第065話 封鎖は腹が減る
テネブラエ港に戻った《送り火》の食堂で、ハルは壁の表示板に数字を並べていた。第一往復の収支ではない。並べていたのは、この護衛契約が最後にどこへ着地するかの予測だった。
第一往復の実績はこうだ。届けた食料六百トン、消費した燃料百四十万cr、囮歌の窓一回。テッサの配給は三百六十グラムで踏みとどまり、十日後の第二船団を待っている。数字だけ見れば、護衛任務は成功だった。だからこそ、その先を計算しなければならなかった。成功が続いた先で負ける作戦は、最初から負けている。
「結論から言う。護衛だけでは、負ける」
集まったクルーの前で、ハルは表示板の最初の列を指した。
「テッサの必要量は週千四百トン。商会の輸送力で封鎖線を抜けられるのは、護衛をつけても週六百から八百トンが上限だ。囮歌は同じ相手に二度は効かない。次からは窓がもっと狭くなる。必要量の半分強——つまり配給は三百六十グラムから先も削られ続ける。一方でこちらの護衛費は月千二百万。商会の体力にも限りがある。この勝負は、封鎖が崩れない限り、時間切れでテッサが死ぬ」
「……封鎖が崩れる見込みは」ナナオが訊いた。
「ない。少なくとも、外からは。保安機構に封鎖を排除する艦隊は出せない。正規艦隊の出動は一回で億を超える。テッサの十一万のために中央がその予算を切るなら、もう切っている」ハルは次の列を出した。「だから問いを変えた。なぜ崩れないのか、じゃない。——なぜ続けられるのか、だ」
表示板に、封鎖側の台所が並んだ。元・第七補給艦隊の下士官が、七年ぶりに敵の兵站を逆算した帳簿だった。
「観測から、封鎖網の規模は推定十四隻。哨戒と威圧で滞洋を続ける艦は、一隻あたり燃料だけで週二十八万cr相当を焚く。十四隻で週四百万。これに食料、水、弾薬、整備部品、機材の損耗が乗る。乗員はおそらく総勢四百人前後。四百人が三月、宇宙で生活している。封鎖の維持費は、月に二千万crを超える」
「ほう」ナナオが眉を上げた。「海賊の上がりで、賄える額かの」
「賄えない。封鎖中の通行料収入——積荷の三割の現物徴収を換金して、拿捕の上がりを多めに見積もっても、月千二百万がいいところだ。差し引き月八百万以上の持ち出し。海賊にこの金は、ない。あったら海賊をやっていない」
「だが、続いとる」
「続いている。三月もだ」ハルは表示板を消して、結論だけを残した。「封鎖は腹が減る。向こうもだ。減った腹を、誰かが埋めている。相場を無視した安い補給源——燃料か、物資か、その両方が、帳簿の外のどこかにある。それを断てば、封鎖は外から叩かなくても、内側から腐って落ちる」
食堂が静かになった。ヴェインが先に口を開いた。
「……護衛から、攻めに回ると」
「回る。船団を守りながら、向こうの兵站を枯らす。砲で沈めるんじゃない。台所を潰す」
「評価します」ツクモの声が天井から降りた。「敵戦力の正面排除に比して、所要弾薬量、被弾確率、こちらの損耗予測、いずれも一桁以上低減します。兵站攻撃は最適解と評価します。なお、付随する選択肢を提示します。補給源の特定を待たず、封鎖艦隊の飲料水と食料の供給経路に汚染物質を——」
「却下だ」
「では次善案を。海賊側の補給船を装った船体で接近し、補給物資に発信機と劣化触媒を混入します。機関の故障が連鎖すれば——」
「それも却下だ」ハルは表示板に手を置いた。「枯らすのと、殺すのは違う。補給源を断つ。断った先で連中がどうするかは、連中が決める。逃げ道のある枯らし方をする」
「記録します。艦長の制約条件——逃げ道のある枯らし方。最適化の変数に追加しました」ツクモは平坦に言った。「では、艦長、ご決断を」
「決めるのは俺じゃない」
ハルは首を振った。
