第064話 三日分のパン
テッサ入植地の港は、静かだった。週四十二隻の船を受けていた桟橋に、いま係留されているのは商会の船団だけで、荷揚げ機の半分は電源を落としたまま埃をかぶっていた。動いている半分に、港の人手のすべてが集まっていた。
船団の入港は、歓声で迎えられなかった。桟橋に並んだ港湾労働者たちは、ただ黙って係留索を取り、黙って荷役の配置についた。喜ぶ体力を、別のことに取ってある動き方だった。
ハルは護衛任務の引き継ぎ書類を港湾管制に出し、荷下ろしの監督に立ち会った。立ち会いながら、いつもの算数を黙ってやった。テッサの人口、十一万八千。一人一日の最低限の食料を成人換算で並べれば、入植地が必要とする食料はおよそ週千四百トン。今回、八隻の輸送船が運んできたのは六百トン。
三日分だ。十二隻と三十八時間と囮歌の一度きりの窓を使って、届いたのは三日分のパンでしかない。
「足りないのは、分かってるのよ」
荷揚げ台帳を持った港湾の女性職員が、ハルの視線の先を読んだらしく、訊かれる前に言った。
「でも三日は三日。配給所の棚が三日ぶん埋まれば、暴動が三日遠のく。いまのテッサは、そういう算数で回ってるの」
「配給は、いまいくつだ」
「一人一日、三百六十グラム」職員は台帳から目を上げなかった。「公示は四百グラム台って書いてあるでしょう。あれは施行初日の数字。三日で削られた。子供と妊婦は満額、労働者は八割、それ以外は六割。委員会がそう決めて、誰も文句を言わなかった。文句を言わなかったことが、あたしは一番こわい」
「闇市は」
「あるわよ、もちろん。パン一個九百cr。封鎖の前は二百二十crだった。港の日雇いの日給で、四つ買える」職員はそこで初めて顔を上げた。「四人家族なら、一日働いて一人一個。あなた、護衛でしょう。次は、いつ来るの」
「十日後。遅れても十二日」
「十日ね」彼女は台帳に何かを書きつけた。祈りに近い筆圧だった。「言った数字は、覚えておくから」
荷下ろしは丸一日かかった。その間、港に怒声はなかった。配給所の前には列ができていたが、列は整然として、押し合う者も、割り込む者もいなかった。子供までが静かに並んでいた。列の先頭の老人は配給袋を受け取ると、量を確かめもせずに頭を下げた。量を確かめないのは、確かめても変わらないことを知っているからだ。
それが何より悪い徴候だということを、ハルは知っていた。戦時の兵站士官なら誰でも知っている。飢えの初期は、人を従順にする。体が消耗を避けて、怒る力を節約し始めるからだ。暴動が起きるのは腹が減ったときではなく、減った腹が絶望に変わったときで、その手前の静けさこそが、導火線の燃えている音だった。
教範に書いてある知識が、教範のとおりの形で目の前に並んでいる。ハルはそれを、荷揚げ機の陰から眺めることしかできなかった。
夕刻、ナナオが医薬品の木箱を二つ提げて、港の診療所まで歩いていった。商会の積荷とは別の、艦の備蓄からの持ち出しだった。戻ってきた老軍医は何も報告せず、ハルも訊かなかった。ただその夜の食事のとき、ナナオは一度だけ言った。
「診療所のな、薬の棚が、わしの軍医時代の野戦病院より薄かったわ。……敗け戦の途中の、な」
◇
《送り火》は桟橋の端、船団から少し離れた位置に係留されていた。ヨルは航海の間と同じく、艦から一歩も降りていない。入植地の港に検疫も住民登録もある以上、存在しない乗員を桟橋に立たせるわけにはいかなかった。彼女は文句を言わなかった。文句という語彙を、まだ覚えていないのかもしれなかった。
ハルが艦に戻ると、ヨルは観測室の窓に張りついていた。窓の下には港の広場があり、配給所の列が見えた。彼女は長いこと、身動きもせずにその列を見ていた。
