁。砕けた艦の骨と岩塊が、薄い帯になって漂う宙域。戦時にはここで二個艦隊がすれ違いざまに削り合い、その残骸が今も漂っている。墓場の中に機雷原がある、というより、墓場全体が一つの罠の形に整えられていた。その奥のどこかで、七年前の戦争がまだ几帳面に続いている。
受動センサーが、遠い熱源を一つ拾った。LM-313。敷設艦は今日も、誰も来ない航路に機雷を敷き直している。
「機関、微速まで絞りました」ヴェインが言った。「ここから先は、声を立てれば終わりだ」
ハルは管制席のベルトを締めた。
「入る」
それだけ言った。黒い艦は熱を殺し、死んだ航路へ、頭から静かに滑り込んだ。