「契約上、俺たちは護衛だ。攻めに回るのは契約の範囲外で、しかも商会を海賊との全面抗争に引きずり込む話だ。報復は船団に来る。沈まないはずの船が、沈み始めるかもしれない。決めるのは雇い主だ」
「では提案文書を作成します。所要時間、四分です」
「兵站の数字は俺が書く。お前は観測データをつけろ。それと——汚染と触媒の件は、文書に載せるな」
「了解しました。載せる予定もありませんでした。あれは艦長の制約条件を測定するための提示です」
底冷えのする沈黙が、一拍だけ食堂に落ちた。測定された、という事実に、慣れてはいけないのだろうとハルは思った。慣れ始めている自分がいることも、含めて。
◇
提案書を書く間、ナナオが医務室から茶を持ってきて、卓の向かいに座った。
「兵糧攻め、なあ」老軍医は湯呑みを両手で包んだ。「艦長。一つだけ、医者として言うとくぞ」
「聞こう」
「兵站を枯らすいうんはな、艦を止めることではない。人を追い詰めることじゃ。飢えた軍隊が大人しゅう解散した例を、わしは戦争で一度も見とらん。腹の減った兵隊は、賢うなる前に、凶暴になる。あんたの言う『逃げ道のある枯らし方』はな、理屈は上等じゃ。ただ、逃げ道が見える者と見えん者がおる。見えん者から、暴れる」
「……分かっている」
「分かっとるなら、ええ」ナナオは茶を啜った。「分かった上でやるんと、知らんとやるんとでは、後で見える景色が違うからの。テッサの配給の列と、海賊の飯場の列と、両方を秤に載せる仕事じゃ。秤の番人は、よう眠れんぞ」
「もとから、よくは眠っていない」
「知っとるよ。医者じゃからな」
ヨルは卓の端で、表示板に残った数字の消え跡を見ていた。彼女が口を開いたのは、提案書がほとんど仕上がった頃だった。
「……かれる、と」
「ん?」
「かれると、あの、こえのひとたちも」言葉を探す間が空いた。「……おなかが、すく?」
封鎖の海賊たちのことを、彼女は「声のひとたち」と呼んだ。広域放送の声しか知らないからだった。ハルは手を止めた。
「すく。そういう作戦だ」
「……そう」
ヨルはそれ以上訊かなかった。良いとも悪いとも言わなかった。ただ、テッサの配給の列を見ていたのと同じ目で、消えた数字の跡を見ていた。並んで待つ者と、枯れて飢える者が、彼女の中でどう整理されたのかは、誰にも分からなかった。整理できないものを整理しないまま抱えておけるのは、人間の側の能力だ。彼女がそれを覚え始めているのだとしたら、それは成長と呼ぶべきなのだろう。誰も喜べない種類の、成長と。
◇
提案書は夕刻に打電した。封鎖側の兵站推計、補給源存在の論証、特定と遮断の行動計画、予想される報復と対策。最後に、損害が船団に及ぶ可能性を数字で正直に書いた。雇い主に贈る文書としては不出来な、しかし嘘のない見積もりだった。商会の決裁は早くて二日、と踏んでいた。月八百万の赤字航路の上に、海賊との全面抗争の火種を載せる話だ。役員会が紛糾しない方がおかしい。
返信は四時間で来た。
ツクモが受信文を表示した。宛名と発信者符号を除けば、本文は一語だった。
『続けて』
「……決裁が早すぎる」
「役員会を通していない速度です」ツクモが言った。「商隊長の専決と推定します」
一語の下に、付帯条項が一行だけぶら下がっていた。ハルはそれを二度読んだ。兵站攻撃の許可には、条件が一つ付いていた。
『ただし並行して、輸送量を増やすこと』
枯らすのはいい。だがその間も、テッサの腹は待ってくれない——そういう意味だった。封鎖線の検問を週に抜けられる量には、もう上限が見えている。輸送量を増やすには、封鎖線を抜ける以外の道がいる。
回廊の航路図を呼び出しながら、ハルは嫌な予感の方角に、もう見当がついていた。現行の図には載っていない道。載っていない理由ごと、思い当たる道だった。