「……あれは」
ヨルは振り向かずに言った。
「補給を、待っている」
「……ああ」
「ならんで、待ってる。こない、かもしれないのに」彼女は窓に指先をつけた。「どうして、ならべる?」
ハルは答えを持っていなかった。並ぶ以外に何もできないからだ、という答えは正しくて、子供に渡すには重すぎた。代わりに事実だけを言った。
「来るからだ。今日は来た。俺たちが運んだ」
「……三日ぶん」
荷下ろしの数字を、彼女はどこかで聞いていたらしい。ヨルはようやく窓から顔を離し、ハルを見上げた。
「つぎも、はこぶ?」
「運ぶ。それが契約だ」
「けいやく」ヨルはその言葉を口の中で転がし、それから自分なりの訳を当てた。「……やくそく」
「……まあ、近い」
契約と約束は違う、と訂正するべきだったかもしれない。契約は破れば違約金で済むが、約束はそうはいかない。ハルは訂正しなかった。訂正しなかった自分を、帰りの廊下で少しだけ持て余した。
◇
復路。空の船団は足が軽く、封鎖線の通過は往路より楽だった。海賊は空荷の船を追わない。空の船倉に、分け前は入っていないからだ。それでも哨戒網の目は船団の数を数えていて、数えられている、という感触だけが計器の外側に纏わりついた。
囮歌の窓を抜け、第六星系のゲートを離れて巡航に入った頃、その通信は来た。
広域放送。暗号なし、宛先指定なしの、回廊の誰もが聞ける平文。発信元は緋蓮団の符丁を使っていた。
『——葬儀屋に告ぐ』
ブリッジが静まった。ツクモが音量を整え、記録を回した。男の声だった。怒鳴ってはいない。むしろ事務的なほど平坦で、それだけに通りがよかった。
『黒い艦。あんたの稼業は知ってる。死人の艦を狩って、コアタグを役所に売る。立派な商売だ。けちをつける気はない。死人の世話は、死人の世話のうちだ』
一拍、置いて。
『だがな、葬儀屋。今回のは違うだろう。死人の艦を狩るのがお前の仕事だろう。生きてる人間の飯の話に、首を突っ込むな。この封鎖は、こっちの飯の種だ。飯の種を挟んで立ったら、あんたがどっちの側でも、もう商売の話じゃなくなる。——忠告は一度きりだ』
通信は切れた。返信要求もなかった。脅し文句の定型——家族の名を出すとか、艦の素性を暴くとか——は、最後まで一つも使われなかった。
「発信源の特定は不能です」ツクモが言った。「中継を三段経由しています。ただし通信規約の癖から、発信者は軍用通信の訓練歴を持つと推定します。放送設備は旧同盟軍の艦載規格です」
「……だろうな」
「脅迫として分類しますか」
「分類は任せる」
「では、警告として分類します。脅迫は相手を動かすための言葉ですが、これは線を引くための言葉でした。性質が異なります」
ヴェインは放送の間、操舵席で一度も動かなかった。再生が終わってからも、しばらく正面を見たままだった。何か言うかと思ったが、結局、当直の交代時刻まで一言も発さなかった。
ハルは記録をもう一度、頭の中で再生した。引っかかったのは脅しの部分ではなかった。死人の艦を狩るのがお前の仕事だろう——その一文の、正確さだった。
還らず艦を撃つとき、ハルは自分の仕事の正しさを疑わずに済む。相手は死者で、死者は飢えないからだ。だが封鎖の向こうにいるのは生きた人間で、封鎖そのものが誰かの飯の種だという男の言い分は、言い分として筋が通っていた。生きている人間同士の飯の取り合いに、正しい側というものはあるのか。テッサの配給の列と、海賊の炊事場の列は、同じ形をしているのではないか。
葬儀屋。死人の世話は、死人の世話のうち。
その言葉の正確さだけが、復路の三十八時間、ハルの中に小さな棘のように残り続けた。